微睡の中で
『ワタシ』の最初の記憶は温かい水の中だった。
まだ『私』の記憶が強すぎて、いったい何が起こったのか全く理解することができずに其処にいた。
いつから其処にいるのか。どれだけ其処にいるのか。何も分からずにワタシは其処にいた。
温かい水の中を漂う感覚を肌で感じ、微睡に身を任せて『ワタシ』は『私』の一生を映画のように見ていた。
『私』が生まれてからどう育ってきたのか、何が好きで何が嫌いか、どんなことを思い何に笑い泣いたのか。
思い出せば出すほど『私』の心が悲鳴を上げ悲しんだ。
だけどその悲しみを癒すことはもう『私』とはいえない『ワタシ』にはできなくて、理屈ではなく心がそう理解してワタシは只々悔しくて泣いてた。
残してきてしまった人のことを思って。先に死んでしまった親不孝を嘆いて。何とかしたいのに何もできない無力感に苛まれて。悲鳴に近い声をだして泣いた。
何も残せなかった。
何の恩返しもできなかった。
きっと悲しませてしまった。
そんな『私』の思いが苦しくて遣る瀬無くて心が押し潰されるくらい悲しかった。
周りの水に声も涙も吸い込まれても、周りのことなんか気に掛ける余裕もなくワタシは只々泣いていた。
どうして死んでしまったのに『私』の意識があるの、と。
何で狂ってしまえないの、と。
大事な人にもう会うことができないのに。
声を聴くことも、どんなに望んでも、もう姿を見ることもできないのに、何で『私』はこんなところにいるの、と。
後悔なんて言葉では言い表せないほどの激情に襲われて、悲しんで悲しんで、悲しみに塗りつぶされるようにワタシの体は弱っていった……。
『私』の願いの通り弱った『ワタシ』はあと少しで本当に消えそうで、そのことに正直ホッとして。
これで本当に終われると、そう本気で思ったから。
もう感情を高ぶらせなくてもいいと、悲しまなくてもいいのだと。
これでもう後悔に苦しまなくていいのだと。
本当の意味で眠りにつけると体から力を抜いたとき、初めて自分以外の存在を感じさせる微かな音に気が付いた。
最初は何の音か分からなかったけど気が付いてしまうとその音が一体なんなのか気になってその音を確かめようと意識を集中していた。
だから気が付くことができた。『ワタシ』を案じるその沢山の声に。
『悲しまないで』
『何が悲しいの?』
『消えないで』
『一人じゃないよ』
『一緒にいるよ』
そんな言葉がいくつもいくつも気泡のように浮かんでは消えて、だけど途切れることはなく聞こえてくる。
まるで祈りのようにその言葉。その言葉に籠められる思いを『ワタシ』はとても羨ましいと思った。
『私』はもう誰にもそんな風に気にかけてもらえないから。
『ワタシ』はこのままいけば『私』の願い通り消えるだけだから。
いったいその声が誰に向けられたものなのか分からない。だけどすごく羨ましいと思った。
思ってもらえる人がいるなんて幸せな人だな、と。
『私』の時はもう終わりだけど、もしも次があるならその時はまたこんな温かい人たちの傍がいいな、なんて思えてワタシの中の悲しみが少しだけ癒された気がした。
どのくらいの時間その言葉を聞いていたのか分からないけど、優しいその言葉の数々にやっとワタシは心の整理をつけることができた。
だから『もういいや』って、悲しいけど『私』の人生はどんなに嘆いても終わってしまった過去。ずっとウジウジ悲しんでたら残された人たちにも申し訳ないって思えるようになったから。
うん。不可抗力とはいえ置いてきてしまったワタシがいつまでもウジウジしてるのは『私』を大切にしてくれた人たちをもっと悲しませることだと思うから。
そう思うことができるようになれたその声に心の中で感謝をしていると、まるでワタシの言葉に反応するように喜びの声が、安堵の声がかけられあの言葉はワタシに言っていたのだと初めて気が付かされた。
『良かったね』
『これでもう大丈夫だね』
『元気になって良かったね』
顔は見えないのに、その弾んだように聞こえる声音で声の主の人たちが嬉しそうなのが分かる。その声はまるでワタシに話しかけてるかのようで
どうして?
知らない人たちの筈なのに、何でそんなに嬉しそうなの?
もうワタシを気遣う人には会えないと思っていたのに。
その事実にワタシの頬に知らず温かいものが流れる。
嬉しくて泣くなんてきっと初めてで、悲しみに囚われていた時には気が付けなかったけど近くに寄り添う沢山の気配にやっと気が付いた。
心に比例して冷えていくワタシの体を温めようと寄り添う幾つもの気配。
『私』は知らないはずの存在の筈なのに『ワタシ』は知っている気配。
ああ、これが『ワタシ』の家族なんだって分かった。
ワタシに消えないでほしいと願ってくれるワタシの家族。
何も確かなものなんてないけどこの声の人たちがワタシの家族なのだと本能が訴えかける。
『私』が『ワタシ』として新しい生を授けられたのだと新しい人生に生まれ変わったのだとやっと気が付けた。
それが『ワタシ』の最初の記憶。