表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/7

第6話:汚泥の染み抜きと、塵の足音

 翌朝、ヴィクトリア家の書斎に日が差し込む前から、シリルは机に向かっていた。


 隣国の宮廷暗号。

 昨夜リタが「回収」してきた羊皮紙は、今や書斎の文机の上に広げられ、その隣に十数枚の翻訳メモが並んでいる。


「……お早いこと」


 私が書斎に入ると、シリルは顔を上げることなく言った。


「お嬢様こそ。夜明け前にお目覚めとは、気になることでもございましたか」

「熟睡している場合ではありませんもの」


 私は彼の隣の椅子に腰を下ろし、翻訳メモへ視線を向けた。


「解読は?」

「昨夜のうちに、九割方。残り一割は専門的な隠語でしたが――今朝方、照合が取れました。全文、解読完了です」


 シリルがようやく顔を上げた。

 その表情は平静を保っていたが、目の奥に、私がこれまでほとんど見たことのない色が浮かんでいた。


 ――慎重さ、だ。


「お嬢様。これは、少々厄介な内容です」


   * * *


 暗号文の内容は、こうだった。


 隣国の工作機関が、この王国の財務省と軍事機密管理部門に、少なくとも三名の協力者を確保している。

 スラッジ書記官はその一人に過ぎない。

 そして――彼らへの指示系統の頂点にいるのは、ガルベス子爵でも、隣国の工作員でもない。


 暗号文が使っていた呼称は、ただ一言。


汚水管ドレイン』。


「……汚水管、ですか」


 私は翻訳メモを手に取り、静かに読み上げた。


「組織そのものの名前か、あるいは特定の人物のコードネーム。この文書だけでは、どちらとも取れますが」


 シリルが頷く。


「汚水管の特性はご存知ですね、お嬢様」

「もちろん。目に見えない。地下に張り巡らされている。詰まっても、表面からはすぐに分からない。……そして一度詰まると、逆流する」


 私はメモを机に戻した。


「ガルベス子爵は、汚水管の出口に過ぎなかったわけですわね。本体は、もっと深いところにある」


「おっしゃる通りです。……問題は」


 シリルが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。


「この暗号文に記されていた、もう一つの情報です」


 彼が差し出したのは、翻訳メモの最後の一枚。

 私はそれを受け取り、目を通した。


 一瞬、指先が止まった。


 書かれていたのは、次の工作対象の名前だった。


『V家の当主』。


 V。ヴィクトリア。


(……私、ですわね)


 私は翻訳メモを机に置き、扇子を開いた。

 パタパタと静かに風を作りながら、考える。


「標的にされているとは、光栄なことですわ」

「お嬢様」

「だって、彼らにとって私が邪魔に映るということは、私がきちんと仕事をしているという証拠ですもの」


 シリルが眉を上げた。それ以上は何も言わない。

 私も、これ以上は言わなかった。


 ただ、扇子を閉じた音が、いつもより少しだけ、鋭かった。


   * * *


 朝食の後、私は身支度を整えて書斎に戻った。


 今日の予定は、スラッジ書記官への「染み抜き」着手だ。

 直接対峙するのではなく、まず証拠の布地をきれいに整えてから、当人に向き合う。


 だが、その前にやるべきことがあった。


「シリル、フロード補佐官への連絡を」

「既に。今朝の九時に、商業区の古書店前でお待ちとのことです」


 時計を見た。七時半。

 ちょうどいい。


「リタ、外出の準備を」


 廊下でチャキッと小さな音がした。


   * * *


 商業区の古書店は、朝のうちはまだ客足が少ない。

 埃っぽい本の匂い、古い木の棚、曇り硝子の窓から差し込む灰色の光。

 正直、あまり好みの場所ではないが――本の虫たちが好む場所は、それだけ聞き耳を立てる者も少ない。


 フロード補佐官は、奥の棚の前に立っていた。

 三十代半ばほどの、痩せた男性だ。髪は薄く、眼鏡の奥の目は落ち着かなさそうに動いていたが、私の姿を認めると、ぴたりと止まった。


「……ヴィクトリア嬢」


 小さな声だった。


「初めてお目にかかります、フロード補佐官」


 私は普段通りの優雅な口調で言いながら、彼の隣の棚へと並んだ。二人並んで本を眺めているように見えるはずだ。


「シリル殿から伺っています。……あなた方が動いてくださると知って、正直、ほっとしました」

「それは大変でしたわね。一人で、十二年分の汚れを記録し続けるのは」


 フロードが、一瞬だけ口元を歪めた。苦笑、に似た表情だった。


「記録していなければ、自分まで染まっていきそうで。……それだけです。特別なことは何も」

「いいえ、特別なことですわ」


 私はさらりと言った。


「汚れた場所で、汚れずにいることは難しい。……あなたは、その意味で掃除人に向いているかもしれませんわね」


 フロードが私を見た。

 何か言いたそうにして、黙った。


「さて、本題に入りましょう」


 私は本棚から一冊、無造作に抜き取りながら言う。


「スラッジ書記官が管理している財務記録のうち、原本と写しに差異のある箇所があると聞いています。具体的にどこか、特定できますか?」

「……できます。三箇所、確認しています。北部の軍備費の項目と、王都外郭工事の予算枠、それから――」


 フロードが声をひそめた。


「王室の慶弔費の欄です。慶弔費は明細開示の義務がない。……一番、隠しやすい」

「なるほど」


 私は本を棚に戻した。


「その三箇所の原本と写しの差分を、紙に起こしてお持ちいただけますか? 今週中に。場所は、シリルが改めてご連絡いたします」

「分かりました」


 フロードが頷く。その動作に、昨日初めて接触した時よりも、落ち着きがあった。


「……一つ、確認してもよいですか」


 私が踵を返しかけた時、フロードが言った。


「スラッジ書記官は、どうなりますか。あの人は、最初から悪人だったわけでは……おそらく、最初は小さな『謝礼』から始まって、気づいた時には引き返せなくなっていたのだと思います。私は、そう見ています」


 私は足を止めた。

 振り返りはしない。


「それはスラッジ書記官が判断することではなく、私が決めることでもありませんわ」


 静かに言う。


「私はおそうじをする人間です。汚れの動機を裁くのは、私の仕事ではない」


 一拍置いて、付け加えた。


「ただ――証拠と事実を整えた上で、適切な場所へ引き渡すこと。それが、あなたの十二年間を無駄にしない、唯一の方法ですわ」


 フロードは答えなかった。

 だが、背後でかすかに、息をつく音が聞こえた。


 私は古書店を出た。


   * * *


 店の外では、リタが壁に凭れて待っていた。

 私の顔を見て、一度目を細める。


「何でもありませんわ」


 私は日傘を開きながら言った。


「きれいな人間を見ると、少しだけ、妙な気分になりますのよ」


 リタは答えない。ただ、私の半歩後ろに、音もなく付いてくる。


(汚れていない人間は、近くにいると妙に眩しい。……まるで磨きすぎた鏡のようで、こちらの顔が映りそうになる)


 私は日傘を少し傾けた。


   * * *


 午後。

 ヴィクトリア家に戻った私は、シリルから報告を受けた。


「お嬢様、ガルベス子爵とモモ・ダスト嬢の接点について、第一報が参りました」


 シリルが差し出した書類は、一枚だけだった。

 だが、その一枚で十分だった。


「……弁護士、ですか」


 私は書類を眺めながら言った。


「はい。王都で最も高名な法律事務所の上席弁護士、ナジュミ・カスミ氏。ガルベス子爵とダスト侯爵家、双方の顧問を務めています」


 カスミ。

 かすみ――実体がなく、形を変え、見えているようで見えない。


「面白い名前の弁護士ですわね」

「法廷では無敗とされています。証拠を霧散させることに長けているとか」

「……霞は、燃えませんわね」


 私は書類を机に置き、扇子を開いた。


「焼いても形にならない。風を送れば逃げる。……でも、湿気が高い場所では、霞は必ず凝結して水滴になる」


「それは?」


「追い詰められた時に、証拠を残す、ということですわ。……カスミ弁護士をガルベス子爵とモモ嬢の『繋がり』として活用するより、彼が双方の依頼を受けているという事実そのものを『証拠』にした方が、よほど役に立つ」


 シリルが微かに目を細めた。


「証拠にするためには、二つの依頼が利益相反にある、と立証できる案件が必要ですね」


「ええ。ちょうど、王室の慶弔費の不正記録の中に、ダスト侯爵家の名前があれば理想的ですわ。フロード補佐官の資料が楽しみですわね」


「……なるほど。染みと塵が、同じ水路を使っていた、という構図ですか」


「そういうことですわ」


 私は扇子を閉じた。


カスミは、やがてガルベスとモモをつなぐ水路として機能する。……先に水路の地図を作ってしまえば、流れてくるものが何でも分かりますもの」


 シリルが深く一礼する。


「さすがでございます」


「お世辞は結構ですわ」


 私は席を立ち、窓辺に歩み寄った。


 午後の王都は、穏やかに見えた。

 往来には人が行き交い、石畳の上を秋の風が吹いている。どこにも、汚れの気配はない。


 だが私には分かる。

 目に見えない場所で、汚水管が詰まりかけている。

 目に見えない塵が、静かに、着実に積もり続けている。


(ドレイン。汚水管。――その頂点にいる者は、まだ姿を現していない)


 私はそっと、右の手袋の端を指でなぞった。

 外しはしない。今は、まだ。


「シリル」

「はい」

「スラッジ書記官への本格的な着手は、フロード補佐官の資料が揃ってからにします。それまでの間に、ドレインという名の『汚水管』について、もう少し詳しく調べてくださいな。単なるコードネームか、それとも実在の組織か人物か」


「かしこまりました。……それと、一つよろしいですか」


「何かしら」


「昨夜から本日の行動を鑑みるに、お嬢様は今、複数の案件を同時並行で動かされています。ドレインの件、スラッジの件、ガルベスとモモの接点、そして暗号文の全解読。……お一人で抱えるには」


「抱えていませんわ」


 私は振り返り、ゆっくりと笑った。


「シリルがいて、リタがいて、フロード補佐官まで加わったのですから。……屋敷中の汚れを、全部一人で拭かなくてもよいでしょう」


 シリルが一瞬、珍しく黙った。


「……はい」


 静かな返事だった。


   * * *


 夕刻になって、珍しいことが起きた。


 リタが、書斎の扉を三回ノックした。


「どうぞ」


 入ってきたリタの手には、小さな紙片があった。

 畳まれた、薄い紙。


 彼女はそれを私に差し出してから、窓の外を一度だけ示した。


 私は紙を広げた。


 そこには、見慣れない筆跡で、ごく短い文章が書かれていた。


   『V家は今夜、動かない方がよい。理由は追って。――F』


「……フロードですわね」


 私は紙片をシリルへ渡した。


「今日の午後から、誰かが屋敷の周囲を観察していたようです。リタが気づいたのですか?」


 リタが一度、首を縦に振る。


「何者?」


 リタは少し考えるような顔をしてから、右手の人差し指と中指を立てた。

 二名、ということだ。そして次に、腰の辺りを軽く叩く。


「武装している。それも、軽装ではなく?」


 リタがまた頷く。続けて、口元に指を当てた。


「声を出さない訓練を受けた者。……工作員、ということですわね」


 私は椅子に深く腰掛け、扇子を開いた。


(フロードが動かない方がよいと言っている。彼が知っているということは、王城側にも何らかの動きがある。スラッジが察知したか、あるいはガルベスが動いたか)


「シリル、今夜の屋敷の警備を二枚重ねにしてくださいな」

「既に手配しております」

「あら、早い」

「フロード殿からの紙片が届いた時点で、察しておりましたので」


 私は小さく笑った。


「あなた、本当に嫌な先読みをしますわね」

「お嬢様のお役に立てますなら」


 同じ台詞。同じ笑顔。

 だが今夜は、それがいつもより少しだけ頼もしく聞こえた。


「ならば今夜は、おとなしく屋敷に篭っていましょう。動かないことも、おそうじの技法の一つですもの」


「といいますと?」


「汚れを取ろうと力任せに布を擦ると、繊維が傷むでしょう? 時には、浸け置きが一番ですわ。……じっくりと汚れを浮かせてから、静かに取り除く」


 シリルが頷く。


「今夜の外の工作員も、放置するということですか」

「ええ。彼らを追い払っても意味はない。どうせ交代要員がいるでしょう。……むしろ、ここにいさせて、何も起こらなかったという情報を持ち帰らせた方がいい」


「V家は今夜は動かなかった、という報告を、敵に送らせる」

「塵をそのままにしておく方が、行き先が見えることもありますの」


 私は窓の外に目をやった。

 秋の夕暮れが、屋敷の庭に長い影を落としている。

 どこかに、二人の工作員がいる。私には見えない。だがリタには見えている。


 それで、十分だ。


   * * *


 夜が更けた。

 屋敷は静かだった。

 工作員らしき人影は、リタの目によれば、日付が変わる前に静かに立ち去ったという。


 案の定、何も持ち帰るものはなかったはずだ。


 ダイニングに移った私は、シリルが用意した夜食を前にした。


 テーブルの上には、素焼きの小鉢に盛られた洋梨のコンポートと、ほんの少しの生クリームを添えたワッフル。そして、カモミールとリンデンを合わせたハーブティーが、白い陶器のポットに収まっている。


「……ずいぶん、おとなしい取り合わせですわね」


 私は席に着きながら言った。


「本日のお嬢様には、落ち着いていただく必要があると判断いたしました」

「私が落ち着いていないように見えて?」

「表面上は、至極穏やかでいらっしゃいます」


 シリルがポットからティーカップに静かにハーブティーを注いだ。

 湯気がゆったりと立ち上り、甘い草の香りが広がる。


「ですが、今日は扇子を閉じる回数が、いつもより三回多うございました」

「…………」


 私は何も言わなかった。


 かわりにカモミールティーを一口飲んだ。

 ほんのり甘く、穏やかな温かさが喉を伝う。


「ドレイン、ですか」


 シリルが静かに言った。問いかけではなかった。


「……汚水管が、このヴィクトリア家を標的にしている。それだけなら、さほど動揺はしませんわ。標的にされるということは、私が正しく機能しているということですもの」


「では、何が」


 私はワッフルを一切れ、フォークで切り取りながら言った。


「汚水管の頂点にいる者が、まだ見えないことが」


 ガルベス子爵は見えている。スラッジ書記官も見えている。カスミ弁護士も見えている。

 だが、ドレインの頂点は、まだ霧の中だ。


「名前のないゴミ、というのは厄介ですわ。どこに捨てればよいか分からない」


「それは、いずれ分かります」


 シリルが静かに言った。


「これまでのお掃除で、名前のなかったゴミが最後まで名前のないままだったことは、一度もございませんでしたから」


 私はティーカップを持ったまま、少し間を置いた。


「……シリル。あなた、今日は妙に慰めがましいですわよ」


「気のせいでございます」


 完璧な笑顔だった。


 私はため息をつくかわりに、洋梨のコンポートを一口食べた。

 熟した洋梨の、柔らかな甘さ。あっさりとしていて、余韻が長い。


「……おいしいですわ」


「恐れ入ります。洋梨は、今が一番いい時期ですので」


 窓の外では、風が出てきていた。

 落ち葉が数枚、庭を舞う。

 秋の深まりが、少しずつ近づいている。


 汚水管の頂点は、まだ霧の中。

 だが霧は、風が吹けば晴れる。


 私はカモミールティーの二杯目を、ゆっくりと飲んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ