第五話
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「有月君! 有月君はいるかな!?」
学園教室棟の最上階、一番端にある誰も近づこうとしない寂れた元資料室の扉を開けて、怠惰は大声を上げた。
部屋の中は、人の座るための赤いソファの上以外は、足を踏み入れるのも難しいほど、本や資料に溢れかえっている。
少ない空きスペースの一角、絶景が見える窓辺に、深窓の令嬢を思わせる長い黒髪を携えた白衣の女の子(?)が日の暮れた外を眺め、立っていた。
怠惰の呼びかけに反応したその子は、くるりと身を翻すと、ニカリと男前な表情を見せた。彼女――否、彼は男である。
「おお、怠惰殿。やっと、戻って来おったか。まったく、部長が部を抜けてどうするんじゃ? 他の者も呆れて負ったぞ」
有月と呼ばれた少年は、随分と年寄り臭い喋り方で、怠惰を出迎えた。
怠惰は、慣れた調子で本の隙間を抜け、ソファに腰掛けた。
「そんなことは、どうでもいいのだよ。それより、どうも私がチャームを受けたらしい。それも、普通の人間にだよ。どうやって、受けたのか知りたい。悪魔の私に、予備動作もなく掛けるなど……。私の体を調べてほしい」
「突然戻ったかともうと、また随分とおかしな話じゃのう? じゃて、わしは、科学者じゃ。術に関しては、別の者に聞かんとわからんじゃろうて。陰陽師の言羽殿などに、聞かれるのが良かろう」
「彼女は、何処にいる?」
「もう帰っておるわい。恋人の喫茶店が閉まるのと同時に帰るのが、彼女の習慣じゃろうが?」
「そうだったね。もう少し、早く来るべきだった……」
「なんじゃ、まったく。怠惰殿ともあろうお方が、何をそんなに焦っておる? それに、なんじゃ? なぜ――先程から泣いておる?」
指摘され、怠惰は自分の目元を拭った。
確かに、その手には、涙が付いてきた。
「な、なんだ、ろうね……これは?」
怠惰の声が、次第に震え始めた。
「私が、私が泣く理由なんて、思い、思い付かない、のに……」
体まで震わせ始めた怠惰は、ソファの上で自らの身をグッと掴み、顔を伏せた。
白い羊は丸まり、小さく小さく怯えていた。
◇◆◇
久遠ヶ原学園の映像処理室で、世那は食い入るように画面を見詰めていた。
9台のモニターには、陽報館で撮影された映像が永遠と流されている。
その再生速度は、通常の数十倍に上げられており、プライベートなど完全に無視したこの映像でも、動きを追うのがやっとという程である。
ここから、何かを汲み取ろうというにはかなり困難で、余程はっきりとした目標がない限りは、不可能という他なかった。
開け放たれた入り口をわざとノックし、生徒会長・神楽坂茜は、部屋の電気を点けた。
先程まで、モニターのみでぼんやりと揺らいでいた映像室に、生気のある光が戻った。
世那は周りの変化などお構いなしに、ひたすら映像を繰り返し再生している。
「世那さん、なにか、見つけられましたか?」
世那は、茜の言葉を無視した。
茜は腕を組み、額の眉を寄せた。
生徒会での世那は礼儀正しい。
正し過ぎると言っていいほどに、硬っ苦しく。すべての呼びかけに答えるのが、彼女の流儀であった。
そんな彼女の無視は、異例であり、異質であることをわかりやすく示していた。
「世那さん?」
二度目の呼びかけで、モニターが一斉に停止した。
脈絡のない画面のひとつだけに、世那が微笑む画像が映しだされている。
「会長――私は、ミスを犯しました」
「ミス、ですか?」
「はい。現代の映像機であれば、問題なく天使も悪魔も映しだすことが出来る。だから、どんな事態も逃すことがないと信じていました。ですが、どうやら、過信だったようです」
「なにか、撮り逃した物があったんですね?」
「はい」
「なにを、取り逃がしたんですか?」
「わかりません」
「えっ?」
「私には、一体なにを逃しているのか、わからないのです」
くるりと座っていた椅子を回転させ、茜に向き直った世那の顔は、無表情だった。
「一体、私は何を失くしたのでしょう? 一体、この映像に何が欠けているのでしょう? また、私は、大事なモノを失ったのでしょうか? 会長――助けてください……」
目の端から涙が零れた。
それは、たった一筋。
だが、それを皮切りに、決壊した堤防は世那の顔を紙のようにぐしゃぐしゃにした。
人の目を、気にする必要もない。
二人しかいない映像室で世那は、声を枯らして泣いた。
頬を擦り寄せるようにして微笑む画面の中の世那。
その隣に人を成す、影も形も見当たらなかった。
◇◆◇
「うへへっ、恋音ちゃん、柔らかいにゃぁ~」
「……うっ~、武田先輩……痛いですよ……」
美月は、恋音を引き摺るようにして抱きしめ、人工島の商店街を歩いていた。
「こんな妹が、欲しかったんだぁ~。今晩は、お姉ちゃんが一緒だよぉ~。楽しみだねぇ~」
袋井のいる寮に戻りたくないと話した恋音は、今晩、美月の住んでいる部屋に泊まることになった。
なにも持ち出して来ていないため、「お泊りセットが必要だよ!」という美月の提案に従い、街にそのまま繰り出していた。
「……武田先輩……なんか、少しおかしくないですか……?」
「気にしなくていいわ。この子は、たまにこうなるのよ。危害は、私が加えさせないから、安心して」
美月に絡みつかれている恋音の隣には、赤い髪を後ろで束ねる紅いメガネの長身の女性が、一緒に歩いていた。
シワのない白いブラウスを来た姿勢正しい女性は、音を立てるようにキビキビした動きで、二人を先導している。
美月と同じ寮で同じ部屋を共有している暮居凪だった。
美月が、今日後輩を泊めると電話した所、恋音達の前に飛んできたのである。
「凪さんはねぇ、笑顔で怖いの。恋音ちゃんも、気をつけてね」
「ねぇ、美月。寝袋ひとつ買っていったほうがいいんじゃない? 今日、外で寝るなら、冷えるわよ」
「な、なにを、おっしゃっているのかわからないなぁ~。今日は、三人で、静かに、同じ部屋に泊まるだけだよぉ~」
「あら、そうなの? 美月は月乃宮さんのために、外で寝なさいよ。私はその方がいいと思うわ」
「……勘弁して下さい」
青筋を立てた笑顔の凪は、美月の気分を静かに沈静化させた。
「でも、不思議な組み合わせね、あなた達。依頼とかで一緒だったのかしら?」
「一緒の時はあったよ。でも、今回は共通の友人の問題。ちょいと、変なことがあってね」
「ふぅ~ん。一体、今日、何してたの?」
凪の何気ない質問に、二人ははたっと立ち止まった。
二人の妙な反応に、凪は振り返って、首を傾げた。
鳩が豆鉄砲を食ったように、二人は驚きの表情で、硬直している。
「あれ? 今日、私達、何してたんだろう?」
「……なにか、ずっと一緒に見――」
呟いた所で、恋音は膝をガクリと落とし、路上に突っ伏した。
風船が割れるように唐突に、叫びを上げて涙を流す恋音。
冷静な凪も、放心状態だった美月も、その叫びに圧倒され恋音に駆け寄っていた。
「恋音ちゃん! なに!? どうしたの?」
「月乃宮さん!?」
頭を抱え、イヤイヤと首を振り続けた恋音は、反り返るようにして空に首をつり上げた。
白目を向き、天を仰ぐ恋音は、ゆっくりと意識を失った。




