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第18話:燃え残りは、必ず出てくる

 報告書の追加が終わったのは、夜の八時を過ぎた頃だった。


「シリル、今日のことで気になる記載があると言っていましたわね」


 私は机の上の参照資料を揃えながら言った。シリルが四十三番の書類を持って、書斎の灯りに近づけた。


「L勘定の目録に、一件だけ他と性質の異なる取引があります」


「どういうことかしら」


「他の百四十六件は、すべて資金の流出です。ガルベス子爵への不正資金、クロフト経由の防衛予算、カスミ弁護士を通じた資金ルート。……すべて、L勘定から外へ出ていく方向の取引です」


「ええ」


「しかし一件だけ、L勘定への流入がある。……日付は今年の三月です」


(三月。……ガルベスを私が泳がせていた頃ですわ)


「金額は?」


「他の取引と比べると、小さい。王都防衛予算の百分の一程度です。ただし」


 シリルが少し間を置いた。


「送金元の記載が、ダスト侯爵家の傍系事業の名義になっています」


 書斎に、静かな時間が流れた。


 私は扇子を手に取った。まだ開かない。


(ダスト侯爵家。モモ・ダスト。E-1の伏線が、ここでまた顔を出してきましたわね)


「ダスト侯爵家から、L勘定への送金」


「はい。……これはガルベスやクロフトとは逆向きです。ダスト侯爵家の傍系事業が、シュラッセのL勘定へ資金を流していた」


「つまり」


「ダスト侯爵家は、ドレインの末端ではなく。……ドレインの資金提供者側にいた可能性があります」


 私は扇子を机に置いた。


(ゴミを収集する側だと思っていたら、ゴミ収集車の燃料を供給していた。モモ・ダストは、王子を使って腐敗貴族の不正法案を通す一方で、その上の本管にも直接資金を流していた。……塵は、思っていたより深いところまで積もっていましたわ)


「この情報は、今夜の報告書に加えますわよ」


「四十四番として整理します」


「ただし」


 私は少し考えた。


「今夜の報告書には、事実の記載に留めてください。解釈は加えない。……ダスト侯爵家とシュラッセの関係について、私たちが結論を出すのは早すぎますわよ。傍系事業を通じた取引が何を意味するかは、シュラッセの取り調べを待ってからでも遅くはない」


「かしこまりました」


「ただし、モモ・ダストへの監視を一段階上げてください。今の段階では、あくまで念のため、という位置づけで」


「了解しました。……すでに、昨日から監視の密度を少し上げてあります」


「さすがですわ」


* * *


 夜の十時を過ぎた頃、リタが書斎の扉を叩いた。


 一度、また一度。間を置いて、三度目。


 このパターンは「外からの来客」ではなく「屋敷内で確認が必要なことがある」という合図だ。


「どうぞ」


 リタが入ってきた。手に、小さな紙切れを持っている。


 受け取る。


 紙切れには、一行だけ書いてある。筆跡に、見覚えがない。


*「東門の裏手に、伝言を持った者がいる。名はムーア。自首したい、と言っている。——屋敷の門番より」*


 私はシリルと目が合った。


「ムーアが自首」


「昨日から消えていたムーアが、屋敷に来た」


「……タイミングが、よすぎますわね」


(ガルベスが拘束されて、クロフトが今日確保されて、L勘定の目録が手元にある。今日一日で、ドレインの枝管が軒並み機能を失った。……そのタイミングでムーアが自首に来た)


「罠の可能性は?」


「ゼロではありません。ドレインがムーアを使って情報を引き出そうとしている可能性もある。……ただ」


 シリルが少し考えた。


「ムーアの立場を考えると、今が最も自首に来やすいタイミングでもあります。頼れる上位の命令系統が全て機能を失った。自分だけが宙に浮いた状態で、どこへも行けない。……逃げようとしても、何の保護もない」


「塵が、掃き残されていましたのね」


(ゴミ箱を全部回収したら、一粒の塵だけが残った。その塵が、自分から箒に寄ってきた、というわけですわ)


「リタ、東門の様子を確認してきてくださいな。ムーアが一人かどうか、周囲に不審な人間がいないかどうかを」


 リタが頷いた。外套を翻して出ていく。チャキッ、という音。


 私は扇子を手に持った。


「シリル、ムーアを屋敷内に入れる前に、確認事項を整理しましょう」


「はい」


「ムーアが持っている情報は何か。ムーアが自首することで、ドレインにどんな信号が行くか。そして、ムーアが今夜話すことを、明日の陛下への報告書に加えることができるか」


「三点とも、確認が必要です。……ただ、一点目については」


「何かしら」


「ムーアはガルベスとクロフトの間で動いていた。……シュラッセと直接接触していた可能性は低いです。ドレインの本管については、ムーアは何も知らない可能性が高い」


「でも」


「でも?」


「ムーアはクロフトと接触していた。クロフトとシュラッセの接点について、間接的な情報を持っている可能性はある。……燃え残りには、燃え残りなりの有用性がありますわよ」


(焼却炉から出てきた灰の中にも、有用な成分が含まれていることがある。リサイクル資源として使えるかどうかは、内容次第ですわ)


「それから、もう一点」


「何かしら」


「ムーアが屋敷に来たことは、今夜中にシュラッセ側に伝わる可能性があります。……ムーアを屋敷内に入れた段階で、V周辺がムーアの行方を知っていることが、ドレインに察知されうる」


(シュラッセが焦っている。今日、金庫室に入室して証拠の処理を試みた。……ムーアが私の屋敷に来たと知れば、シュラッセは今夜もう一手打ってくる可能性がありますわ)


「だからこそ、今夜屋敷に置くのは一晩だけにしますわよ。明日の朝一番で、王城に引き渡します」


「了解しました」


 十分ほどして、リタが戻ってきた。


 無言で、人差し指を一本立てた。「一人だ」という合図だ。次に、右の手のひらを胸に当てた。「体は無事」という確認。それから、左手の親指をわずかに下に向けた。「状態はよくない」。


(ムーア本人が、一人で来た。怪我はないが、消耗している。……一晩追い詰められた人間の状態ですわね)


「連れてきてくださいな。ただし、客間ではなく、使用人の控え室に。カスミ弁護士と顔を合わせないように動線を分けて」


 リタが静かに頷いた。


* * *


 控え室に入ると、ムーアは椅子に座っていた。


 初めて間近で見る。


 三十代後半の男性で、体格はよいが、今夜は肩が落ちている。目の下に深い疲労がある。外套は旅装のようだが、泥が跳ねている。昨日から屋外にいたのだろう。


「クレア・ヴィクトリアですわ」


 私は立ったまま言った。


 ムーアが顔を上げた。その目が、私を見て少し揺れた。


(恐れ、ですわね。ただの警戒ではなく、何かを知っている人間の恐れ。……私の名前と、私が何をする人間かを、ある程度知っているのでしょうね)


「自首に来たとのこと。聞きますわよ」


「……はい」


「ただし、条件があります」


 ムーアが黙って私を見た。


「あなたが今夜話すことは、明日の朝、王城に引き渡します。あなた自身も含めて。……処分については、陛下がお決めになることです。私が保証できることは、今夜の安全と、王城への引き渡しの際に自首であったことを記録に残すことだけですわよ」


「それで、構いません」


「では始めてください」


 ムーアが少し息をついた。


「私がクロフトと接触したのは、二年前です。……クライン侯爵の別宅に呼ばれたのが最初でした。クロフトが私に依頼したのは、ガルベス子爵周辺の貴族の動向を探ること、です」


(ガルベス周辺の動向を探る? クロフトがムーアに依頼した内容が、ガルベス側の監視?)


「ガルベスを守るためですか。それとも、ガルベスを監視するためですか」


 ムーアが少し間を置いた。


「……監視、だったと思います。クロフトは、ガルベス子爵が確実に動いているかどうかを、別の経路で確認したかった」


(クロフトはガルベスを信用していなかった。あるいは、上位の指示として、複数の管が互いを監視する構造になっていた)


(汚水管の中に、さらに細い監視管が走っていたというわけですわ。……念の入ったゴミ処理システムですわね)


「クロフトは、シュラッセから指示を受けていましたか」


 ムーアの目が、一瞬動いた。


「……シュラッセという名前は、クロフトの口から出たことはありません」


「でも」


「でも、クロフトが月に一度、財務管理局に行っていたのは知っています。……局長代理への表敬訪問、という名目でした。私も一度、外で待っていたことがある」


(クロフトが月に一度、シュラッセのもとへ。表敬訪問という形で、報告と指示を受け取っていた。……これは証拠にはならないが、Sの推測を補強する状況証拠にはなりますわ)


「シリル」


「はい」


「今夜中に、クロフトの財務管理局への訪問記録を確認できますか」


「明日朝の謁見に間に合わせる形であれば、陛下の秘書室に至急の書状を出して、クロフトの行動記録を取り寄せる形になります。……今夜中は難しいですが、明日の謁見の席でお願いすることはできます」


「了解ですわ。続けてください」


 ムーアが少し背を起こした。


「スラッジ書記官が意識不明で発見された件について、あれは私の指示ではありません」


(スラッジ書記官の件。……第7話の事案ですわね。ムーアが直接の実行者ではないと言っている)


「では、誰の指示ですか」


「クロフトが、直接誰かに依頼した。……私は、事後に報告を受けました。計画に事前から加わっていたわけではない」


「あなたはその事後報告を受けて、どうしましたか」


 ムーアが押し黙った。


「……何もしませんでした」


(何もしなかった。共犯ではないが、黙認した。……クロフトへの従属関係の中で、動けなかったということですわね。この点は、カスミ弁護士の立場と似ていますわ)


「他に話せることはありますか」


「一点だけ」


 ムーアが少し顔を上げた。


「クロフトが、昨日の拘束の直前に、私に短い伝言を残しました。……私への最後の指示です」


「内容は?」


「『霧を探せ。霧が全てを知っている』という言葉でした」


 書斎ならぬ控え室に、しんとした空気が流れた。


(霧。……G-1。第7話の手紙で出てきた、正体不明の第三者ですわよ。クロフトが最後の指示として、霧の所在を探せと言った)


(クロフトは、霧の存在を知っていた。そして霧を脅威とみなしていた。……あるいは、霧が自分側の監視者だと思っていた可能性もありますわ)


「クロフトが霧について、他に何か言いましたか」


「それだけです。……私には意味が分かりませんでした。ただ、クロフトが最後にそれを言ったということは、クロフトにとって霧というのは重要な存在だったのだと思います」


(重要な存在。クロフトが拘束される直前に、霧の所在を確認するよう指示した。……ドレイン側も霧の動きを把握したかった、ということかしら。クロフトは霧が何者かを最後まで掴めていなかった)


「分かりましたわ。今夜はここで休んでください。明日の朝、王城へ参りますわよ」


「……ヴィクトリア嬢」


「何かしら」


 ムーアが少し頭を下げた。


「感謝は申し上げません。でも、スラッジ書記官は生きていますか」


(スラッジ書記官のことを聞いてきた。……完全に無関心ではない、ということですわ)


「生きていますわよ。意識も回復しています」


 ムーアが小さく息をついた。それ以上は言わなかった。


* * *


 控え室を出ると、廊下でシリルが口を開いた。


「霧の件ですが」


「ええ」


「クロフトが霧を脅威と感じていたとすれば、霧はドレイン側の監視者ではない可能性が高い。……ドレインの外側にいる誰かですわよ」


「私もそう思いますわよ」


(霧が、クレア側でも敵対勢力側でもない、独自の立場から動いている。……第7話の手紙の時点でそう判断していたが、クロフトの最後の言葉がそれを補強した。霧はドレインから見ても謎の存在だった)


「今夜は整理しておいてくださいな。明日の謁見に持っていく情報の優先順位を」


「はい。……ただ、お嬢様、一点だけ申し上げてもよいですか」


「どうぞ」


「今日のムーアの話を全部繋げると、シュラッセを頂点として、ガルベス・クロフト・ムーアが階層的に動いていた構造が見えます。それに加えて、ダスト侯爵家の傍系事業からの送金がL勘定に入っていた」


「ええ」


「この構造の中で、一つだけ浮いているものがあります」


(浮いているもの?)


「霧、ですわね」


「はい。霧は、この水路図のどこにも収まっていない」


(そうですわよ。ガルベスもクロフトもムーアも、シュラッセを頂点とした汚水管の中に収まっている。ダスト侯爵家も、送金という形で繋がっている。でも霧だけは、どこにも繋がっていない線として浮いている)


「浮いているということは」


「霧は、排水管の外にある、ということかもしれません。……別の管ですわよ。あるいは、まだ私たちには見えていない管の、出口だけが見えている状態か」


 シリルが少し目を細めた。


「明日の謁見の後、霧について何か動きを取りますか」


「まだですわよ。……シュラッセへの正式な動きが始まってから、霧が何かしてくるかどうかを見てから判断しますわ。霧は急かさない方がいい。急かすと、霧は霧のままでいなくなりますもの」


(霧は、こちらから追えば逃げる。……でも、霧は目的があってあそこにいる。目的が果たされるか、あるいは機が熟せば、自分から姿を現す可能性がある)


「賢明な判断かと存じます」


「当然ですわよ」


 私は廊下を歩きながら、少し考えた。


(今日一日で、随分と片付きましたわ。ガルベスが拘束されて、クロフトが確保されて、L勘定の目録が手元にある。ムーアが自首してきた。……本管は明日動く。でも、モモ・ダストと霧という二つの塵が、まだ宙に浮いている)


(塵は積もりますわよ。今は優先順位の外でも、必ずどこかに落ちてくる)


 書斎のドアを開けながら、私はシリルに言った。


「明日の謁見の書状は、すでに書いてありますわね」


「はい。今夜の情報を追加して、四十四番・四十五番まで更新します」


「ムーアの供述は四十五番として」


「了解です。……それと、クロフトの財務管理局訪問記録の確認依頼も書状に加えておきます」


「完璧ですわよ」


(四十五点。……随分と丁寧に分別できましたわね。あとは、この分別ゴミを正しく回収してもらうだけですわ)


* * *


 報告書の更新が終わったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。


 私は窓のそばに立って、夜の王都を眺めた。


 王城の塔に、薄く灯りが見える。陛下もまだ起きていらっしゃるかもしれない。


 右手の白い手袋を、ちらりと見た。


(今日も、汚れていませんわよ)


 シリルの言葉が、また耳の奥でわずかに鳴った。


正しい掃除は、掃除人自身を汚さない。


(でも、私はいつか汚れるかもしれない。……本管に直接触れる日が来た時、この手袋は果たして守ってくれますかしら)


 その思考が、ゆっくりと頭の中を流れていくのを感じた。


 私は意図的に流れに任せた。打ち消さなかった。


(打ち消せないなら、きれいに見ておきますわよ。ゴミは見て見ぬふりをしても消えません。……私の内側にあるものも、同じですわ)


 しかし答えは、今夜は出なかった。


 私はゆっくりと窓から離れた。


(今夜は、ここまでにしておきますわよ)


* * *


 カスミ弁護士が、就寝前に廊下で声をかけてきた。


「お疲れのところを申し訳ありません」


「何かしら」


「兄から、今夜また短い連絡が来ました。……妹と、安全な場所に落ち着いた、とのことです」


「それはよかったですわね」


 カスミ弁護士が少し微笑んだ。


「ヴィクトリア嬢は、今日も忙しかったようですね。……何があったかは、お聞きしませんが」


「明日の謁見が終われば、少し片付きますわよ」


「そうですか。……おやすみなさいませ」


「おやすみなさいませ」


 廊下の灯りが、二人の影を壁に落としていた。


 カスミ弁護士が自室に戻るのを見届けて、私は台所へ向かった。


* * *


 今夜は、自分でお茶を入れた。


 シリルには休むよう言った。リタはムーアの部屋の前に立っているから、台所には私一人だ。


 ケトルを火にかけて、茶葉を選ぶ。今夜はアッサムにした。濃く、少し苦い。今の気分に合っている。


 ポットに湯を注いで、待つ。


 蒸らす時間の間、台所の椅子に腰を下ろした。


 窓の外は夜だ。風があって、木の葉が揺れている音がする。


(明日、シュラッセへの動きが始まる。本管が閉じられる。……それで、第一章の「大掃除」がどこまで片付くかしら)


 ポットからカップに注ぐ。


 深い赤褐色のアッサムが、カップの中に落ちていく。


 一口飲んだ。


(苦い。でも、後味に甘さがあります。……これくらいでちょうどいいですわよ、今夜は)


 台所の灯りが、ゆらゆらと揺れた。


 私はカップを両手で包んで、もう一口飲んだ。


(モモ・ダストと霧が、まだ残っている。本管を閉じてもそれが残る。……大掃除というのは、こういうものですわよ。一番目立つ汚れを取ったら、今まで見えなかった細かい汚れが浮かび上がってくる)


 三口目を飲んで、カップを台所の窓枠に置いた。


 少しだけ、目を閉じた。


(明日は、丁寧にやりますわよ)


 やかんが、窓の外の風と一緒に、静かに鳴った。

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