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ミッチー

作者: 四木高秀

 私の小学生の頃のあだ名を思い出したのが、丁度その時だった。

 確か、ミッチーと呼ばれていた。「あめみやちさと」の「み」と「ち」を取って、「ミッチー」。他にもあったが、主流はこれだ。当時はえらく気に入っていたのに今の今まで忘れていたのは、環境の変化か、もしくは時間のせいか。

 多くの人がミッチーと呼んだ。当時、私を本名で呼んでいた人を思い出そうにも、親ぐらいしか思い出せない程、そのあだ名は浸透していた。

 「ミッチー」

 私のことを最初にそう呼んだのは、誰だったか。


 その日、有休を取り一日の自由を得た私は、しかしブランド店の紙袋を持つこともせず、おいしいものでお腹を満たすこともせず、ただ乗車カードに刻まれた電子マネーを減らしただけだった。一体、今日は何をしたのか。という自問が、私の意志に関係なくされていく。答えもでないのに、次々にされていく。

 もうすっかり裸になってしまった木々の下を歩き、その日の終わりを感じつつ、私は煙草に火を付ける。手が寒く、煙草を持つのも面倒だったので咥えるだけ咥えてライターと一緒にポケットに突っ込んだ。

 しかし口に差し込まれたその棒を、何故だか私は吸おうとは思えなかった。呼吸と一緒に煙が流れるだけで、吐き出されたそれに関しては白息と見分けが付かない。

 特に吸うわけでも無く、咥えるだけの煙草。そういえばいつから吸い始めたのだったか・・・。二十歳よりも後だった気がする。顔の前でゆらゆらと揺れる白煙に焦点を合わせながら、私は帰路のついでに過去を進み始める。

 初めての性経験は。

 初めてのお酒は。

 初めてのお給料は。

 初めての恋は。

 初めての友達は。


 そこまでいったところで、「ミッチー」と言う声を聞いた。目を向けると、柵を挟んだ向こうに、芝生で囲まれた運動場のグランドが見える。そこに、照明で照らされた大勢の短パンティーシャツの子供達。いつの間にか、駅から結構な距離を歩いたようだ。

 マラソンの練習の様だった。長い柵を隔てた向こう側からは、今まさに走り出そうという緊張感が伝わってくる。震えながら手をすりあわせている子達を見ても、しかし何故だか寒そうだとは思わなかった。事実、あの子達は寒くないのだろう。私も、あの頃は寒くなかった。

 暫く、立ち止まって「ミッチー」と言った子を探した。別に私が呼ばれたわけではないが、それでも、誰が誰を呼んだのか。煙草をゆっくり吸いながら、目と耳で探した。

 「ミッチー」

 もう一度呼ばれる。しかし、今度の声は野太い。小さな子供の声ではなく、大人の声だ。

そして、近い。

 呼ばれたのは、私だ。

 「ミッチー? ・・・雨宮じゃないか」

 「・・・お久しぶりです」

 私は慌てて煙草を落とし、かかとでもみ消す。バレただろうか。

 グランドを横切り、芝生を踏み歩き、柵の手前まで来たのは、私の小学校時代の恩師だった。

 当時、彼は若い先生ということもあって、生徒から人気だった。少なくとも、私は好きだった。エネルギッシュで格好良く、その上何でも教えてくれる、理想の大人だった。

 そして何より、私を特別に見てくれた。

 要はお気に入りだったのだ。私は。彼にとって。

 私が少しでも利口な行動を取れば褒めちぎり、他の子と喧嘩になった際には気付かれないように肩を持ってくれた。味方を嫌いになる子供はいない。大人との違いの一つだ。


 十数年の時を経て会った恩師と談笑しながら、私は比べる。大好きだった先生と、少し髪の薄くなった彼とを、比べる。

 変わらない。口調も、表情も、垣間見える考えも、笑い出すタイミングも、身振りも、当時のままだ。それもそうだろう。いくら若かったと言っても、大人は大人だ。数十年の時をもって構築された土台は、その後何年経っても揺るがない。その基盤に、新しい物が積み上げられてもだ。

 先生は変わっていない。

 なら、変わったのは私か。

 「いやあ。元気そうで良かったよ」

 少ないやり取りの後に、先生は言った。その後ろでは、スタートの合図を今か今かと待っている子供達が見える。何人かは、自分達の担任の話し相手に興味を持ち始めたようだ。

 「先生も、昔と変わらないですね。まだ走られるんですか?」

 先生の顎辺りに目線を向けながら、そう返す。

 「まあ、少しはね。ただ、最近それも辛くなってね」

 そう苦笑した後に、先生は「じゃあ、生徒待たせているから」とパッと明るい笑顔を見せる。

 私も、静かに頷いた。

 「じゃあな、ミッチー。元気にやれよ」

 「あ」と。

 思わず、言ってしまった。


 あ。そうだ。


 どうした? と戻ろうとしていた体をこちらにむき直す先生。

 私はそこで、意味もなく狼狽してしまう。

 言うつもりではなかった。ただ、気がついただけだ。

 逡巡した後に、私は口を開く。

 「・・・先生。私のそのニックネーム、付けてくれたのは先生でしたよね」

 答えの出ている質問だった。

 案の定、先生はそうだよと肯定した。

 私はなんだか無性に恥ずかしくなってしまい、うつむいて「ただ、それを思い出しただけです」と呟くしかなかった。

 少しの間、沈黙が続いた。風も止み、子供達でさえどこかへ行ってしまった。

 遡りかける時間を破ったのは、私でも先生でもなかった。

 「先生遅い!」

 女の子だ。私の小学生時代の様なおかっぱ頭の、小さなカワイイ女の子だ。

 彼女はちょっとふくれっ面だが、目は輝いている。怒りを表現しているだけであって、表情はそれとは全くの別物だ。

 彼女がまっすぐ先生の目を見ているのが、離れていてもわかる。

 「ゴメンゴメン。今行くよ」

 苦笑しつつ、先生は女の子に近づいていく。

 「もー」

 「ほら、先に行って伝えてきて貰える?ミッチー」

 最後の言葉は、少し小さかったように思える。風がもう少し強かったら聞かずに済んだのだろうに。

 女の子は。ミッチーは。元気よく返事してみんなの所にもどっていく。

 先生はこちらを振り返り、再度別れの挨拶をした。昔のままの笑顔で。私も笑みをつくり、それに答えた。まっすぐ、先生の目を見て。


 芝生を歩いていく彼を見ながら、私は煙草を取り出し、火を付ける。

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