第8話:染み抜き完了と、水路の地図
翌朝。
スラッジ書記官の自宅の二階は、昨日とは違う空気をしていた。
土色だった顔に、わずかに血の気が戻っている。呼吸は深く、規則的だ。衛士二名が一階と屋外に配置されており、家政婦が廊下で控えている。フロード補佐官は、私たちより先に着いていた。
「……お早い到着ですわね、フロード補佐官」
私が二階の寝室の扉を開けると、窓際の椅子に細い背中が見えた。
「夜明け前から来ておりました」
フロードが振り返る。眼鏡の奥の目に、昨日よりも落ち着きがあった。心配で一晩ほとんど眠れなかったのだろうと察したが、口にはしない。
「スラッジ書記官の様子は?」
「先ほど、温かいものを少し召し上がりました。……話せる、とのことです」
私はベッドへと歩み寄った。
ロムルス・スラッジ書記官は、枕に頭を預けたまま目を開いていた。昨日より焦点がある。私の顔を認識している。
「ヴィクトリア嬢……」
「お体の具合はいかがですか」
「……まだ少し、頭が重い。ですが――話せます」
声に力はなかった。しかし、意志があった。
「よろしいですわ。……では、始めましょう」
私は書記官の枕元に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。シリルが部屋の隅に控える。リタは扉の外だ。フロードは窓際の椅子に戻り、膝に紙を広げた。
「シリル、記録を」
「かしこまりました」
シリルが羊皮紙と羽根ペンを取り出した。
* * *
ロムルス・スラッジ書記官の話は、四十分にわたった。
声は途切れがちだったが、内容は整然としていた。十二年間、記憶に刻んできた数字と名前と日付。それを、ただ順番に語った。
私はほとんど黙って聞いた。
最初の謝礼は、十二年前。ガルベス子爵の縁戚の商家からの、少額の「お心づけ」だった。
断ろうとした。断れなかった。子どもの学費が要った。妻が病気だった。
二度目の時には、もう断る言葉を持っていなかった。
「……三年目に、気づきました」
書記官が言った。
「引き返せなくなった、と。でも、もう染み込んでいた。……自分が、汚れていると分かっていた」
フロードが窓際で静かに紙に書き留めている。
シリルは黙って記録を続けている。
「その後、指示の内容が変わりました。財務記録を操作するだけでなく、特定の書類の閲覧者を報告すること。ガルベス子爵の名が絡む案件の審議を遅らせること。……そして六年前から、もう一つ別の筋からも、指示が来るようになりました」
私は、そこで初めて口を開いた。
「別の筋、とは」
「名前は知りません。ただ、ガルベス子爵を通じてではなく、直接、封書で届くようになりました。封蝋に、記号があった。……川が流れ込む形の、簡単な図です」
シリルのペンが止まった。一瞬だけ。
(汚水管の図、ということですわね)
「その封書は、今も残っていますか」
「燃やすよう指示がありましたが――一通だけ、残してあります」
書記官が枕の下に手を伸ばした。
家政婦には誰にも見せるなと言っていたらしく、昨夜その場所だけは触れなかったとのことだった。
取り出したのは、薄く折り畳まれた封書だった。
私はそれをシリルへ渡した。
シリルが封を慎重に開き、中を確認する。
「……封蝋の記号、確認いたしました」
シリルが書記官に向き直った。
「ドレイン、という名前に、聞き覚えはありますか」
書記官の目が、わずかに揺れた。
「……一度だけ。料亭で、ガルベス子爵が連れてきた男が口にした言葉です。酒が入った席で、うっかり漏らした様子でした。……ガルベス子爵が、すぐに話題を変えました」
「その男の人相は?」
「四十代ほど。旅慣れた様子の男でした。……腰の剣の柄が、この国の様式ではありませんでした」
私はシリルと、ほんの一瞬だけ視線を交わした。
腰の剣の柄の形が、何かに似ている気がした。だが、今は確信には至らない。
(やはり、繋がっていますわね)
「最後に一つ」
私は書記官へ向き直った。
「セドゥン商会、という名前を知っていますか」
一呼吸の間があった。
「……知っています」
書記官の声が、少し重くなった。
「慶弔費の欄に処理するよう、指示された商会名です。架空商会で、実際の取引は存在しない。……送金先は、隣国経由で、霧の港だと聞きました。直接そう聞いたわけではありませんが、書類の流れを見ていれば、自然と分かります」
フォル・ネビュラ。
書記官の口から、その名が出た。
続けて、書記官は枕の傍らに手を伸ばし、小さな手帳を取り出した。表紙の縁が擦り切れている。
「……これは、私が個人的につけていた、もう一冊の記録です。指示された操作の内容と、動いた金額を、自分のためだけに書き留めていました。……証拠として、お使いいただけるかもしれません」
シリルが、無言でそれを受け取った。
「ありがとうございます」
私は椅子から立ち上がった。
「今日お話しいただいたことは、法的に有効な証言として記録されます。フロード補佐官が証人として同席していますので、正式な手続きを経て提出できます」
書記官が私を見上げた。
「……私は、どうなりますか」
私は少しの間、その問いを受け取った。
「それを決めるのは、私ではありません」
静かに言った。
「ただ――あなたが今日、話してくださったことは、必ず役に立てます。証拠として。記録として。……そのことは、お約束しますわ」
書記官は何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
その顔が、少しだけ――ほんの少しだけ、楽になったように見えた。
* * *
スラッジ邸を出ると、秋の空が高かった。
フロード補佐官が玄関先まで見送りに出て来た。
「……ヴィクトリア嬢」
「何かしら」
「スラッジ書記官は、最初から悪い人間ではなかったと、私は今でも思っています」
「ええ」
私は振り返らずに答えた。
「知っていますわ」
「それでも、裁かれるべきだとお考えですか」
「それは私が考えることではありませんわ」
私は言った。
「私はおそうじをする人間です。裁くのは、適切な場所で、適切な人間が行う。私の仕事は、その場所へ届けることだけ」
フロードが黙った。
私は日傘を開き、歩き始めた。
「フロード補佐官」
少し歩いてから、振り返らずに言った。
「あなたが十二年間、一人で記録し続けてくれたから、今日の証言が形になりました。……感謝しますわ」
フロードの返事は聞こえなかった。
風の音がした。
* * *
馬車の中で、シリルが書類を整理しながら言った。
「第一段階の染み抜きは、完了です。スラッジ書記官の証言と、フロード補佐官の財務記録差分、そして封書の封蝋。この三点が揃いました」
「ガルベス子爵の方は?」
「証拠として使えます。ただし」
シリルが、珍しく少し間を置いた。
「ガルベス子爵単体を動かしても、ドレインの本体には届きません。……子爵は、排水溝の出口の蓋に過ぎない。蓋を外せば、汚水は逆流しますが、管の中は空になりません」
「分かっていますわ」
私は窓の外を眺めた。
「だから、蓋を外すタイミングを計りますの。……管の中身が一番詰まった瞬間に、一気に流す方が効率的ですもの」
「具体的には、どの段階で」
「ガルベス子爵とドレインの関係が、書類上で繋がった時点で。……今手元にあるもので言えば、あの封書の封蝋がドレインのものだと確定できれば、ガルベス子爵がドレインの国内窓口である証拠になりますわ」
シリルが頷く。
「封蝋の照合には、隣国の記録との照合が必要です。……現時点では、国内だけでは確定できません」
私は扇子を取り出した。
「そうですわね」
パチリ、と開く。
「つまり、管の出口まで行かなければならない、ということですわ」
シリルが、一拍置いた後、静かに言った。
「フォル・ネビュラ、ということでしょうか」
「ええ」
私は風を作りながら、言った。
「第一章の仕事は、もう少しで片付く。ガルベス子爵の回収まで済めば、国内の主要な汚れは一段落ですわ。……その後、窓を開ける必要がありますわね」
「スケジュールのご確認ですが」
「まず、モモ・ダストの件を整理してからですわよ」
私は扇子を閉じた。
「塵は、飛び散る前に払う。……彼女がダスト侯爵家の傍系事業とセドゥン商会の繋がりに気づいていないうちに、証拠を固めておく必要があります」
「ラフス織物商会とセドゥン商会の三度の送金記録、照合はできています。ただし、モモ・ダスト嬢の関与を示す証拠は、まだ状況証拠に留まります」
「状況証拠でいい。今は地図を描くだけですわ」
私は淡々と言った。
「水路の地図が完成すれば――どこで蛇口を閉めればよいかが見えてきますもの」
* * *
ヴィクトリア家に戻ると、シリルがすぐに書斎へと向かった。書類の整理と封蝋の照合作業を始めるためだ。
私は書斎ではなく、一度自室へ上がった。
鏡の前で、帽子と手袋を外す。
白い手袋が、机の上に置かれる。
私は鏡に映った自分の顔を、少しの間、眺めた。
疲れているようには見えない。乱れてもいない。ヴィクトリア家の令嬢、クレアの顔がそこにある。
だが今日、私は何をしたか。
十二年分の汚れを持つ人間に、話してくれてありがとうと言った。
染みを作り続けた書記官の顔が、楽になるのを見た。
そして、それを「よかった」と思った。
(汚泥を保護して、証言を取って、適切な場所へ届ける。それが今日の仕事ですわ。感情的になることではありません)
私は右手を持ち上げた。
素手の指先を、窓から差し込む昼の光にかざす。
白い。綺麗な指。
今日も、何も燃やしていない。
だが――今日の手は、書記官の体温を感じた手だ。
昨日と同じ手なのに、昨日と少し違う気がする。
(何でもありませんわ)
私はすぐに手袋を嵌め直した。
それ以上は考えない。余計な思考は、おそうじが終わってからにする。
いつも、そうしてきた。
* * *
午後、書斎に戻ると、シリルが一枚の紙を広げていた。
「水路の地図ですか」
私は彼の隣に立ち、紙を覗き込んだ。
「はい」
シリルが静かに答えた。
紙の上には、複数の名前と矢印が書かれていた。
中央に「ガルベス子爵」。
その横に「スラッジ書記官(回収済み)」。
下に矢印を伸ばして「ナジュミ・カスミ弁護士」。
さらに下に「セドゥン商会(架空)」。
セドゥン商会から二本の矢印。一本は右に伸びて「フォル・ネビュラ(終着点)」。もう一本は斜め上に伸びて「ラフス織物商会(ダスト侯爵家傍系)」。
そして、紙の右端に、まだ名前が書かれていない箱があった。
「……ドレイン(頂点)、ということですわね」
私はその空白の箱を指先で示した。
「はい。全ての流れが最終的に、この頂点へ向かっています。フォル・ネビュラはその出口でもあり、おそらく頂点が拠点を置いている場所でもある」
「カラミ」
私は静かに呟いた。
「お嬢様?」
「ドレインの暗号文に、一度だけ出てきた言葉ですわ。汚水が絡まる、というような意味の隠語。フォル・ネビュラの港にある、何かを指しているのではないかしら」
シリルが目を細めた。
「港の内部に、汚れた流れが集まる場所がある、と?」
「そうかもしれない。……あるいは、ドレインの中間管理者を指す言葉か」
(カラミ。汚水が絡まる。管の中で複数の流れが一点に集まる場所。それが港の何処かにあるとすれば――そこが、頂点への入口かもしれませんわ)
私は地図から目を上げた。
「シリル、この地図は今の段階で完成していますか」
「七割方、です」
「残りの三割は?」
「カスミ弁護士とドレインの接続を証拠化すること。そして――」
シリルが紙の右端の空白の箱を指した。
「頂点の名前を、入れること」
私はしばらく地図を眺めた。
「モモ・ダストの箱は、どこに入りますか」
「……まだ、地図の中に書けません」
シリルが率直に言った。
「ラフス織物商会はダスト侯爵家の傍系事業ですが、モモ・ダスト嬢が直接関与しているという証拠は、まだありません。……塵は、今のところ地図の外側にいます」
「外側から撒いている、ということかもしれませんわね」
「あるいは、地図の内側にいることに、私どもがまだ気づいていないか」
私は無言で頷いた。
(ダスト嬢。あなたは今、王子の傍にいる。王子という、ゴミ箱の蓋の上に。……あなたが塵を撒いている先が、どこへ繋がっているのか、そろそろ答え合わせの時が来ますわね)
「シリル、地図の完成を急ぎますわ。……残り三割を埋めることに、集中してください」
「かしこまりました。ただ、カスミ弁護士については、直接手を出すのは得策ではないかもしれません。霞は、追うと逃げますから」
「分かっていますわ」
私は扇子を開いた。
「霞は追わない。……ただ、霞が凝結する瞬間を待つ。それまでに、こちらの準備を整えておく」
「どのような準備を?」
「ガルベス子爵の正式な回収の場を、設定しますわ。……証拠が揃っている今、あとは適切な手順を踏むだけですもの。国王陛下への報告と、法的手続きの準備を始めてください」
「承知いたしました」
シリルが書類に取りかかろうとした時、私はもう一度地図を眺めた。
「リタ」
廊下から、気配が近づく。扉越しに、コクリと気配が頷いた気がした。
「ガルベス子爵の屋敷の様子を、今夜確認してくださいな。スラッジ書記官の件が漏れているかどうか、子爵が何か動いた痕跡があるかどうか」
扉の外で、チャキッと小さな音がした。
了解の合図だ。
* * *
夜。
リタが戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
書斎で書類を整理していた私の前に、リタが姿を現した。
服装に乱れなし。靴底も清潔だ。だが、その表情がいつもより少しだけ、引き絞られていた。
「何かありましたか」
リタが頷く。
右手の人差し指と中指を立てた。二名。
次に、荷物を抱える仕草をした。
それから、外へ出る動作。
「ガルベス子爵の屋敷から、二名が荷物を持って出た。……夜逃げの準備ですか」
リタが頷く。続けて、腕を素早く動かした。慌てた動き、という意味だろう。
「急いでいた、と」
また頷く。
「察知しましたわね」
私は扇子を開いた。
(スラッジ書記官の証言が取られたことを、どこかから聞いた。……王城内の内通者ルートか、あるいは屋敷周辺の監視員か。いずれにせよ、ガルベス子爵は動き始めた)
「シリル」
「はい。既に、夜間の動向監視を強化するよう手配しておりました。……ガルベス子爵が王都から出ようとすれば、三か所の城門のうちいずれかで捕捉できます」
「逃げ切れる場所は?」
「現状、一か所だけ。南の裏街道です。ただし、そちらには既に――」
「リタの同僚が配置されている、ということですか」
シリルが微かに笑った。
「王城の衛士ではありません。フロード補佐官の推薦の、王国軍の直属部隊です。……陛下の御承認もいただいております」
私は少し目を細めた。
「いつの間に」
「お嬢様が書記官の証言取得に臨まれている間に、少々」
「……あなたは本当に、嫌な先回りをしますわね」
「お嬢様のお役に立てますなら」
いつもの台詞。いつもの笑顔。
だが今夜は、それが妙に心強かった。
「分かりました。ガルベス子爵が動いた場合は、そのまま捕捉を。逃がしてはなりません」
「かしこまりました」
「ただし、焼却は不要ですわ」
私はさらりと付け加えた。
「あの方は、不燃ゴミでも産業廃棄物でもない。……きちんと分別して、法の手続きを経て処理する。国内の汚れは、国内のルールで片付けるべきですもの」
シリルが深く一礼した。
「御意」
* * *
明け方近く、シリルから短い報告が来た。
「ガルベス子爵、南の裏街道にて捕捉。現在、国王直属部隊が身柄を確保中です。……書類も一緒に持ち出そうとしていたようで、そちらも回収いたしました」
私は書斎の椅子に腰掛けたまま、その報告を聞いた。
「書類の中身は」
「現在確認中ですが――フォル・ネビュラへの送金指示書、それから、ドレインの封蝋と同じ記号が押された受取書が複数。……証拠として、十分すぎるほどです」
「ドレインへの送金記録まで持ち出そうとしていた、と」
「急いでいたのでしょう。捨てる時間もなかったのかもしれません」
私は扇子を閉じたまま、机の上の「水路の地図」を眺めた。
「ガルベス子爵」の名前の横に、シリルが小さく「回収済み」と書き添えた。
これで、国内の主要な汚れの一つに、蓋ができた。
(焼却ではなく、回収。……今回の掃除はそういう方法でしたわ)
胸の中が、いつもの「焼却処分」の後とは少し違う感触だった。
すっきりとした清潔感ではなく、もう少し複雑な、染みが少しずつ浮いてくるような感覚。
スラッジ書記官の顔。
フロード補佐官が十二年間、一人で記録を続けていた事実。
ガルベス子爵が急いで荷物を詰めた、その姿。
(汚れは焼いて消すのが一番、清潔ですわ。でも――残る方が、役に立つこともある)
私は手袋の端を一度だけ整えた。
「シリル、国王陛下への報告書を作成してください。スラッジ書記官の証言から今夜の捕捉まで、全ての経緯を」
「既に着手しております」
「あなたはいつもそうですわね」
「手の速さも、お掃除の基本かと」
私は小さく笑った。
「ガルベス子爵の取調べが進めば、ドレインとの繋がりが正式に証拠化されますわ。……そうなれば、フォル・ネビュラへ向かう理由が、正式に揃います」
「第二章への準備が、整いつつある、ということですね」
「ええ」
私は窓の外を眺めた。
夜明けが近い。東の空が、ほんのわずかに白んでいた。
「でも今夜は、まず国内の掃除の区切りを、きちんとつけますわ。……ガルベス子爵という大きな染みを、適切な場所へ引き渡してから」
「モモ・ダスト嬢については」
「まだ、静かにしておきます」
私は扇子を手の中で転がした。
「塵は、払うタイミングを間違えると、また散る。……今は地図を完成させることに集中します。彼女の箱が地図の中に入った時に、初めて手を出しますわ」
シリルが頷いた。
* * *
夜明けのダイニングに、温かいものが用意されていた。
テーブルの上には、薄切りのトーストと、白身魚のスープ。
そして、昨日と同じフォル・ネビュラ産の茶葉が、陶製のティーポットに入って湯気を立てていた。
「また霧の港の茶葉ですか」
私は席に着きながら言った。
「昨日と今日では、意味合いが違います」
シリルが給仕しながら答えた。
「昨日は、これから向かう場所の予習として。……今日は」
「今日は?」
「第一章の区切りとして、ふさわしいかと」
私はティーカップを手に取った。
琥珀色の液体から、潮と茶の混じった香りが立ち上る。
昨日初めて飲んだ時より、その香りが少し身近に感じた。
「……慣れてきましたわね、この香りに」
「それは、第二章への準備が整ってきている証拠かもしれません」
「茶葉で章の進捗を測るつもりですか、あなたは」
「お掃除の進捗を測る方法は、様々ございますので」
私はトーストを一口かじった。
シンプルな、バターと塩の味。夜明け前に食べるには、過不足のない味だ。
「シリル」
「はい」
「第一章の締めに、もう一仕事ありますわね」
「モモ・ダスト嬢の件、ですか」
「いいえ」
私は静かに言った。
「スラッジ書記官のことですわ」
シリルが、少し沈黙した。
「……あの方の処遇については、陛下がお決めになることですが」
「ええ、それは分かっています。私が決めることではない」
私はティーカップを両手で包んだ。
「ただ――あの方が話してくれた十二年分を、ただ証拠として使って終わりにするのは、私の美学に反しますわ」
「どうなさいますか」
「国王陛下への報告書に、一文だけ加えてくださいな。……書記官が最終的に、自発的な証言を行い、捜査に協力したという事実を、量刑において考慮することを、掃除人として要請する、と」
シリルが、しばらく黙っていた。
「……かしこまりました」
珍しく、即座に答えた。
「お嬢様らしくない、と申し上げるべきかどうか迷いましたが」
「言いましたわよ、今」
「……おっしゃる通りです」
シリルが微かに笑った。
それは、いつもの完璧な笑顔とは少し違う、本当に僅かだが――温度のある笑顔だった。
私はそれ以上、何も言わなかった。
フォル・ネビュラの茶を、もう一口飲んだ。
潮の香りが、鼻を抜ける。
夜明けの光が、ダイニングの窓に差し込み始めた。
(第一章が、もうすぐ終わる。……国内の汚れを、ひとつひとつ、適切な場所へ。それが私の仕事だった。焼いた汚れも、引き渡した汚れも、等しく、確かに、片付けた)
トーストの最後の一切れを口に運ぶ。
白身魚のスープを一口。温かい。
外では、夜明けの光の中を、早起きの鳥が一羽、空を横切って行った。
「シリル」
「はい」
「窓の外の掃除の準備を、少しずつ始めてくださいな」
「霧の港へ、ということですね」
「まだ決定ではありませんわよ」
「かしこまりました。……ただ、フォル・ネビュラ産の茶葉の追加の手配も、念のため」
「勝手にしなさいな」
私はティーカップを置いた。
潮の香りのかすかな余韻だけが、朝のダイニングに漂っていた。




