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第17話:乾燥させてから、たたく

 朝の光が書斎に差し込んでいた。


 窓ガラスを通した秋の日光は、少しだけ斜めになっている。もう正午に近い時間だ。


 私は机の上に広げた水路図を見ていた。


 昨日の段階で書き込んだ処理済みの印が、三点ある。ガルベス子爵。アイス・クロフト。マールス上席侍従。


 印が増えるたびに、地図は整理されていく。


 でも、空白の箱は、まだそこにある。


(Dという名前が入るべき場所が、空白のままですわね。……クロフトの取調が始まれば、何かが出てくるかもしれない。でも、今日はまだ始まったばかりですわよ)


 扇子を手に取り、開かずに置いた。


「お嬢様」


 シリルが書斎に入ってきた。盆の上に茶器が一つだけ乗っている。今日の朝食はとっくに終わった時間なので、これは昼の茶だ。


「フロード補佐官からの書簡が届きました」


「読んでくださいな」


「はい。……内容を要約いたします。ガルベス子爵の取調は本日早朝から開始。第一回の聴取で、腐敗貴族連合の資金ルートについて複数の供述が出た。クロフトについては、取調開始前に弁護士を要請。今日中の聴取は困難な状況。……マールス上席侍従については、個人保管庫の書類を精査中。ガルベス側との照合に三日程度を要する見込みとのことです」


「クロフトが弁護士を呼んだ」


「はい」


(当然ですわね。……昨日の段階で「リサイクル資源として扱う」と思っていたが、クロフトはすでに弁護士を盾にする準備をしていた。弁護士を通じた情報提供の交渉に持ち込もうとしているのかもしれない)


「その弁護士の名前は?」


「書簡には書かれておりませんでした。……確認いたしますか?」


「ええ、確認してください。……急ぎではありませんが、頭の端に置いておきたいですわよ」


「かしこまりました」


 シリルが盆を机の端に置いた。


 湯気が立ち上っている。茶の色が、薄い金色だ。昨日のアッサム茶の濃い赤茶色とは、全く違う。


「今日のお茶は?」


「白茶です。昨日の重いものの翌日には、軽くしました」


「昨日が重かったから、今日は軽い」


「大掃除の翌日は、換気が大事です」


(換気。……なるほど、そういう言い方をしますのね)


 私はカップを手に取った。


 白茶の薄い甘みが、舌の上に広がった。渋みがほとんどない。香りだけが、かすかに残るような、そういう茶だ。


「カスミ弁護士は?」


「午前中に、お帰りになりました」


「もう?」


「はい。朝の早い時間に、クレア様が起きる前にご挨拶をと申されまして。……こちらへどうぞ」


 シリルが一枚の便箋を差し出した。


 受け取って、開く。整然とした筆跡だ。


   *昨日、クロフトの身柄確保の完了を確認しました。今後の身の振り方については、追って連絡いたします。今はまだ、何が安全かを見極める必要があります。短い間でしたが、ヴィクトリア家にお世話になりました。あなたのおそうじの方法は、私が知っていたどの法廷技術とも違います。水路を末端から辿る、という発想は、証拠収集の理論に近いが、もっと実際的です。いつかまた、機会があれば。——N.K.*


「N.K.」


 私はその頭文字を、静かに見た。


(ナジュミ・カスミ。……この人が水路図の中でどこに位置するか、今では分かっている。でも、便箋の頭文字だけを見れば、ただの手紙だ。ただの、誰かからの言葉だ)


「身の振り方を見極める、か」


「しばらくは、事務所を再開せず、身を潜める意向のようです。王城側が腐敗貴族連合の書類を処理している間、カスミ弁護士の名前も調書に出る可能性がある。……ガルベス子爵の顧問だったことは、事実ですから」


「証人として協力するか、顧問だったことで疑われるか」


「そのどちらの可能性もあります。……当面は、安全な場所に」


「分かりましたわ」


 私は便箋を折り畳んだ。机の引き出しに、丁寧にしまった。


(水路の末端を辿る、という発想は、証拠収集の理論に近い、か。……あなたは法廷の人間の目でそれを見たのですわね。私にとっては、排水管の詰まりを取り除く時の手順と同じことですが)


* * *


 午後に入ってから、シリルがクロフトの弁護士の名前を持ってきた。


「フロード補佐官からの追加情報です」


「どなたですか」


「ヤルン・ホルン。……南区を拠点とする弁護士で、主に商業関連の案件を扱っています。過去にガルベス子爵の案件とは別ルートで、ドレイン系の商会との接点が確認されています」


 私は少し考えた。


(ドレイン系の商会との接点。……クロフトが「外から弁護士を呼んだ」と思っていたが、そうではないかもしれない。ドレインがクロフトのために手配した弁護士を、クロフトが指名した可能性がある)


「ホルンという弁護士は、クロフトの知人ですか、それともドレインが手配した人間ですか」


「その点が、まだ確認できておりません」


「どちらかによって、クロフトの取調の行方が変わりますわよ。……クロフト自身がホルンを選んだなら、情報の出し方に主導権があるということ。ドレインが手配したなら、クロフトは取調室の中でも、ドレインの管理下にある、ということになりますわ」


(つまり、クロフトが本当にリサイクル資源として機能するかどうかは、ホルンという弁護士の素性にかかっている。……道具が、持ち主を選んでいる状態かもしれない)


「シリル、ヤルン・ホルンという人物について、できる範囲で調べてくださいな。急ぎではありませんが、今週中に何か分かれば十分ですわよ」


「かしこまりました。……それと、もう一点ご報告があります」


「何ですか」


「クロフトの廃棄予定書類の中にあった、アドルフ・ケルハムの会合記録についてです。フロード補佐官が内容を精査した結果、一点、追加情報が出てきました」


「続けてください」


「会合記録の参加者のリストに、ケルハムの名前の他に、もう一つのコードネームが記されています。……『カラミ』です」


 静かな書斎に、その言葉が落ちた。


「カラミ」


「はい。……J-2として管理していた、汚水が絡まるという意味の名前です。ドレイン内部のコードネームとして浮上していましたが、今回の会合記録でフォル・ネビュラとの直接の接続が確認されました」


(カラミ。……ドレインの内部コードネームとして頭の端に置いていたが、ケルハムの会合記録に同席者として出てきた。フォル・ネビュラ近郊での会合に、ドレインのコードネームを持つ人物が参加していた。これは、国内の枝管とフォル・ネビュラを繋ぐ本管の一部が、見えてきたということかしら)


「会合の日付は?」


「三ヶ月前です」


「三ヶ月前。……その頃、ガルベス子爵はまだ腐敗貴族連合として動いていた時期ですわね」


「はい。ガルベスの供述の中に、三ヶ月前の時期に『隣国との調整』があったという言及があります。今のところ詳細は不明ですが」


(三ヶ月前の隣国との調整。……そのタイミングで、フォル・ネビュラ近郊でケルハムとカラミが会合を持った。連動している可能性が高い)


「フロード補佐官は、このことをどう見ていますか」


「『フォル・ネビュラへの調査を急ぐ必要があるかもしれない』という所見が添えられていました。……ただし、王城側としては現時点で国外への正式な捜査機関の派遣は困難であり、非公式の調査に期待したい旨が書かれています」


「非公式の調査。……これは、私への打診ですわね」


「そう読んでおります」


 私は白茶のカップを持ち上げた。


 もう冷めかけている。でも、口に含んだ。


(フォル・ネビュラへ行く理由が、また一つ積み重なった。……クロフト。カラミ。ケルハム。スラム廃業とエストの名前の一致。セドゥン商会の送金先。J-1からJ-5まで、霧の港の方向を指し示す矢が、ずいぶん増えてきましたわよ)


(でも、今日出発するわけではない。国内の残務がまだある。……スラム廃業の倉庫の処理。スラッジ書記官の正式な証言記録。カスミ弁護士の今後の安全と身分の整理。そして、モモ・ダストという名前の塵)


「シリル」


「はい」


「フォル・ネビュラへの出発について、段取りを考え始めてくださいな。……今すぐではなく、来週か再来週、国内の残務が一段落してからという前提で」


「旅程の下調べを始めるということですか」


「ええ。……霧の港へ向かう前に、霧の晴れている部分を、できるだけ把握しておきたいですわよ。ケルハムとカラミの会合記録から逆算して、どういう経路でフォル・ネビュラに入るのが自然か。何を調べに行くという名目を立てるか。それから、誰かに先触れを送るべきかどうか」


「先触れ、というと」


「フォル・ネビュラに、使える接点があるかどうか、ということですわよ。カスミ弁護士が南部出身だとすれば、港町の知人がいる可能性がある。……あの方は、もう少し落ち着いたら連絡が取れるかもしれませんわよ」


「なるほど。……カスミ弁護士のネットワークを、フォル・ネビュラへの入口として使う可能性を考えている、ということですね」


「可能性の一つですわよ。まだ決めたわけではありませんわ」


 シリルが少し考えるような顔をした。珍しく、笑顔が薄い。


「お嬢様」


「何ですか」


「フォル・ネビュラには、霧があります」


「知っていますわよ。地名ですもの」


「比喩としての霧です。……国内での調査は、水路図という形で可視化できました。書類があり、名前があり、動線があった。でも、フォル・ネビュラで私たちが相手にするものは、書類よりも先に、霧の中に隠れている可能性があります。カラミというコードネームが示す通り、汚水が絡まって見えにくくなっている状態かもしれない」


「つまり」


「出発前に、晴れている部分だけを把握しても、現地に入れば霧が出てくる可能性が高い、ということです。……入口の段取りより、霧の中での動き方を考えておく方が、実際的かもしれません」


 私はカップを置いた。


(シリルが珍しく、意見を出してきましたわね。……いつもは私の方針に乗って段取りをするのに、今日は先に警告を出してきた。これは、本当に懸念しているということかしら)


「霧の中での動き方、というのは?」


「国内での調査は、王城のフロード補佐官や近衛という後ろ盾がありました。でも、フォル・ネビュラでは、王城の権限は及びません。……万一の際に、誰に頼れるか。そこが最初に設計されていないと、掃除の途中で、私たちが孤立する可能性があります」


(孤立。……シリルが、そういう言葉を使うのは珍しいですわよ。普段は「非効率」とか「エコではない」という言い方をするのに)


「あなたが心配しているのは、私の安全ですか?」


「私の雇用の安定です」


「……それは、同じことを言っているのですわよ」


 シリルが少しだけ、目を細めた。笑いを抑えているような、それでいて抑えきれていないような、いつもの顔だ。


「フォル・ネビュラでの現地接点について、私の方で当たれる範囲があります。……国内の情報網の外縁が、いくつかの港町まで延びております。フォル・ネビュラと完全に繋がっているわけではありませんが、入口付近の人間に、こちらの存在を知らせることはできます」


「どういう経路ですか」


「詳細はお任せいただけますか。……あまり美しくない水路を通ることになりますので、お嬢様にお見せするのは遠慮したい部分がございます」


(あまり美しくない水路。……シリルが自分から隠そうとするのは珍しいですわね。これは、シリルの個人的なネットワークの話かもしれない)


「分かりましたわよ。その部分はあなたに任せます。……ただし、私が知っておくべきことが出てきたら、報告してくださいな」


「もちろんです」


* * *


 夕方前に、もう一つの動きがあった。


 リタが書斎の入口でノックをした。


 珍しい。リタからのノックは、何か確認が必要な事態が起きた時だ。


「どうぞ」


 リタが入ってきた。手に、小さな紙片を持っている。


 差し出す。


 受け取って見ると、走り書きで短い文が書かれている。


   *屋敷の東側、夕方から人の気配あり。昨日のムーアとは別の人間。女性、二十代と思われる。同じ場所を三度通った。*


(三度、同じ場所を通った。……偵察の基本的なパターンですわね。通行人に見せかけて、目的地を複数回確認する)


「リタ、これはあなたが確認したのですか」


 リタが頷いた。


「今も、その人物はいますか」


 リタが首を横に振った。すでに立ち去った、という意味だ。


「容貌は分かりましたか」


 リタが少し考えた。それから、左手の指で輪を作り、目元に当てた。


(眼鏡? ……眼鏡をかけた女性、ということかしら)


「眼鏡をかけていた?」


 リタが頷いた。それから、右手の指先で自分の耳の後ろを触れた。


(耳の後ろ。……髪の形?)


「髪を後ろで束ねていた?」


 短い首肯。


「年齢は二十代で、眼鏡、髪を後ろで束ねた女性が、夕方に東側を三度通った」


 リタがもう一つ、動作を加えた。右手の親指と人差し指で、小さな四角を作ってみせた。


(小さな荷物。……行商人や書類を持ち歩く文官風の格好をしていた、ということかもしれない)


「書類か荷物を持っていましたか」


 リタが頷き、それから首を傾けた。確信はないが、そう見えた、という意味かもしれない。


(ムーアと違うタイプ。……ムーアは元王都警備で、がっしりとした体格の男だった。今度の人物は、二十代の女性で、書類風の荷物を持った文官風の外見。これは、ドレインが別のルートから偵察を送ってきたということかしら。あるいは、ドレインとは別の組織の人間か)


 私はシリルを呼んだ。


「シリル、リタからの報告です」


 シリルに紙片を見せた。シリルが読んで、少しだけ眉を動かした。


「ムーアが拘束された後、別の偵察が来た、ということですか」


「そう読んでいますわよ。……ただ、確定ではない。通行人が偶然同じ道を通った可能性もゼロではない」


「確率としては、低いですが」


「ええ。……三度というのが引っかかりますわよ。一度なら通行人。二度なら気になる人物。三度は、確認していますわ」


「どう対応しますか」


「今日は何もしませんわよ。……相手に、こちらが気づいていると知らせる必要はないですわ。明日以降、また来るかどうかを見ていれば分かりますもの」


「継続監視、ということですね」


「ええ。……それと」


 私は少し考えた。


「ドレインが別のルートから人間を使ったとすれば、なぜこのタイミングかということが気になりますわよ。ムーアが昨日拘束されて、ドレインはその事実を知ったはずですわ。……知ったとすれば、代わりの人間を送ってくる。それが、この女性ということになるかもしれない」


「ドレインが素早く補充した、ということですか」


「補充が素早いということは、こちらへの監視の優先度が高いということですわよ。……ムーアを送り込んだのはクロフトの判断だったかもしれないが、今度の女性は、クロフトではなくドレインの本管から直接来ている可能性がある」


 シリルが静かに考えた。


「……そうだとすれば、この偵察はクロフトではなく、Dの判断ですか」


「可能性の話ですわよ。まだ確認できていない」


「でも、Dが直接動き始めたとすれば」


「本管の水圧が変わった、ということかもしれませんわ。枝管を三本閉じたことで、本管に負荷がかかった。……ゴミ収集場の容量が減ると、残ったゴミの圧力が上がりますわよ」


(本管が、動き始めた。まだ仮説に過ぎないが、この女性の偵察は、Dという空白の箱が動いていることを示しているかもしれない)


「リタ」


 リタが視線を向けた。


「明日以降、東側の監視をお願いしますわよ。……また来るようなら、容貌の詳細を記録してください。接触は不要ですわ。ただ、見ておいてください」


 リタが頷いた。


 チャキッ。


 今夜の音は、昨日の柔らかい音ではなく、少し硬かった。


* * *


 夜に入る前に、シリルが一枚のメモを持ってきた。


「お嬢様、フォル・ネビュラの件について、一点整理できました」


「早かったですわね」


「先ほど申し上げた、あまり美しくない水路を通じて確認しました。……フォル・ネビュラに、ベルト・ライスという人物がいます」


 私は顔を上げた。


(ベルト・ライス。……K-2として記録していた人物ですわね。ドレインの内部に接近している、あるいは内部の人間である可能性があるとして、ドレイン解明のキーパーソンとして名前が挙がっていた)


「ベルト・ライスを、使える接点として考えているのですか」


「使えるかどうかは、まだ分かりません。……ただ、現地に入る際の最初の情報源として、この人物の動向を把握しておくことには意味があります。ライスがドレインの内部人間であれば敵ですが、ドレインに対抗している立場であれば、接触できる可能性がある」


「どちらかは、まだ分かっていない」


「はい。……フォル・ネビュラの霧の中に、ライスという人物がいる、ということだけが確認できている段階です」


(霧の中の人間。白か黒か、まだ色がついていない。……ドレインのキーパーソンとして浮上しているが、それはドレインの内側にいるからか、外側から接近しているからか、どちらか分からない。霧が濃い)


「ライスの情報を、もう少し集められますか」


「今日の段階では、これ以上は難しいです。……フォル・ネビュラの現地情報は、手持ちの水路では薄い部分がありますので」


「それが、出発前に入手しておきたい情報ですわね」


「はい。……ただし、現地に入らなければ得られない情報も、必ずあります」


「では、そこは現地で集めることにしますわよ」


 私は扇子を開いた。


 秋の夜の書斎に、静かな風が生まれた。


(フォル・ネビュラ。霧の港。ケルハムとカラミが会合を持った場所。セドゥン商会の送金先があるかもしれない場所。そして、ベルト・ライスがいる場所。……国内の枝管を閉じた後で、本管の出口がそこにあるとすれば、次の大掃除の場所はそこですわよ)


(でも、まだ今日ではない。今日は、情報を整理する日ですわ)


* * *


 夜の書斎で、私は水路図を最新版に書き直した。


 処理済みの枝管に、丁寧に印をつけていく。


 カラミとケルハムの接続を、新たな線で書き加えた。


 ベルト・ライスの名前を、フォル・ネビュラの欄の横に、小さく書いた。まだ確認中、という注記を添えて。


 東側を偵察していた女性のことを、「不明・監視中」として一行書き加えた。


(地図が、また少し埋まってきましたわ。……でも、Dの箱はまだ空白のままですわよ)


 私は水路図を折り畳んだ。


 右手の手袋の白さを、一瞬だけ見た。


(ガルベスが処理されて、クロフトが処理されて、マールスが処理されて。枝管がいくつか閉じた。でも、本管は閉じていない。……本管を閉じなければ、新しい枝管が生えてくるかもしれない)


(そして、本管の水圧が変わった今、本管が直接こちらへ向かってくる可能性がある。昨日の女性が、その兆候だとすれば)


 扇子を膝の上に置いた。


 開かなかった。


(今日は、情報を整理した日でしたわ。大掃除の翌日は、換気が大事、とシリルが言いましたわよ。……窓を開けて、空気を入れ替えて、次の汚れが来る前に、部屋の状態を確認する。それが今日の仕事でしたわ)


 扉がノックされた。


「どうぞ」


 シリルが入ってきた。盆を持っている。


 今夜の茶器は、小ぶりの急須と、小さな二つの茶碗だ。陶器の色が、夜の明かりの中でほんのりと温かい。


「今夜は何ですか」


「ほうじ茶です。……国内のものですが、河岸沿いの業者が扱っていた、少し珍しい焙煎度合いのものです」


「河岸沿いの業者?」


「スラム廃業の近くの茶葉商から、昨日の帰りに購入しておきました」


 私は少し考えた。


「あの倉庫街に、まともな茶葉商がいるのですか」


「廃棄物の倉庫の隣に、一軒だけあります。……川沿いの立地は茶葉の保管に向いているそうで、なかなか良質なものを扱っております。汚れた場所の隣に、きれいなものが存在することは、珍しくはありません」


(汚れた場所の隣に、きれいなものが存在する。……それは、河岸沿いの話だけではないですわよ、シリル)


「あなたは、昨日の帰りにそれを買ってきたのですか」


「クロフトとムーアを近衛に引き渡した後、少し時間があったので」


「仕事の帰りに茶葉を買う執事ですわね」


「お嬢様の翌日の夜のために、良い茶葉を確保することは、私の仕事の範囲内です」


「……それは、本当ですわよ」


 私は茶碗を受け取った。


 ほうじ茶の焙煎した香りが、書斎に広がった。白茶の薄い甘みとも、アッサム茶の重い渋みとも違う。香ばしい、でも軽い。煎ることで、重さが取れた茶の香りだ。


「お菓子は?」


「今夜はございません。……昨日のチョコレートが濃かったので、今夜は茶だけの方がよいかと判断しました。お腹が空いていましたら、台所に。」


「いいえ、茶だけで十分ですわよ」


 一口飲んだ。


 ほうじ茶の香ばしさが、喉を通った。後味に、ほんのかすかな甘みが残る。お茶本来の甘みだ。砂糖の甘みではなく、香りが落ち着いた後に出てくる、静かな甘さ。


「……悪くありませんわよ」


「ありがとうございます。……スラム廃業の隣の茶葉商に感謝しておきます」


「あそこは、倉庫の処理の時に、一緒に確認しますわよ」


「茶葉商は無実だと思いますが」


「そうですわよ。……でも、スラム廃業の中身を確認する時に、隣の様子も一緒に確認しておく方が、丁寧な掃除ですわ。汚れが隣に飛んでいる可能性もゼロではないですもの」


「丁寧ですね」


「掃除というのは、丁寧にするものですわよ」


 シリルが少し目を細めた。


 書斎の窓の外、王都の夜が続いている。


 東側の通りは、今夜は静かだ。昨日の女性は、もう来ていない。明日来るか、それとも別の形で動くか。


(本管が動き始めているとすれば、その動きは今夜ではないはずですわ。今夜は、まだ静かな夜のはずですわよ。……でも、静かな夜だからこそ、次の汚れの乾き具合を確かめておく必要がある)


 私はほうじ茶をもう一口飲んだ。


(汚れというのは、乾いてからたたく方が落ちやすいものですわよ。濡れているうちに焦って擦ると、繊維に染み込んでしまう。……ガルベスやクロフトは、書類という形で残っていた。乾いた汚れだったから、書類ではたくことができた)


(でも、Dという名前の汚れは、まだ乾いていない。フォル・ネビュラの霧の中にある。……霧の中の汚れは、乾くまで待つ必要がありますわよ。それとも、霧を晴らす方が先かしら)


「シリル」


「はい」


「フォル・ネビュラへの旅程、来週から本格的に考え始めてくださいな」


「承知しました」


「それと、スラム廃業の倉庫の処理の段取りを、今週中に組んでおいてください。フロード補佐官と調整して」


「かしこまりました」


「それから」


 私はほうじ茶のカップを、静かに置いた。


「スラッジ書記官の証言の正式記録化、これが今週の最後の国内残務ですわよ。フロード補佐官と直接会って、記録の形式を確認してから進めてくださいな」


「全部で三件ですね。スラム廃業の処理。スラッジ書記官の証言記録。そして、フォル・ネビュラの旅程設計」


「ええ。……今週中に、この三件に目処が立てば、来週には出発の準備に入れますわよ」


「では、明日から取り掛かります」


「よろしくですわよ」


 私は扇子を手に取り、今夜初めて、ゆっくりと開いた。


 秋の夜の書斎に、ほうじ茶の香りと、静かな風が混ざった。


(大掃除の翌日は、換気が大事。窓を開けて、空気を入れ替えて、部屋の状態を確認する。……今日の仕事は、それだけで十分でしたわよ)


(次の大掃除は、霧の中ですわ。でも、まだ霧の中に入る前に、できる準備はある)


 私は扇子を膝の上に、静かに閉じた。


 ほうじ茶の香りが、書斎の空気の中に、ゆっくりと溶けていった。

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