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第5話:染み抜きは慎重に――王城の害虫、初動調査

 ヴィクトリア家の書斎は、いつも清潔だ。

 塵一つなく磨き抜かれた書棚。乱れ一つない書類の山。窓硝子は指紋の跡さえなく、朝の光を透明に通している。


 だが今、私の目の前に広げられているのは、どうにも汚らしい一覧表だった。


「……ずいぶん、黒ずんでいますわね」


 私はシリルが用意した羊皮紙の束――王城勤務の側近・官吏、計八十七名の経歴と人間関係の一覧――を指先でなぞり、思わず眉をひそめた。


「汚れ方は様々です」


 シリルが対面に立ち、薄い笑顔のまま解説する。


「うっすらとした灰色(小口の賄賂)、滲んだ黄ばみ(古い縁故関係)、そして――」


 彼は一本の指を、ある一点に置いた。


「黒い染み。これはもう、洗っても落ちません」


 私はその箇所を見た。

 王城の財務管理室に勤める、ロムルス・スラッジ上席書記官。

 四十二歳。王城勤務歴十八年。表向きは温厚で勤勉な中堅官吏。だが――


「スラッジ(汚泥)、ですか。染みにしては、ずいぶん根の張った名前ですわね」

「お察しの通りです。ガルベス子爵の縁戚の商家から、定期的に『謝礼』を受け取っています。金額は少額に抑えてありますが、十二年にわたって継続的に。染み込む時間が長ければ長いほど、布地の奥まで入り込みますから」

「……なるほど。定期的な少量汚染型。タチが悪い部類ですわ」


 私は椅子に深く腰掛け、扇子を開いた。


「単純な焼却では済みませんわね。染みのある布地を力任せに燃やしても、証拠まで一緒に灰になるだけ。……これは、まず染み抜き作業から始めなくてはなりませんわ」

「おっしゃる通りです。ただ、問題が一つございます」


 シリルが静かに続ける。


「スラッジ書記官は現在、王城の財務記録の大部分を管理しています。彼を直接拘束すれば、ガルベス子爵に察知される可能性が高い。……蜘蛛の糸を引っ張れば、蜘蛛が逃げますから」

「ならば、引っ張らなければいいだけの話ですわ」


 私はパチンと扇子を閉じた。


「蜘蛛はそのままにして、巣の方を丁寧に調べればよろしいのよ。巣の構造が分かれば、どこから触れば蜘蛛を追い詰められるか、自然と分かりますもの」


 背後でリタが、ハサミを小さく鳴らした。

 チャキ。

 同意の合図だ。


「具体的には?」

「まず、スラッジ書記官が管理している財務記録の『写し』を入手しますわ。彼自身ではなく、記録そのものを検分する。汚れの出所さえ特定できれば、あとはスラッジから芋を引くように、ガルベスとの金の流れが全部出てきますわよ」

「……財務記録は王城の厳重管理下にあります。内部に協力者でもいなければ、閲覧は不可能ですが」

「いますわよ、協力者」


 私は淡々と言った。


「先日、国王陛下がこちらにいらした時、陛下のお付きの者の中に一人、奇妙な視線を向けてきた方がいましたでしょう?」

「……書記補佐の、フロード殿ですね」


 シリルの目が、わずかに細くなる。


「お嬢様は、あの場でもう見抜いていらしたのですか」

「汚れていない人間の目、というのは、案外すぐ分かりますわ。ごみごみとした場所で過ごしていると、自分の目が濁っていくものでしょう? 彼の目は、澄んでいた」


 私は立ち上がり、書斎の窓へと歩み寄る。

 白い手袋に包まれた手を、窓枠にそっと添えた。


「シリル、今日の午後、フロード補佐官に接触してくださいな。場所は王城ではなく、商業区の古書店がよろしいわ。彼は毎週木曜の昼に、そこへ本を買いに行っているはずですから」

「……調べてあるのですか」

「もちろん。嬉しいことに、今日は木曜日ですわよ」


 シリルが小さく息をついた。それは感嘆に近い音だった。


「かしこまりました。……では、お嬢様はどちらへ?」

「私は、ガルベス子爵の方を少し、調べてみますわ」


 私はそう言って振り返り、リタへと視線を向けた。


「リタ。外出の準備を」


 コクリ。

 リタは頷き、音もなく部屋を出た。


   * * *


 王都の商業区から外れた路地裏に、ひっそりとした料亭がある。

 看板に名前はなく、店主を知る者だけが訪れる、いわゆる『接待の場』だ。


 私は、その向かいの雑貨店の二階から、小さな遠見の単眼鏡で料亭の出入りを観察していた。

 地味な茶色のケープで素性を隠した格好は、正直なところ好みではない。


(リタにもっとマシな変装を用意させるよう、シリルに言っておきますわ)


 リタは扉の影に、石像のように静止している。擬態が完璧すぎて、私も時々どこにいるか見失う。


「――来ましたわ」


 料亭の暖簾をくぐったのは、恰幅の良い中年の男。

 ガルベス子爵だ。腐敗貴族連合の筆頭格。シリルの表現を借りれば、「全てをゴミ袋に押し付けて利益だけを吸い上げる」男。


 彼に続いて入ったのは、見慣れない人物だった。

 旅装の、40代ほどの男性。腰の剣の形が、この国の様式ではない。


(……隣国の者ね)


 私は単眼鏡を覗いたまま、唇の端を上げた。


 第4話でゴルミ男爵が「隣国との繋がり」を示唆していたが、こうして目視できるとは思っていなかった。随分と急いでいるようだ。ゴルミ男爵が捕縛されたことで、焦っているのかもしれない。


「慌てたゴミは、こぼれやすくてよろしいですわ」


 私は手帳を取り出し、料亭に入った人物の特徴をサラサラと書き留める。

 時間。人相。服装の特徴。剣の柄の意匠。


 三十分後、二人は料亭を出た。

 別々の方向へ。ガルベス子爵は王城方面へ。隣国の男は宿屋街の方へ。


「リタ」


 私は小声で言った。

 リタが影から滲み出るように近づく。


「あの旅装の男を、追って」


 リタは無言で頷き、路地へと溶けた。

 追尾の命令を出す時、私は決してリタに「危なくなったら引き返しなさい」とは言わない。彼女にとっては不要な言葉だと知っているからだ。……それに、彼女がどこへ行っても無事に戻ってくることを、私は知っている。根拠のない確信ではなく、積み上げてきた実績への信頼だ。


 私は雑貨店の二階で、一人になった。


 窓の外、王都の往来を眺める。

 赤ん坊を抱いた母親。商品を声高に売る行商人。石畳を鳩が歩いている。


 この街の、誰も知らない場所で汚れが溜まっている。

 知らない人々は今日も当たり前のように笑い、歩き、買い物をする。


 私はそっと、右手の手袋を外した。

 白い指先を、窓から差し込む午後の光にかざす。


 綺麗な手だ。

 今日は、まだ何も燃やしていない。


 だが――。


(ゴルミ男爵の屋敷でのあの目。お前は何者なのか、と問うような顔。伯爵の研究所で助け出した領民たちの、恐怖の目。……私は彼らに、一度でも、ちゃんとした顔を向けたことがあったかしら)


 思考が、思わぬ方向へ滑る。

 私は軽く首を振り、手袋を嵌め直した。


 余計なことを考えるのは、お掃除が終わってからにしますわ。


   * * *


 夕刻、ヴィクトリア家に戻ると、シリルが既に書斎で書類を並べて待っていた。


「フロード補佐官との接触は、いかがでした?」

「順調です」


 シリルは珍しく、笑みの質がわずかに異なった。愉快そう、というより――感心した、という顔だ。


「フロード殿は、既に内部で証拠を集めておいででした。私どもが接触する以前から、スラッジ書記官の不正を記録していたようで。……ただ、証拠を持って誰に持ち込めばいいか分からず、一人で抱えていたと」

「……まあ」


 私は少し、意外に思った。

 汚れた環境の中で、自力で汚れと戦おうとしていた人間がいた。


「その方は、本物の人ですわね」


 私の言葉に、シリルは微かに目を細めた。


「フロード殿は何と?」

「『ヴィクトリア嬢の使いなら、喜んでお渡しします』と。それと――」


 シリルが手元の書類から、封筒を一枚取り出した。


「『あなた方が来るのを、待っていました』と申されておりました」


 私は封筒を受け取り、中を確認した。

 スラッジ書記官が十二年間にわたって処理した財務記録の写し。そして、ガルベス子爵の縁戚の商家への不正な資金移動の証跡。数字が、雄弁に語っている。


 これは、単なる汚泥スラッジではない。

 体系的な、計画的な、染み込みだ。


「……根が深いですわね」


 私は書類をシリルへ返しながら言った。


「一枚布を染めるのではなく、布地全体をじわじわ湿らせて、気づいた時には全部が変色している、という汚し方ですわ。……ダスト(塵)に似た手口ですわね」


 モモ・ダストの名が、頭をよぎった。

 目に見えにくく、蓄積する。気づいた時には手遅れになる。


(ガルベス子爵とモモ嬢は、汚し方が似ている。……繋がりを確認しておく必要がありますわね)


「シリル、一つ追加で調べてほしいことがありますわ」

「何でしょう」

「ガルベス子爵と、モモ・ダスト嬢の接点。直接でなくてもよい。共通の知人、取引のある商家、使っている弁護士でも」

「……面白い着眼点ですね」


 シリルの笑みが、心持ち深くなった。


「かしこまりました。三日以内に」

「ありがとう」


 私が頷いた時、書斎の窓が音もなく開いた。


 リタが戻ってきた。

 服装に乱れなし。靴底にも土汚れなし。だが、手に折り畳んだ羊皮紙を持っている。


「……リタ。何か取ってきたのですか?」


 リタは無言のまま、羊皮紙を私に差し出した。

 広げると、そこには見知らぬ文字で書かれた暗号文と、小さな紋章の押印があった。


 隣国の紋章だ。

 あの旅装の男から「回収」してきたらしい。


「……ずいぶん、しっかり拾ってくれましたわね」


 私がリタを見ると、彼女はただ一度、目を細めた。

 それが「当然です」の意味だと、私は分かっている。


「シリル、この文字は?」

「……隣国の宮廷暗号です。解読には少々お時間をいただきますが――おそらく一晩あれば」


 シリルは書類を受け取り、ゆっくりと目を通す。


「……お嬢様。これは想像以上に、根が深いかもしれません」

「分かっていますわ」


 私は椅子に腰掛け、脚を組んだ。


「ガルベス子爵単体の問題ではなく、隣国の組織がこの国の財務・情報網に染み込んでいる。王城の内通者はスラッジ一人ではないかもしれない。……これはもう、『大掃除』では済みませんわね」


「どういった規模を想定なさいますか」


「そうですわね」


 私は扇子を広げ、静かに風を作った。


「家の中だけ掃除しても、外から汚れが吹き込んでいれば意味がありませんもの。……窓の外も、そのうち掃除が必要になりますわ」


 シリルが一拍置いた後、静かに言った。


「それは――第二章の領域ですね」

「ええ」


 私は涼しい顔で頷く。


「でも今は、まず足元の汚れから。スラッジ書記官とガルベス子爵。この染みを丁寧に抜いてから、窓を開けましょう。……暗号文の中身次第では、窓を開ける日が早まるかもしれませんけれど」


   * * *


 書類を整理し終えた頃には、夜になっていた。

 シリルが書斎を出て行き、リタが廊下に控えた後、私は一人書斎に残って窓を眺めていた。


 王都の夜は、遠くでぼんやりと光っている。

 王城の塔灯が、その中でひときわ白く輝いていた。


(スラッジ書記官は今夜も、あの王城の中にいる。十二年間、染み込み続けながら。……あの人間は、自分が「染み」だと分かっているのかしら)


 分かっていて染み込んでいる汚れと、気づかずに汚れていく汚れ。

 どちらが厄介かは、場合による。


 私は書斎の文机に手袋を外した手を置き、そのまま少しの間、自分の手を見つめた。


 白い。綺麗な、指先。

 今日は何も燃やしていない。


 だが、今日の私の手は何をしたか。

 情報を集め、人を動かし、敵の動向を把握した。見えない手を、見えないところに伸ばした。


(それは、ガルベス子爵のやり方と、どこが違うのかしら)


 ――違いますわ。


 私はすぐさま打ち消した。

 目的が違う。汚れを落とすための手と、汚れを広げるための手は、別物だ。


 ……そう、別物のはずだ。


 私は手袋を嵌め直し、すっと立ち上がった。


「リタ」


 廊下から、気配が近づく。


「ダイニングへ。今夜はゆっくり、温かいものをいただきたいですわ」


   * * *


 ヴィクトリア家のダイニングには、夜の静寂が満ちていた。


 シリルが用意してくれたのは、冬の終わりにしかつくらない白トリュフのリゾットと、濃いめのアールグレイ。

 デザートには、薄くスライスしたレモンが添えられた、シンプルなアーモンドタルトが一切れ。


「……珍しいものを選びましたわね、シリル」

「今夜のお嬢様には、香りの強いものが必要だと思いまして」


 シリルが給仕をしながら、一切笑顔を崩さずに言う。


「香りの強いもの?」

「余計な匂いを払うのに、強い香りは有効です。お掃除の基本ですよ、お嬢様」


 私は少し間を置いてから、小さく笑った。


「……あなたは、本当に嫌な観察眼を持っていますわね」

「お嬢様のお役に立てますなら」


 リゾットを一口。

 白トリュフの深い薫りが、鼻を抜ける。思考が少し、ほどける気がした。


「シリル」

「はい」

「今日私が書斎で考えていたことを、あなたは聞いていましたか?」


 シリルは少し間を置いた。


「聞いておりません」


 嘘だ。廊下にいたリタを通じて、気配くらいは察したはずだ。だが、聞いていない、と言うのならそれでいい。


「……そう」


 私はアールグレイを一口飲んだ。

 ベルガモットの香りが、ふわりと立ち上る。


「今夜は少し、汚れが落ちにくい気がしますの」

「そのような夜もございます」


 シリルは静かに答えた。


「お嬢様。染み抜きは、力任せにこすっても生地を傷めるだけです。……時間をかけて、丁寧に」

「……掃除の話をしていますの?」

「もちろん」


 完璧な笑顔だった。


 私はアーモンドタルトを一切れ、口に運んだ。

 素朴な甘さが、舌に広がる。特別ではない、日常の甘さ。


 ――明日からまた、おそうじが続く。

 スラッジ書記官の染みを丁寧に抜いて、ガルベス子爵という不燃ゴミに本格的に向き合う。隣国の暗号文を解読して、第二章の「窓の外」への道を確かめる。


 やることは山積みだ。

 だが今夜だけは、温かいリゾットとアールグレイがある。


「……おいしいですわ」


 私は率直に言った。


「恐れ入ります」


 シリルが、一度だけ深く頭を下げた。


 ダイニングの窓の外、王都の夜が続いている。

 王城の塔灯はまだ白く、遠く輝いていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


1話から5話まで、一気に投稿してみました。

クレアのおそうじ、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。


婚約破棄からはじまって、深夜の違法研究所、

腐敗貴族たちのゴミ箱化、国王からの特命……

と怒涛の展開でしたが、実はまだ「大掃除の準備段階」です笑


クレアの本当のおそうじは、これからです


気に入っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると

次の投稿の背中を押していただけます。

続きをお楽しみに!

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