駄洒落な事情
俺の名前は都南海。
都の南の海と書いて、トナンカイと読む。
どこからどこまでが苗字で、どこからどこまでが名前かというと、トナンが苗字でカイが名前である。
変な名前。
今、そう思っただろう。
俺もそう思う。この名前の保持者である、俺自身もそう思う。
いわゆる“キラキラネーム”に見えなくもない。
この世に生を受けてから18年。
俺の親はなんだってこんな名前を、かわいい息子につけたのか。
いや、俺はその理由を知っている。何故なら小学生の時に母親に直接聞いたからだ。
答えは簡単。
頭にくるほど単純。
俺の誕生日は12月25日。
12月25日といえば、そう、例のあの日である。
クリスマス、だ。
子供の頃、クリスマスとは、サンタクロースがトナカイの引くそりに乗って、世界中の子供たちにプレゼントを配る日だと教わった。
もうわかっただろう。
俺の苗字は都南と書いて、トナンと読む。そこにカイを足して、トナンカイ。
トナンカイ。トナンカイ。トナカイ。
語呂合わせ。
駄洒落。
オヤジギャグ。
母親は笑って答えた、“シャレよぅ”と。
悲しいかな。俺の名前は、忘年会の二次会でオヤジが自己満足のために繰り出したギャグと同じセンスを持って、命名されたのである。
まあこの名前だけだったら、まだ良いのだ。クリスマス以外の時期では、さほどクローズアップされることもない。ちょっと代わった名前だね、で済む話だ。
俺の本当の苦悩、本当の問題は別のところにある。
それはーー。
「おっはよ!海くん!」
「おわっ!」
背後から思い切り鞄で背中を叩かれた。
俺たちの周りを歩いていた制服姿の学生達が、俺の奇声に驚いて振り返る。俺は咄嗟に頭をぺこぺこと下げ、謝りのジェスチャーを振りまく。
「こらっ、雛子!周りのやつらに変人だと思われるだろう!」
声を殺しながら、俺はクラスメートの雛子を睨みつける。
雛子はそんな俺の視線に余裕の笑みを返し、姿勢正しく颯爽と歩いていく。
祭雛子。マツリが苗字で、ヒナコが名前だ。名前の由来は、3月3日が誕生日だからである。それは言わずもがな、雛祭りの日である。
俺と同じキラキラネーム臭がする姓名のせいか、クラスの女子の中では一番仲良くしている。いや、クラスどころじゃなく、こんなに気兼ねなく話せる女子は、正直、雛子しかいない。
「ねぇ、海くん。今年ももう、12月だね。12月といえばさ、都南海くん大活躍の月だよね」
2メートル程前を軽快に歩いていた雛子が振り返る。朝の太陽の光のせいか、その笑顔がやけに眩しい。
「大活躍って、別にそんなんじゃないだろう。ただ俺の誕生日月なだけだ」
「ふふ。まあ、そうだけどさ。でも12月といえば、やっぱりクリスマスは外せないわよね。プレゼントをもらって、ケーキを食べて。クリスマスツリーなんかも飾ちゃってさ。楽しいよね、クリスマス」
正直俺は、クリスマスを楽しいとは思わない。いや思えない。毎年12月25日が近づくと、憂鬱な気分が増すだけだ。
「やっぱりクリスマスって特別だよね。だって起源はどうあれ、日本では恋人達のためのイベントでしょう?」
意味ありげな微笑みを俺に向ける雛子。
これってもしかして、俺の事、誘ってる?
高校3年生の俺たち。年が明ければ大学入試が待っている。
誰かと付き合うなんて、恋人を作るなんて、好きな人とイチャイチャするなんて、受験生にはご法度だ。そんな時間があるなら勉学に励まねばならない。やることはたくさんある。学校に行って、放課後は宿題をして、夜には塾に行って。
だけど、そんな受験戦争真っ只中の俺たちにも、休息は必要……だよな?
「ひ、雛子。もしかしてクリスマスの夜、あ、空いてたりするのか?」
どもってしまったが、俺は聞いた。一世一代の勇気を込めて、というかそんなものを込める間もなく、理性よりも欲望が突っ走って、口が勝手に開いていた。
しかし俺の場合、冷静に考えたら、クリスマスに誰かと過ごすなんて事はしてはいけないのだ。
現に雛子と会話をしていている時も、頭の半分ではそのことを考えていたじゃないか。
俺は馬鹿だ、ど阿呆だ!
「うん。ばっちり空いてるよ。予約ならお早めに!」
雛子の笑顔は眩しすぎた。
冷静沈着という俺のモットーなど軽く吹き飛ぶくらいに、今朝の雛子は輝いている。
俺は頭の中が沸騰するような錯覚を覚えつつ、クリスマス、祭雛子予約しましたぁ!と叫んでいた。
後悔先に立たず。
先人の格言とは、なんて核心を突いているのだろう。
月日はあっという間に流れ、今日はいよいよクリスマス。
今年の12月25日は平日で、この日はお互い塾を休む事にした。さすがに学校を休む訳にはいかないので、デートは授業が終わった後、4時に最寄り駅で待ち合わせをすることにした。
週末、軍資金調達のために、俺は部屋中をひっくり返した。小学生の時にやっていた500円玉貯金が見つかる。小学生の俺、偉いぞ。
そんな訳で、無事にプレゼントも買えたし、当日使える金の目処も立った。
準備は万端である。
ウキウキとした気分は、毎分ごとに強まっていく気がする。
しかし俺は同時に、強い後悔の念にさらされていた。
せっかくのクリスマス。せっかくのデート。
雛子は俺のことをどう思うだろうか?
キモイーー。
きっと、絶対、本気で、そう思うだろう。
「かーいくんっ!」
駅前のロータリーで物思いにふけるていると、背後から雛子の声がした。
「お、おう」
「うふふ」
雛子は超絶にかわいかった。
フリルのピンクのミニスカートに、真っ白なショートコート。雛子はどちらかと言うと、男勝りの体育会系の女子かと思っていた。
しかし今、俺の目の前にいる雛子はまさに女の子という風貌で、相当にかわいい。制服と私服でこんなにも女は変わるものなのか。ギャップ萌え……。俺の心臓がドクドクと唸る。
「あれー、カイくん。マスクなんかつけてるー。そういえば今日は学校でもマスクしてたね。風邪でもひいたの?」
「い、いや。そうじゃないんだけど......」
「かっこ悪いから取っちゃいなよ。今日はせっかくのデートだよ?私、海くんの顔、ちゃんと見たいな」
下から覗きこむようにして、俺の顔をまじまじと見る雛子。
確信犯、だろうか。
最早、これは俺の知っている雛子ではない。
いや、知らなかった雛子の一面を、今この瞬間、新たに開拓しているということだろうか。
俺は雛子の視線の上で泳ぎながら、マスクへとゆっくり伸びていく自分の手を、人事のように数秒間観察していた。
「だ、ダメだっ、このままでっ」
マスクの端をめくり上げた瞬間、冷たい空気がマスクと肌の隙間から入りこみ、俺の鼻を刺激した。冷気を感じた途端に、夢の国へと舞い上がりかけていた俺の意識は、地上へ向けて強制退去させられる。俺は慌ててマスクを元の位置にフィットさせた。
「海くんたら、つまんないのぉ。別にいいけどさー」
明らかに不満な表情を浮かべつつ、雛子はそっぽを向く。
デートはまだ始まったばかりだというのに、既に破局の危機なのか?!
「ごめん、雛子。ちょっとこれには深い訳があって......」
「えっ?!なになに、深い訳って?!都南海くんには、人には言えない何か特別なことがあるの??」
先ほどの表情とは打って変わった好奇心丸出しの笑みを浮かべて、雛子が振り返る。
「と、とにかく、早く電車に乗ろう。映画に間に合わなくなっちゃうぞ」
「それもそうね」
あっさりと引き下がり、スタスタと切符売り場へと歩いていく雛子。切り替えが早い。俺はマスクの下で、大きく安堵の溜息を漏らした。
「面白かったねー!」
「ああ」
無事に映画の上映時間に間に合った俺たちは、2時間弱の映画を見終わり、ぞろぞろと出口に向かう人の群れに乗ってゆっくりと並んで歩いている。
どんな映画をチョイスするか物凄く迷ったが、結局雛子の希望でディズニーの最新作を見ることになった。
暗がりの中、好きな子と並んで2時間座り続けるというのは、何とも形容しがたいムズムズとした気持ちにさせられるものだ。
横を向けば、雛子の顔がすぐ近くにあり、手を少しだけ伸ばせは、雛子の手に触れることが出来る。雛子は今何を考えているだろう。
自分の本能に従う勇気と、相手の気持ちを自分勝手に解釈する図々しさがあれば、俺はこの手を伸ばして雛子に触れる事ができる。
25センチ。
たったそれだけ俺の右手をスライドさせれば、雛子の左手を取る事ができる。
手を動かすべきか、否か。
欲望に沿うべきか、否か。
恥ずかしい。
だけどこのチャンスは逃したくない......!
映画には全く集中することなく頭の中で葛藤を繰り返し、結局2時間の暗がりタイムは、何事も無く終了してしまった。
俺はチラッと横目で雛子の表情を観察する。残念がっている素振りでも見えはしないかと期待をしたが、残念ながら、そんな様子は微塵も感じられない。
純粋に映画を楽しんだらしく、映画の感想をああだこうだと述べている。
俺は映画の内容など全く頭に入っていなかったから、雛子の言う事にただ頷くしかない。
それにしてもこんなに熱心に映画を見ていた雛子に対し、俺はいったいこの2時間何をしていたのか。なんだか雛子に対して申し訳なくなってきた。しかしここで謝ったりしたら、雛子を戸惑わせ、挙句の果てには怒らせてしまうことになるやもしれない。ここは、無難に次のプランへ移行した方が良いだろう。
「飯、行く?」
「うん、実は私、凄くお腹すいてたんだ。何食べよっか?」
外食と言ったらファーストフードにしか行かないような俺だ。どこぞの三ツ星レストランなど知るわけがない。しかし俺には下調べの時間があった。準備は万端である。
「じゃ、そこの吉牛で」
「は?」
「なーんちゃって......」
雛子の目がつり上がっている。慣れないジョークなんて挟むんじゃなかったか。
「冗談だよ、冗談。良さそうな店、見つけたんだ。イタリアン。いいだろう?」
「イタリアンか、うん、良いね」
もちろんその店に行った事などないが、俺は食べログのレビューを信じて予約をしておいた。携帯で場所を確認しながら人ごみの中を歩いていく。五分ほどで目的地へ到着した。
「へー、かわいい。海くん、よくこんな店知ってたねー」
「まーな」
何がまーな、だと自分自身にツッコミを入れつつ、店内へ足を踏み入れる。女の子を連れての外食なんて、人生初の試みだ。心臓がいつもとは違う高速リズムで動いている。
予約している旨を伝え、窓際の二人席へ通される。向かい合わせに座ると、当たり前のことだが、真正面に座る雛子の顔が真っ直ぐに視界に入ってくる。
「何、食べる?」
雛子が頬杖をつきながら、俺の顔を見つめる。
「確か、クリスマスディナーコースっていうのがあったはず」
ネットに記載されていた情報を思い出しながら、俺は目の前におかれたメニューへ視線を落とす。ページをめくると、確かにクリスマスディナーコースというのがあった。一人5千円。なかなかの値段だが、500円玉貯金のおかげで、今日の俺は無敵だ。
二人分のコースとジンジャーエールを注文する。
程なくして飲み物が運ばれてきた。雛子が嬉しそうにグラスを掲げる。
「海くん、メリークリスマー......」
「って、おい!」
俺は思わず声を上げた。
マスクが、マスクがっっ!
マスクをしていたら、飲み食いできないじゃないかっ!
俺はなんて阿呆なんだ。今日は絶対にマスクは取る事が出来ないのに!!
「どうしたの?海くん?それにさ、乾杯するんだからマスクとらなきゃ」
それはそうなんだが、それができないから焦ってるんじゃないかっ!
「海くん、どうしたの?花粉症だか、風邪なんだか知らないけど、食べる時くらいマスクしなくても大丈夫でしょう?」
焦る俺とは対照的に、冷静にマスクを取る事を促す雛子。
どうしたらよいのか。もう料理は注文してしまったし、今更キャンセルなんて出来ないだろう。それに俺も腹はへっている。それに何より、この雛子との貴重なクリスマスのデートを、マスクが取れないということで終わらせたくはない。
俺は馬鹿か?
いやむしろ俺は大馬鹿だ。
初デートに浮かれて、頭の中のシュミレーションだけきっちりとこなし、この呪われたクリスマスに何が起こるかを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
いや、忘れていたのではない。
厳密には覚えていたのだが、現実逃避をしてしまっただけだ。
18歳の俺には、雛子とのデートという目の前にぶらさがる人参欲しさに、自分の目の前に迫り来る脅威から目をそらしてしまっていた。それに、今年はこの呪いが起きない可能性もゼロではなかったのだ。そのわずかな可能性に賭けていたことも確かである。
ダメだ、ダメだ。現実を見なくては。
物心ついた時から毎年必ず起きるこの不可思議な現象は、今年も例年通りに俺の体に異常事態をもたらしていた。
ああ、もう、どうすればいいんだ!
「あれ、海くん。なんか鼻のあたりおかしくない?マスクからなんか赤く透けて見えるよ」
「えっ?!」
遂に気付かれてしまった。
俺の儚い夢のひと時は終わった。
じっと俺の鼻を見つめる雛子の視線に耐えかねて、俺はむっつりと下を向いた。
気まずい沈黙が流れる。
店内を流れる、クリスマスの陽気な音楽が意識の遠方で聞こえる。
「マスク、取っていい?」
雛子の優しい声と共に、彼女の指先がマスクの端に触れた。
俺は何も言うことができず、ただ黙って彼女の瞳を見つめた。
何も言わない俺の態度をイエスと受け取ったのか、雛子はゆっくりと俺のマスクを顔からはがしていく。
俺の顔はアンパンマンのように大きくはない。ほんの数秒でマスクは剥がされ、素顔が雛子の前にさらされた。
「海くん......」
マスクを取った俺の顔をまじまじと見つめ、雛子は押し殺したような声を上げる。
「おかしいだろう?俺の鼻......」
投げやりな気分で、俺は吐き捨てるように言った。
「都南海くんのお鼻が真っ赤か……真っ赤なお鼻の都南海さん......」
真っ赤なお鼻のトナカイさん。
そう、その通りなのだ。
俺は“真っ赤なおっはっなーの、トナカイさーんーはー♪”というクリスマス恒例のあの曲を、まさに地で体言しているのである。
俺の名前は、都南海。
その俺の鼻が真っ赤になる。
文字通り、“真っ赤なお鼻のトナンカイさん”なのだ。
一年の364日はいたって普通の鼻なのだが、どうしたことか、年に一日だけ、真っ赤に赤く膨れ上がる。クリスマス限定で起きる奇妙なイベント。奇怪な病気。
そう、これは世界でも発症例の非常に少ない奇病なのである。
「......病気なんだ。この鼻......」
こんな恥ずかしい鼻を好きな子にさらけ出してしまったことで、俺の心は絶望という暗黒に飲み込まれようとしていた。
「おかしいだろう?真っ赤に膨れ上がって。まるで作り物みたいだよな、まん丸の赤い鼻。まさに、真っ赤なお鼻のトナカイさんだよ」
「都南海くん……」
同情心からか、気遣うような優しい声で雛子が俺の名前を呼ぶ。
名前……うん?今何故かフルネームで呼んだよな?しかも気のせいか、“ん”の発音がやけに小さかったような。
「笑いたきゃ、笑ってもいいんだぜ。むしろ大声で笑い飛ばしてくれよ!そうすれば俺もなんとか笑って済ませられるかもしれないからさ!」
「でも、病気なんでしょう?それならしょうがないよ。私、都南海くんのことを笑ったりなんかしないからっ!」
「雛子......!」
“ん”をやけに小さく発音しながらの、フルネームの呼びかけが気になるが、雛子は理解を示してくれた。なんてありがたいことだろう!
「その病気のこと、詳しく聞かせてくれる?」
「ああ、もちろん!」
俺は思いがけない雛子の反応に感動した。
こんな漫画か絵本に出てくるような真っ赤な鼻を目の前にしても、笑ったり、逃げ出したりしなかった雛子。この奇病を抱えて、俺は18年間生きてきた。家族以外の誰にも言えないコンプレックスだったのだ。それがどうだろう。目の前に優しい微笑みを浮かべて座る雛子は、天使なのではないだろうか?いや、天使どころではない。雛子は俺の女神だ!
「これはトナカイ病といって、世界でも数例しか症例の確認されていない奇病なんだ。症状はシンプルで、クリスマスの24時間だけ、鼻が真っ赤に膨れ上がるというもの。痛みや痒みは全くない。ただ鼻が腫れるだけ。24時間我慢すれば自然に元通りになる。今のところ特効薬はない。そもそも何故こんな症状がクリスマス期間限定で発生するるのか、原因も全然わかってないんだ」
俺は一気に説明する。
雛子は心底驚いたように目を大きく見開きながら、俺の話を聞いている。
「命に関わる病気だったりしたら、研究ももっと進むんだろうけどな。それにしてもクリスマスに必ず発症するってのは、酷い話だよな。こんな酷い見てくれじゃ、デートもろくに出来やしない......」
「私、気にしないよ」
雛子の笑顔に後光が射してる。
俺はこの雛子の言葉と笑顔を一生忘れない。涙腺が思わず開きかける。
「誰だって、奇病の一つや二つ持ってるんじゃない?」
「……えっ?」
「海くんが自分の病気を隠してたように、それが珍しい病気であればあるほど、みんな自分の病気を隠すんじゃないかな?だから表面上はわからないだけで、実は皆、色んな病気を抱えてる、ってことは在り得るんじゃないかな」
真っ直ぐな雛子の視線に、俺はたじろぐ。
なんだろう、この言葉に出来ない違和感は。
「......ふふ、なーんてね。ま、そんな珍しい病気、誰も彼もが持ってるはずないよね」
「あ、ああ」
「うん。それにしても海くんの病気はすっごく珍しいね!目の前で実際に見なかったら、そんな病気があることなんて信じなかったよー」
「だよなぁ」
ははは、と俺たちは声をあげて笑った。
そこへちょうど、前菜のサラダが運ばれてきた。
乾杯もまだしていなかった俺たちは、グラスを鳴らし、改めてメリークリスマスと言い合う。その後は俺の鼻のことには触れず、クラスの奴らのこと、模試の結果のこと、大学に入ってからのことを話した。そんな他愛もないけれど楽しい会話が続き、俺は年間ベスト3に入るであろう充実した時を過ごすことが出来た。
「家まで送るよ」
「うん」
俺たちの家は近所だった。徒歩での行き来も可能な距離である。
最寄駅を下りると、並んで歩きながら雛子の家へ向かう。
「ちょっとだけ、寒いね」
「ああ。でも、雛子がくれたマフラーのおかげで、俺は暖かいよ」
「私も、海くんがくれたイヤーマフのおかげでとっても暖かい」
見つめ合う俺たち。
これは、相当に良い雰囲気だろう。
いってもいいよな?
ここは一歩踏み込むべきだよな?
自問自答しながら、俺は雛子のことを観察する。
パンダの滑り台がある公園が見えてきた。
「ちょっと滑っとく?」
俺は気軽さを装って雛子の手を取り、公園内のパンダの滑り台へ向かって駆け出した。雛子の手は、しっとりと温かい。背中のすぐ後ろから聞こえてくる、雛子の笑い声が心地よかった。
滑り台のところまでくると、雛子の手を離した。二人とも少しだけ息が上がっている。
雛子は、滑り台の支柱に背中を預け、俺の顔を見上げる。
今でしょ!
何とかハイスクールの某講師の言葉が浮かんだ。
俺は丹田に力を込め、雛子の顔へそっと自分の顔を近づける。
「あ......」
雛子と俺が同時に呟く。鼻が、俺の真っ赤な丸い鼻が、目的を達成する一歩手前で、雛子の鼻をつついたのだ。
「ご、ごめん、俺の鼻、邪魔だな」
恥ずかしさのあまり、鼻だけでなく顔全体が赤くなる。
「ううん、大丈夫。ちょっと横向けばいいんじゃないかな......」
ファーストキスという、人生最大のビックイベントを妨害するこの鼻へ、俺は心の中でありとあらゆる暴言を吐く。同時に体の方は、雛子のアドバイスに従い、再度アプローチを試みる。
「雛子、好きだよ......」
自然とそんな言葉が出た。
恥ずかしそうにはにかむ雛子の笑顔が、これまた痺れる。
キス。
ファーストキス。
雛子の唇の柔らかさに俺はクラクラしながら、たった2秒の触れ合いを、俺は心の底から喜んだ。
「高校を卒業しても、大学に行っても、ずっと一緒にいような」
俺は本気の大真面目で雛子へ伝える。軽い気持ちで、ましてや勢いなんかで言ったのではない。
こんな俺の奇病に臆することなく、笑い飛ばすこともなく、受け入れてくれた女の子。雛子は特別だ。こんなに良い子には、きっとこの先の人生、二度と巡り合うことはないだろう。
「うん。ずっとずっと一緒だよ。何があってもね」
「ああ、何があってもだ」
雛子の笑顔は相変わらず眩しかった。
それから約3ヶ月後。
受験も無事に終わり、俺も雛子も無事に第一志望の大学に合格した。
クリスマスのデートの後、俺たちは順調に愛を育んでいる。
順風満帆。
受験勉強で暗記した四文字熟語が、心地よく頭の中を流れる。
そして今日は3月3日の雛祭り。
雛子の誕生日である。
雛子のフルネームは、祭雛子。
雛子は俺と同様、誕生日と苗字の兼ね合いから、こんなキラキラネームもどきを命名された同志でもあるのだ。
今日はもちろんデートの約束をしていた。授業の後、待ち合わせて出かける予定だった。
しかし雛子は学校に現れなかった。
携帯へ連絡するが、返答も応答もない。不安が心に広がる。俺は授業をサボって雛子の家へと向かった。
オートロックマンションのロビーでインターホンを鳴らすと、しばらくして雛子が応答した。
「玄関の鍵は開いてるから、勝手に入ってきてくれる?私、自分の部屋にいるから」
普段と変わらない様子である。そのことには安堵しながらも、こんな大事な日に、何故連絡が取れなと、一言言いたい気持ちにもなる。
そんな複雑な思いでエレベーターに乗り込み、とにかく雛子の住む階へと向かった。
勝手に入ってとは言われたが、一応ドアベルを鳴らしてから玄関のドアを開ける。
人の気配のない廊下。雛子の部屋は右奥だ。
「雛子?」
10センチほど開いていたドアをノックをしながら、返事を待つ。
「入っていいよ」
雛子の声を聞いた途端、今までの複雑な気持ちは一瞬で消え去った。
受験も終わり、自分の誕生日くらい羽を伸ばしたかったのだろう。だから学校はずる休みしたのだ。それに連絡がつかなかったのはたまたまだろう。
俺はゆっくりとドアを開けた。
ドアを開ければ、そこには満面の笑みで俺を迎える雛子がいるはず......!
「雛子、ハッピーバースでぇ……って、えっ?!」
――鳥?
雛子の姿はどこにも見えない。
代わりに、小さな黄色い鳥が、ベッドの真ん中に鎮座していた。
黄色いインコ?
いや、インコよりももっと大きい。しかし柔らかそうな綿毛に覆われていることから、何か別の種類の鳥の雛であるようだ。
ひ、ひな......?!
「海くん。前に奇病を患ってるのは、海くんだけじゃないって言ったよね?」
ベッドの上にちょこんと居座るヒナが、しゃべっている。
「私、3月3日の二十四時間だけ、ヒナになっちゃう奇病なんだ」
「雛祭り......だけに?」
「そう」
鳥の表情なんて分かるわけはないが、その時確かに目の前のヒナは笑った。
どうやら誕生日が自分の名前とリンクしてしまう奇病を患っていたのは、俺だけではなかったらしい。むしろ雛子の方が重症であろう。人間がヒナになってしまうのだから。
「私達、これからもずっとずっと一緒だよね?」
俺と雛子が子供を作ったら、赤鼻のヒナが生まれるのだろうか。ヒナに鼻は無いけれどーー。
そんなジョークのような将来を考えながら、俺はそっと黄色いヒナに手を伸ばす。
手の平に乗ってしまうほどの小さな存在。
ちょっと力を込めれば壊れてしまう、もろい小さな命。
ヒナの雛子は、まっすぐに俺を見つめる。
信頼。不安。恐怖。
色々な感情が、つぶらな瞳に映し出される。
いや、それは俺の気持ちが反映されただけなのかもしれない。
同情。安心。希望。
まあ、俺たち似たもの同士。将来子供が出来ても、誕生日にちなんだ名前をつけることだけは止めような。
「ああ、雛子。俺たちはジョークみたいな奇病を抱えてるけど、俺の気持ちはジョークなんかじゃ終わらないぜ」
そんな鳥肌が立つような冗談まがいのセリフを吐き、俺は綿毛のようなヒナの雛子にキスをした。