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第9話:塵の足音と、最後の蓋


 ガルベス子爵の身柄が確保されてから、三日が経った。


 その三日間は、意外なほど静かだった。


 静かすぎた、と言ってもいい。


 王都の腐敗貴族連合の主軸を失った後、残りの末端たちは蜘蛛の子を散らすように動いたが、それらはすでにシリルが「分別済み」の状態で国王直属部隊へと引き渡している。ゴルミ男爵の供述も整理が終わり、ヌカルス子爵については任意での事情聴取が始まっている。


 国内の大きな汚れには、おおむね蓋ができた。


 だが、私の扇子が止まったことは、この三日間で一度もなかった。


(静かすぎる部屋には、必ず理由がある。掃除をしていて、ゴミが見つからない時は、見落としているか、まだそこにないかのどちらかですわ)


 私は書斎の窓際に立ち、秋の王都を眺めながら、扇子を緩やかに動かしていた。


「お嬢様」


 シリルが書斎に入ってきた。


 その顔が、いつもの完璧な笑顔ではなく、わずかに引き締まっていた。


 私はすぐに扇子を閉じた。


「報告ですか」


「はい。二点ございます」


 シリルが書類を机に広げた。


「まず一点目。ガルベス子爵の取調べの中で、新しい名前が出てきました」


 私は机に近づき、書類を覗き込んだ。


「……エスト」


「はい。フルネームは不明ですが、ドレインの中で子爵と連絡を取っていた人物の呼称です。子爵によれば、フォル・ネビュラに拠点を持ち、国境を越えた物流を管理している。……ドレインの『中間管理者』に当たる人物とのことです」


(汚水管の途中に、詰まりを管理する者がいる。排水溝のブラシを持っている者が、別にいる、ということですわね)


「人相は?」


「判明していません。子爵は一度も直接会ったことがないとのことです。全て書面と、仲介者を通じた連絡でした」


「仲介者は」


「料亭の主人です。既に身柄を確保しています。ただし、料亭の主人もエストの顔を知らない。書状の受け渡しだけを担っていたようです」


 私は書類を置いた。


「二点目は?」


 シリルが、一拍置いた。


 その一拍が、私に今日の本題がどちらかを教えた。


「モモ・ダスト嬢の動向です」


   * * *


「昨日の夕刻、モモ・ダスト嬢が侯爵家の顧問弁護士――ナジュミ・カスミ氏と、王都内の料亭で面会していたことが確認されました」


 シリルが静かに言った。


「カスミ弁護士と、ダスト嬢が直接」


「はい。これが初めての確認ではない可能性があります。ただし、これまでは二者の間に直接の接触記録がありませんでしたので」


 私は椅子に腰を下ろした。


(モモ・ダストが動いた。……ガルベス子爵の捕捉を受けて、何かを始めた。塵が舞い上がっている)


「面会の内容は?」


「料亭の個室でしたので、詳細は不明です。ただ、面会の後、ダスト嬢は一度も侯爵家の屋敷に戻らず、そのまま王城へ向かっています」


「王城へ」


「はい。第一王子殿下のご私室への訪問記録が、昨夜の時点で確認されています。……面会時間は二時間以上」


 私は扇子を取り出したが、開かなかった。


(ガルベスという大きな蓋が外れた。……だから塵が舞い上がり、王子という容れ物の中へと飛び込んでいっている。ゴミ箱の蓋を、より強固なものに変えようとしているのか。あるいは、自分自身が蓋になろうとしているのか)


「シリル」


「はい」


「ダスト嬢とカスミ弁護士の面会。……カスミ弁護士が動いたということは、何かを隠滅しようとしているか、何かを防ごうとしているか、どちらかですわね」


「私も同様に見ています。問題は」


 シリルが続けた。


「ラフス織物商会とセドゥン商会の送金記録は、こちらが把握しています。ですが、これをカスミ弁護士が事前に回収・消滅させていた場合、証拠としての効力が――」


「失われる」


「はい」


 私は立ち上がった。


「セドゥン商会の登記記録の原本は、どこにありますか」


「王都商業登記所に、書類上は存在しています。ただし、架空商会ですので実体はない。記録の改竄が容易な状態です」


「登記所へ行きますわ」


「既に、朝一番の開所時刻に確認の使者を出しております」


 私は僅かに目を細めた。


「……いつ動いたのですか」


「カスミ弁護士の動向確認と同時に。昨夜の十一時頃です」


「昨夜の十一時に、私は就寝していましたわよ」


「存じております」


 シリルが完璧な笑顔で言った。


「お嬢様がお休みになっている間も、お掃除は継続されますので」


 私はため息をつくかわりに、手袋を整えた。


「使者からの報告が来次第、報告してくださいな。……ところで、登記記録は無事でしたか」


「本日朝の時点では、改竄の形跡はございません。ただし、カスミ弁護士が動くとすれば、今日か明日かと」


「先手を打つ必要がありますわね」


「はい。……その点について、一つご提案がございます」


   * * *


 シリルの提案は、こういうものだった。


 商業登記所の記録を、国王の特命による「保全命令」の対象にする。

 保全命令下に置かれた記録は、いかなる者も改竄できない。カスミ弁護士の法術も、これには通じない。


「陛下のご承認が必要ですわね」


「本日午前中に報告書をお届けする予定でしたので、同時に申請できます」


「では今すぐ、報告書を仕上げましょう。シリル、内容を口頭で確認しますわ」


「かしこまりました」


 それから一時間、私とシリルは書斎で報告書の内容を詰めた。


 スラッジ書記官の証言。ガルベス子爵の捕捉。ドレインの封蝋付き受取書。セドゥン商会のフォル・ネビュラへの送金記録。ラフス織物商会との三度の接点。カスミ弁護士の動向。モモ・ダスト嬢と王子の面会。


 一枚の羊皮紙に、それを整理していくと、水路の地図が、より鮮明に浮かび上がってきた。


(汚れは繋がっている。繋がっているから、一か所が詰まると、全体に影響が出る。ガルベス子爵という詰まりを取り除いたことで、他の流れが慌て始めている……)


「シリル、カスミ弁護士がガルベス子爵の弁護を引き受ける可能性は?」


「高いと見ます。ガルベス子爵とダスト侯爵家双方の顧問ですから、今回の件で立場が板挟みになっている。……利益相反の状況が生まれつつあります」


「なるほど」


 私は羽根ペンを置いた。


「霞は、追えば逃げる。……ですが今、霞は自ら凝結しようとしている」


「ガルベス子爵の弁護を受けることで、ガルベス子爵とダスト家の双方を代理していたという事実が、法廷の記録に残る、ということですか」


「そういうことですわ」


 私は扇子を開いた。パタリ、と一度だけ動かす。


「カスミ弁護士がガルベス子爵の弁護に立った瞬間、二者を繋ぐ『水路』が、法廷の記録として自動的に生まれますわ。……こちらは何もしなくていい。ただ、商業登記の記録を保全して、待てばいい」


「霞を、風ではなく気温で凝結させる、と」


「ええ。冷たい現実に触れれば、霞は自ずと水滴になりますもの」


 シリルが微かに目を細めた。


「……さすがでございます」


「お世辞は結構」


 私は報告書の最後の一行に署名した。


   * * *


 午後。

 国王への報告書を届けた使者が、返書を携えて戻ってきた。


 保全命令の承認。

 そして、もう一行。


   『掃除人クレアへ。第一章の仕事、確かに受け取った。次の仕事については、準備が整い次第、改めて特命を下す。――国王より』


 私はその返書を、二度読んだ。


「……次の仕事、と仰っていますわね」


「陛下も、フォル・ネビュラの件を念頭に置いておられるようです」


「ですが今は、まだですわ」


 私は返書を丁寧に折り畳んだ。


「塵の問題が片付いていない」


「モモ・ダスト嬢のことですね」


「ええ。……彼女が地図の外側にいる間は、国外へ出られませんわ。塵を王都に残したまま遠征に出るのは、帰ってきた時に部屋中が埃だらけになるようなものですもの」


 シリルが頷いた。


「では、ダスト嬢の件を先に」


「先に、と言っても――まだ証拠が状況証拠に留まっています。直接手を出すタイミングではない」


 私は窓辺に歩み寄った。


「カスミ弁護士がガルベス子爵の弁護に立つのを待つ。……その間に、ラフス織物商会とセドゥン商会の接点を、もう少し掘り下げる必要がありますわ。三度の送金記録の、それぞれの時期と、ダスト嬢の動向が一致している場所を探す」


「具体的には?」


「送金が行われた時期に、モモ・ダスト嬢が直接ラフス織物商会に関与していた証拠。侯爵家の傍系事業とはいえ、令嬢が個人として指示を出していたとすれば――」


「直接関与の証明になります」


「ええ。……この調査は、フロード補佐官には頼めません。財務省の管轄外の話になりますので」


「では、どなたに」


 私はしばらく考えた。


「商業記録の調査なら、登記所の保全命令範囲を利用できます。陛下の名のもとに、ラフス織物商会の取引記録の閲覧を申請する。……それならば、正規の手続きの範囲内ですわ」


「承知いたしました」


「それと、シリル」


「はい」


「フロード補佐官には、改めてお礼を申し上げてください。この件での彼の働きは、十分すぎるほどでした」


 シリルが、少しだけ意外そうな顔をした。


「……珍しいですね、お嬢様がお礼を申し出るのは」


「きちんとしたものには、きちんとした扱いをしますわ」


 私はさらりと言った。


「使い捨ての雑巾では、いい仕事はできませんもの」


「……肝に銘じます」


 シリルが、今度は笑顔ではなく、静かに一礼した。


   * * *


 夕刻。


 リタが書斎に顔を出した。

 その手には、小さな木の箱があった。


「何ですか、それ」


 リタが箱を机に置き、蓋を開けた。


 中には、薄紙に包まれた何かと、短い手紙が入っていた。


 手紙の差出人の欄に、名前はない。ただ、薄い青灰色の封蝋がある。


「……フロード補佐官から」


 私は手紙を開いた。


   『染み抜きの件、ありがとうございました。これは、仕事上で知り合った隣国の商人から数年前に預かったものです。ラフス織物商会の取引先の一つに、隣国の港の商会があります。封書の一部を同封します。――F』


 私は薄紙の包みを開いた。

 中には、一枚の古い封書が入っていた。


 封蝋は剥がれているが、その跡に、見慣れた図形の痕跡があった。


 川が流れ込む形の、簡単な記号。


「……ドレインの封蝋」


 私は静かに言った。


「ラフス織物商会の取引書類に、ドレインの封蝋」


 シリルが封書を受け取り、確認した。


「確かに。……フロード補佐官は、これをずっと持っていたのですか」


「数年前に商人から預かった、と書いてありますわ。当時は意味が分からなかったのでしょう。……でも、今の文脈に置けば」


「ラフス織物商会がドレインと直接やり取りをしていた証拠になります」


「ええ」


 私は封書をそっと机に置いた。


(フロード補佐官は、十二年間記録し続けた。そして今も、手持ちの情報を惜しみなく渡してきた。……汚れていない人間は、こういう時に大きな力を持つ)


「シリル、これを水路の地図に加えてください」


「はい。……これで、ラフス織物商会はドレインと直接繋がっていることになります。モモ・ダスト嬢がラフス織物商会に関与していた証拠が出れば――」


「地図が完成しますわ」


 私は静かに言った。


「塵の足音が、やっと聞こえてきましたわね」


   * * *


 夜が近づいた頃、思いがけない来訪者があった。


 玄関に現れたのは、侯爵家の紋章を刻んだ馬車から降りてきた、一人の女性だった。

 年齢は三十代半ば。上品な装いで、落ち着いた物腰をしている。ただし、顔色が少し悪い。


「ヴィクトリア家のクレア様に、お目にかかりたいのですが」


 家令が名刺を持ってきた。


 私はそれを見た。


   『エール・ラフス。ラフス織物商会』


「……入れてください」


 私は扇子を開きながら言った。


(ラフス織物商会から、人が来た。こちらが記録を調べようとした矢先に。……塵に急かされてきたのか、それとも塵に追われてきたのか)


   * * *


 サロンに通されたエール・ラフスは、椅子に腰掛けながらも、落ち着かない様子で部屋を見渡していた。


 私はその正面に座り、扇子を膝の上に置いた。シリルが控えている。リタはドアの外だ。


「ご用件をうかがいましょう」


 私はいつも通り穏やかに言った。


 エール・ラフスは一度、深く息を吸った。


「……ヴィクトリア嬢。単刀直入に申し上げます」


「どうぞ」


「ラフス織物商会は、セドゥン商会への送金に関与していました。しかし――私は、その送金の意味を、知らなかったのです」


 サロンに、静かな間が落ちた。


「三年前、ダスト侯爵家の傍系として事業を整理した際、顧問弁護士を通じて新しい取引先を紹介されました。カスミ先生から」


(カスミ。霞が、ここにも出てきましたわ)


「紹介された商会との取引は、最初は通常の布地の取引でした。ところが半年後から、布地ではなく、特定の勘定科目への『送金』を指示されるようになった。……指示は、カスミ先生を通じて来ました」


「カスミ弁護士から直接?」


「書面でした。ダスト家の傍系である私どもにとって、顧問弁護士からの指示は――逆らえるものではなかった」


 エール・ラフスの指が、膝の上で小さく震えていた。


「そして昨日、カスミ先生から連絡がありました。……商会の取引記録を、全て焼却するよう、と」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


(焼却。……おかしな言葉を使いますわね。本物の焼却は、私の仕事なのに)


「焼却の期限は?」


「明日の朝、とのことです」


 つまり、今夜だ。


「エール・ラフス様」


 私は扇子を取り上げた。


「あなたは今日、なぜここへ来ましたか」


 エール・ラフスが、初めて真っ直ぐに私の顔を見た。


「……焼却できなかったからです」


「理由は?」


「商会は、三代続いた家業です。私の祖母が始めた。……記録には、祖母の時代からの取引の歴史が全部入っている。カスミ先生に言われた部分だけを選んで燃やすことも、考えましたが」


 彼女は続けた。


「それをしたら、私は自分で自分を染めることになる、と思いました」


 私は扇子を、静かに開いた。


(自分で自分を染めることを、嫌だと思った。……それは、この人間がまだ、自分の汚れを自分のものだと認識している証拠ですわ)


「分かりましたわ」


 私は言った。


「ラフス織物商会の取引記録は、今夜のうちにこちらで保全します。焼却は不要です。……ただし、その代わりに一つお願いがあります」


「何でしょうか」


「カスミ弁護士から届いた書面を、全て私に預けてください。今夜中に」


 エール・ラフスが、迷わずに頷いた。


「……持参しております」


 彼女は鞄から、束になった書面を取り出した。


 私はそれをシリルへ渡した。


 シリルが受け取りながら、極めて自然な笑顔で言った。


「ありがとうございます。……これは、貴重なリサイクル資源です」


 エール・ラフスが、少し困惑した顔をした。


「リサイクル、とは?」


「証拠として、最大限に活用できる、という意味でございます」


 シリルが笑顔のまま答えた。


 私は扇子で口元を隠しながら、内心で同意した。


(霞が、自ら凝結して水滴になってきましたわ。……追わなくて正解でしたわね)


   * * *


 エール・ラフスが帰った後、シリルが書面の内容を素早く確認した。


「お嬢様、カスミ弁護士の書面の中に、非常に興味深いものがございます」


「何ですか」


「送金の指示書に、宛先としてフォル・ネビュラの具体的な商会名が記されています。……『カラミ商会』」


 私は、その名前を静かに受け取った。


 カラミ。


 汚水が絡まる。


「フォル・ネビュラの港の、カラミ商会。……それが、ドレインの中間拠点、ということですわね」


「おそらく。エストという中間管理者が、カラミ商会を通じて動いていると見られます」


 私は書斎の机の上の、水路の地図を眺めた。


 シリルが今日の発見を書き加えると、空白だった箱に少しずつ名前が埋まっていく。


 カラミ商会。エスト。フォル・ネビュラ。


 そして、右端の頂点の箱は、まだ空白だ。


「……地図が、七割から八割になりましたわね」


「はい。残りは」


「モモ・ダスト嬢の箱と、頂点の名前」


 私は扇子を閉じた。


「カスミ弁護士がガルベス子爵の弁護に立てば、地図に自動的にカスミの箱が入る。……ダスト嬢については」


「カスミ弁護士の書面に、送金指示の連絡先として、ダスト侯爵家の私的な書状用封蝋が一度だけ使われている形跡がございます」


 私の扇子が、止まった。


「ダスト嬢の封蝋が」


「ダスト侯爵家の傍系事業の管理者への通達、という形式でしたが……封蝋の意匠が、モモ・ダスト嬢個人のものです。侯爵家の正式なものではなく」


(塵が、自分の足跡を残していた。細かい塵が、積もる場所を選ばずに堆積していた結果ですわ)


「……シリル、その封蝋の照合は確実ですか」


「はい。第1話の婚約破棄の席でのダスト嬢の書状と照合しました。一致しています」


 私は少しの間、黙っていた。


 扇子を、ゆっくりと開く。


(塵は、舞い上がった。ガルベス子爵が消えたことで舞い上がり、今日カスミを通じて証拠隠滅を指示した。そして、三年間積もり続けた自分の足跡が、今日、私の手元に届いた)


「シリル」


「はい」


「モモ・ダスト嬢の件を、国王陛下への報告書に加えてください。状況証拠ですが、封蝋の照合という物証が加わりましたわ。……陛下に判断を仰ぎます」


「かしこまりました」


「ただし」


 私は扇子を一度だけ強く開いた。


「焼却は、しません」


「ご意向は?」


「塵は、燃えてしまうと跡形もなくなりますの。……でも、塵を証拠として保全して、適切な場所で開示すれば、誰の目にも見えるようになる」


 私は淡々と言った。


「モモ・ダスト嬢には、自分が何をしてきたかを、きちんと見てもらわなければなりませんわ。塵というのは、最後には床に落ちて、掃き集められるべきものですもの」


 シリルが、珍しく少し長い沈黙の後、深く一礼した。


「……御意」


   * * *


 夜が深まった頃、もう一通の手紙が届いた。


 国王の返書だった。


   『モモ・ダストの件、了解した。封蝋の照合を正式な証拠として受理する。ただし、処理は王城の正規手続きを経ること。……なお、第一章の仕事は実によく片付いた。掃除人クレアに、改めて礼を言う。次の仕事については、三日後に特命書を送る。準備せよ。』


 私はその返書を二度読み、シリルへ渡した。


「三日後、ですわ」


「はい。フォル・ネビュラへの出張清掃の特命が、正式に下ります」


「準備を始めてください」


「既に七割方」


「……あなたは本当に、嫌な先読みをしますわね」


「お嬢様のお役に立てますなら」


 私は返書を折り畳んだ。


 窓の外を見る。

 秋の夜は深く、星が少ない。霧でも出てきているのか、王都の空が少し白んでいる。


(第一章が、終わりますわ。国内の大きな汚れは、おおむね片付いた。残るはダスト嬢の処理を陛下に委ねること、そしてスラッジ書記官の量刑への一文が受理されるのを待つこと。……それが済めば、窓を開けられますわ。特命書が届くまでの三日で、その片付けを終わらせる)


「リタ」


 廊下から、静かな気配が応えた。


「フォル・ネビュラへ向かう準備として、まず身軽な装備を確認してくださいな。港の仕事は、屋敷の中とは勝手が違いますから」


 扉越しに、チャキッと小さな音がした。


 いつもより、少し弾んでいる気がした。


   * * *


 深夜のダイニングに、シリルが用意したものが並んでいた。


 小さなカップに、蜂蜜色のスープ。隣国のものだとすぐに分かった。香りが、王都のスープとは少し違う。青草と、海の遠い気配がする。


 その隣に、薄焼きのクラッカーが何枚か。上に、白いやわらかいチーズが薄く塗られている。


 そして、茶は今夜も、フォル・ネビュラ産の茶葉だった。


「また霧の港ですか」


「今夜は少し、濃いめに出しております」


 シリルが給仕しながら言った。


「出発が近いので」


「三日後ですわよ」


「心の準備は、早い方がよろしいかと」


 私はクラッカーを一枚取り、白いチーズと一緒に口に運んだ。


 薄くパリッとした生地が崩れる。チーズは淡く、塩気が控えめで、後味がさっぱりしていた。


「……あっさりしていますわね」


「隣国では、旅の前に重いものを食べない習慣があるそうです。胃を空に近くして、向こうの食事に備える」


「旅の前の準備、ということですか」


「胃も、お掃除が必要でございますので」


 私は少し笑った。


 フォル・ネビュラの茶葉を一口飲む。今夜の茶は、確かに濃かった。

 潮の香りが、いつもより鮮明に鼻を抜ける。霧の中に、港がある。港の奥に、汚れが溜まっている。


(カラミ商会。エスト。ドレインの頂点。……まだ名前のない、地図の右端の箱)


「シリル」


「はい」


「フォル・ネビュラで、私たちが最初にすることは何だと思いますか」


 シリルが少し考える様子を見せてから、答えた。


「まず、港の空気を嗅ぐことかと存じます」


「空気を?」


「どんな場所でも、最初に現場を歩かなければ、どこが汚れているか分からない。……書類の上の地図と、実際の場所は、必ずしも一致しないものでございますので」


 私はティーカップを両手で包みながら、頷いた。


「そうですわね。霧の中へ入らなければ、霧の下に何があるかは分からない」


「お嬢様が現地を歩けば、必ず何かが分かります。それがお嬢様の、お掃除の流儀ですから」


「買いかぶりですわよ」


「いいえ」


 シリルが、珍しくはっきりと言った。


「これまでのお掃除を、全てご覧になってきた私が申し上げますので、間違いありません」


 私はそれ以上、答えなかった。


 かわりに、クラッカーをもう一枚手に取った。


 薄く軽い。だが、かじると確かな歯触りがある。


(第一章は、国内の大きな汚れを、一つずつ片付けることでしたわ。第二章は、霧の港まで行って、見えないものを見に行くことになる。……それは、これまでとは少し違う掃除の仕方ですわね)


 私はそっと、右手の手袋の端を左手の指先でなぞった。

 外しはしない。まだ。


 だが、フォル・ネビュラの霧の中で、いつか外す瞬間が来るかもしれない、とぼんやり思った。


 それが怖いかどうかは、まだ分からない。


「シリル」


「はい」


「霧の港では、どんな汚れが待っていると思いますか」


 シリルが少しの間、自分のティーカップを眺めた。


「汚水が絡まる場所、というのは――一か所に複数の流れが集まるということです。ですから」


「複数の種類の汚れが、一か所に溜まっている」


「はい。ゴミの分別が、難しい場所かもしれません」


 私はティーカップを置いた。


「難しい仕事ほど、やり甲斐がありますわ」


「おっしゃる通りです」


「ただし」


 私はさらりと付け加えた。


「返り血は御免ですわよ。……リタ、頼みますわよ」


 廊下から、チャキッと、今度ははっきりと弾んだ音がした。


 シリルが、珍しく口の端を小さく持ち上げた。


「リタが喜んでいます」


「彼女の『喜ぶ』が、あの音なのですか」


「ええ。通常の待機音より、半音ほど高うございます」


 私は小さく笑った。


 フォル・ネビュラの茶葉の最後の一口が、舌の上で深く広がった。

 潮の香りと、茶の渋みと、遠い場所の気配。


 三日後に、窓が開く。


 第一章の汚れは、確かに片付いた。証拠は揃っている。書類は整っている。残った塵は、法の場に委ねた。


 次は、霧の港へ行く番だ。


(おそうじの道具を、整えておきますわ。出張先でも、私のやり方は変わらない。塵一つ残さず、きれいに)


 私は扇子を一度だけ、静かに開いた。


 夜のダイニングに、その風が小さく広がった。

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