第6話:汚泥の染み抜きと、塵の足音
翌朝、ヴィクトリア家の書斎に日が差し込む前から、シリルは机に向かっていた。
隣国の宮廷暗号。
昨夜リタが「回収」してきた羊皮紙は、今や書斎の文机の上に広げられ、その隣に十数枚の翻訳メモが並んでいる。
「……お早いこと」
私が書斎に入ると、シリルは顔を上げることなく言った。
「お嬢様こそ。夜明け前にお目覚めとは、気になることでもございましたか」
「熟睡している場合ではありませんもの」
私は彼の隣の椅子に腰を下ろし、翻訳メモへ視線を向けた。
「解読は?」
「昨夜のうちに、九割方。残り一割は専門的な隠語でしたが――今朝方、照合が取れました。全文、解読完了です」
シリルがようやく顔を上げた。
その表情は平静を保っていたが、目の奥に、私がこれまでほとんど見たことのない色が浮かんでいた。
――慎重さ、だ。
「お嬢様。これは、少々厄介な内容です」
* * *
暗号文の内容は、こうだった。
隣国の工作機関が、この王国の財務省と軍事機密管理部門に、少なくとも三名の協力者を確保している。
スラッジ書記官はその一人に過ぎない。
そして――彼らへの指示系統の頂点にいるのは、ガルベス子爵でも、隣国の工作員でもない。
暗号文が使っていた呼称は、ただ一言。
『汚水管』。
「……汚水管、ですか」
私は翻訳メモを手に取り、静かに読み上げた。
「組織そのものの名前か、あるいは特定の人物のコードネーム。この文書だけでは、どちらとも取れますが」
シリルが頷く。
「汚水管の特性はご存知ですね、お嬢様」
「もちろん。目に見えない。地下に張り巡らされている。詰まっても、表面からはすぐに分からない。……そして一度詰まると、逆流する」
私はメモを机に戻した。
「ガルベス子爵は、汚水管の出口に過ぎなかったわけですわね。本体は、もっと深いところにある」
「おっしゃる通りです。……問題は」
シリルが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「この暗号文に記されていた、もう一つの情報です」
彼が差し出したのは、翻訳メモの最後の一枚。
私はそれを受け取り、目を通した。
一瞬、指先が止まった。
書かれていたのは、次の工作対象の名前だった。
『V家の当主』。
V。ヴィクトリア。
(……私、ですわね)
私は翻訳メモを机に置き、扇子を開いた。
パタパタと静かに風を作りながら、考える。
「標的にされているとは、光栄なことですわ」
「お嬢様」
「だって、彼らにとって私が邪魔に映るということは、私がきちんと仕事をしているという証拠ですもの」
シリルが眉を上げた。それ以上は何も言わない。
私も、これ以上は言わなかった。
ただ、扇子を閉じた音が、いつもより少しだけ、鋭かった。
* * *
朝食の後、私は身支度を整えて書斎に戻った。
今日の予定は、スラッジ書記官への「染み抜き」着手だ。
直接対峙するのではなく、まず証拠の布地をきれいに整えてから、当人に向き合う。
だが、その前にやるべきことがあった。
「シリル、フロード補佐官への連絡を」
「既に。今朝の九時に、商業区の古書店前でお待ちとのことです」
時計を見た。七時半。
ちょうどいい。
「リタ、外出の準備を」
廊下でチャキッと小さな音がした。
* * *
商業区の古書店は、朝のうちはまだ客足が少ない。
埃っぽい本の匂い、古い木の棚、曇り硝子の窓から差し込む灰色の光。
正直、あまり好みの場所ではないが――本の虫たちが好む場所は、それだけ聞き耳を立てる者も少ない。
フロード補佐官は、奥の棚の前に立っていた。
三十代半ばほどの、痩せた男性だ。髪は薄く、眼鏡の奥の目は落ち着かなさそうに動いていたが、私の姿を認めると、ぴたりと止まった。
「……ヴィクトリア嬢」
小さな声だった。
「初めてお目にかかります、フロード補佐官」
私は普段通りの優雅な口調で言いながら、彼の隣の棚へと並んだ。二人並んで本を眺めているように見えるはずだ。
「シリル殿から伺っています。……あなた方が動いてくださると知って、正直、ほっとしました」
「それは大変でしたわね。一人で、十二年分の汚れを記録し続けるのは」
フロードが、一瞬だけ口元を歪めた。苦笑、に似た表情だった。
「記録していなければ、自分まで染まっていきそうで。……それだけです。特別なことは何も」
「いいえ、特別なことですわ」
私はさらりと言った。
「汚れた場所で、汚れずにいることは難しい。……あなたは、その意味で掃除人に向いているかもしれませんわね」
フロードが私を見た。
何か言いたそうにして、黙った。
「さて、本題に入りましょう」
私は本棚から一冊、無造作に抜き取りながら言う。
「スラッジ書記官が管理している財務記録のうち、原本と写しに差異のある箇所があると聞いています。具体的にどこか、特定できますか?」
「……できます。三箇所、確認しています。北部の軍備費の項目と、王都外郭工事の予算枠、それから――」
フロードが声をひそめた。
「王室の慶弔費の欄です。慶弔費は明細開示の義務がない。……一番、隠しやすい」
「なるほど」
私は本を棚に戻した。
「その三箇所の原本と写しの差分を、紙に起こしてお持ちいただけますか? 今週中に。場所は、シリルが改めてご連絡いたします」
「分かりました」
フロードが頷く。その動作に、昨日初めて接触した時よりも、落ち着きがあった。
「……一つ、確認してもよいですか」
私が踵を返しかけた時、フロードが言った。
「スラッジ書記官は、どうなりますか。あの人は、最初から悪人だったわけでは……おそらく、最初は小さな『謝礼』から始まって、気づいた時には引き返せなくなっていたのだと思います。私は、そう見ています」
私は足を止めた。
振り返りはしない。
「それはスラッジ書記官が判断することではなく、私が決めることでもありませんわ」
静かに言う。
「私はおそうじをする人間です。汚れの動機を裁くのは、私の仕事ではない」
一拍置いて、付け加えた。
「ただ――証拠と事実を整えた上で、適切な場所へ引き渡すこと。それが、あなたの十二年間を無駄にしない、唯一の方法ですわ」
フロードは答えなかった。
だが、背後でかすかに、息をつく音が聞こえた。
私は古書店を出た。
* * *
店の外では、リタが壁に凭れて待っていた。
私の顔を見て、一度目を細める。
「何でもありませんわ」
私は日傘を開きながら言った。
「きれいな人間を見ると、少しだけ、妙な気分になりますのよ」
リタは答えない。ただ、私の半歩後ろに、音もなく付いてくる。
(汚れていない人間は、近くにいると妙に眩しい。……まるで磨きすぎた鏡のようで、こちらの顔が映りそうになる)
私は日傘を少し傾けた。
* * *
午後。
ヴィクトリア家に戻った私は、シリルから報告を受けた。
「お嬢様、ガルベス子爵とモモ・ダスト嬢の接点について、第一報が参りました」
シリルが差し出した書類は、一枚だけだった。
だが、その一枚で十分だった。
「……弁護士、ですか」
私は書類を眺めながら言った。
「はい。王都で最も高名な法律事務所の上席弁護士、ナジュミ・カスミ氏。ガルベス子爵とダスト侯爵家、双方の顧問を務めています」
カスミ。
霞――実体がなく、形を変え、見えているようで見えない。
「面白い名前の弁護士ですわね」
「法廷では無敗とされています。証拠を霧散させることに長けているとか」
「……霞は、燃えませんわね」
私は書類を机に置き、扇子を開いた。
「焼いても形にならない。風を送れば逃げる。……でも、湿気が高い場所では、霞は必ず凝結して水滴になる」
「それは?」
「追い詰められた時に、証拠を残す、ということですわ。……カスミ弁護士をガルベス子爵とモモ嬢の『繋がり』として活用するより、彼が双方の依頼を受けているという事実そのものを『証拠』にした方が、よほど役に立つ」
シリルが微かに目を細めた。
「証拠にするためには、二つの依頼が利益相反にある、と立証できる案件が必要ですね」
「ええ。ちょうど、王室の慶弔費の不正記録の中に、ダスト侯爵家の名前があれば理想的ですわ。フロード補佐官の資料が楽しみですわね」
「……なるほど。染みと塵が、同じ水路を使っていた、という構図ですか」
「そういうことですわ」
私は扇子を閉じた。
「霞は、やがてガルベスとモモをつなぐ水路として機能する。……先に水路の地図を作ってしまえば、流れてくるものが何でも分かりますもの」
シリルが深く一礼する。
「さすがでございます」
「お世辞は結構ですわ」
私は席を立ち、窓辺に歩み寄った。
午後の王都は、穏やかに見えた。
往来には人が行き交い、石畳の上を秋の風が吹いている。どこにも、汚れの気配はない。
だが私には分かる。
目に見えない場所で、汚水管が詰まりかけている。
目に見えない塵が、静かに、着実に積もり続けている。
(ドレイン。汚水管。――その頂点にいる者は、まだ姿を現していない)
私はそっと、右の手袋の端を指でなぞった。
外しはしない。今は、まだ。
「シリル」
「はい」
「スラッジ書記官への本格的な着手は、フロード補佐官の資料が揃ってからにします。それまでの間に、ドレインという名の『汚水管』について、もう少し詳しく調べてくださいな。単なるコードネームか、それとも実在の組織か人物か」
「かしこまりました。……それと、一つよろしいですか」
「何かしら」
「昨夜から本日の行動を鑑みるに、お嬢様は今、複数の案件を同時並行で動かされています。ドレインの件、スラッジの件、ガルベスとモモの接点、そして暗号文の全解読。……お一人で抱えるには」
「抱えていませんわ」
私は振り返り、ゆっくりと笑った。
「シリルがいて、リタがいて、フロード補佐官まで加わったのですから。……屋敷中の汚れを、全部一人で拭かなくてもよいでしょう」
シリルが一瞬、珍しく黙った。
「……はい」
静かな返事だった。
* * *
夕刻になって、珍しいことが起きた。
リタが、書斎の扉を三回ノックした。
「どうぞ」
入ってきたリタの手には、小さな紙片があった。
畳まれた、薄い紙。
彼女はそれを私に差し出してから、窓の外を一度だけ示した。
私は紙を広げた。
そこには、見慣れない筆跡で、ごく短い文章が書かれていた。
『V家は今夜、動かない方がよい。理由は追って。――F』
「……フロードですわね」
私は紙片をシリルへ渡した。
「今日の午後から、誰かが屋敷の周囲を観察していたようです。リタが気づいたのですか?」
リタが一度、首を縦に振る。
「何者?」
リタは少し考えるような顔をしてから、右手の人差し指と中指を立てた。
二名、ということだ。そして次に、腰の辺りを軽く叩く。
「武装している。それも、軽装ではなく?」
リタがまた頷く。続けて、口元に指を当てた。
「声を出さない訓練を受けた者。……工作員、ということですわね」
私は椅子に深く腰掛け、扇子を開いた。
(フロードが動かない方がよいと言っている。彼が知っているということは、王城側にも何らかの動きがある。スラッジが察知したか、あるいはガルベスが動いたか)
「シリル、今夜の屋敷の警備を二枚重ねにしてくださいな」
「既に手配しております」
「あら、早い」
「フロード殿からの紙片が届いた時点で、察しておりましたので」
私は小さく笑った。
「あなた、本当に嫌な先読みをしますわね」
「お嬢様のお役に立てますなら」
同じ台詞。同じ笑顔。
だが今夜は、それがいつもより少しだけ頼もしく聞こえた。
「ならば今夜は、おとなしく屋敷に篭っていましょう。動かないことも、おそうじの技法の一つですもの」
「といいますと?」
「汚れを取ろうと力任せに布を擦ると、繊維が傷むでしょう? 時には、浸け置きが一番ですわ。……じっくりと汚れを浮かせてから、静かに取り除く」
シリルが頷く。
「今夜の外の工作員も、放置するということですか」
「ええ。彼らを追い払っても意味はない。どうせ交代要員がいるでしょう。……むしろ、ここにいさせて、何も起こらなかったという情報を持ち帰らせた方がいい」
「V家は今夜は動かなかった、という報告を、敵に送らせる」
「塵をそのままにしておく方が、行き先が見えることもありますの」
私は窓の外に目をやった。
秋の夕暮れが、屋敷の庭に長い影を落としている。
どこかに、二人の工作員がいる。私には見えない。だがリタには見えている。
それで、十分だ。
* * *
夜が更けた。
屋敷は静かだった。
工作員らしき人影は、リタの目によれば、日付が変わる前に静かに立ち去ったという。
案の定、何も持ち帰るものはなかったはずだ。
ダイニングに移った私は、シリルが用意した夜食を前にした。
テーブルの上には、素焼きの小鉢に盛られた洋梨のコンポートと、ほんの少しの生クリームを添えたワッフル。そして、カモミールとリンデンを合わせたハーブティーが、白い陶器のポットに収まっている。
「……ずいぶん、おとなしい取り合わせですわね」
私は席に着きながら言った。
「本日のお嬢様には、落ち着いていただく必要があると判断いたしました」
「私が落ち着いていないように見えて?」
「表面上は、至極穏やかでいらっしゃいます」
シリルがポットからティーカップに静かにハーブティーを注いだ。
湯気がゆったりと立ち上り、甘い草の香りが広がる。
「ですが、今日は扇子を閉じる回数が、いつもより三回多うございました」
「…………」
私は何も言わなかった。
かわりにカモミールティーを一口飲んだ。
ほんのり甘く、穏やかな温かさが喉を伝う。
「ドレイン、ですか」
シリルが静かに言った。問いかけではなかった。
「……汚水管が、このヴィクトリア家を標的にしている。それだけなら、さほど動揺はしませんわ。標的にされるということは、私が正しく機能しているということですもの」
「では、何が」
私はワッフルを一切れ、フォークで切り取りながら言った。
「汚水管の頂点にいる者が、まだ見えないことが」
ガルベス子爵は見えている。スラッジ書記官も見えている。カスミ弁護士も見えている。
だが、ドレインの頂点は、まだ霧の中だ。
「名前のないゴミ、というのは厄介ですわ。どこに捨てればよいか分からない」
「それは、いずれ分かります」
シリルが静かに言った。
「これまでのお掃除で、名前のなかったゴミが最後まで名前のないままだったことは、一度もございませんでしたから」
私はティーカップを持ったまま、少し間を置いた。
「……シリル。あなた、今日は妙に慰めがましいですわよ」
「気のせいでございます」
完璧な笑顔だった。
私はため息をつくかわりに、洋梨のコンポートを一口食べた。
熟した洋梨の、柔らかな甘さ。あっさりとしていて、余韻が長い。
「……おいしいですわ」
「恐れ入ります。洋梨は、今が一番いい時期ですので」
窓の外では、風が出てきていた。
落ち葉が数枚、庭を舞う。
秋の深まりが、少しずつ近づいている。
汚水管の頂点は、まだ霧の中。
だが霧は、風が吹けば晴れる。
私はカモミールティーの二杯目を、ゆっくりと飲んだ。




