第16話:クロフトは、粘着テープ型のゴミでしたわ
夜明け前に、動きがあった。
書斎でシリルからの報告を受け取った時、私はまだ仮眠から戻りきっていなかった。
「お嬢様」
「聞こえていますわよ」
カップに手を伸ばす。シリルが昨夜の残りの岩茶を温め直しておいてくれたものだ。すでに渋みが強くなっている。でも、今朝はそれでよい。
「クロフトが動きました。早朝五時、クライン侯爵の別宅から出て、南区へ向かっています」
「南区。……河岸沿いですわね」
「はい。スラム廃業の方向です」
私はカップを置いた。
(昨日の段階では、明日か今夜の遅い時間か、と見ていた。明日が今日になった。クロフトは、ガルベス召喚の情報を受け取ってから、ほぼ一晩で動いた。……焦っているのかしら。それとも、これが手順どおりの動きなのかしら)
「ムーアは?」
「北区の旅人宿を出て、南区の方向へ向かっています。クロフトより先行している形です」
「先に荷物を受け取りに行った、ということかもしれませんわね」
「廃棄物として処理する書類を、ムーアが取りまとめて運ぶ手順ではないかと」
「そうですわ。……問題は、その書類がどこから来るか、ですわよ」
シリルが少し考えた顔をした。
「王城内、という可能性が?」
「マールス侍従のことを思い出してくださいな。ガルベスが昨日召喚されたことで、マールス侍従がまだ王城内で動ける状態にあるなら、残った証拠の始末を急いでいる可能性がありますわ」
(マールス上席侍従。……D-3の「王城の内通者」は、スラッジ書記官の証言でほぼ特定されているが、まだ公式には処理されていない。ガルベスが引っ張られた今、マールスが身の危険を感じて書類を処分しようとする可能性は、十分にある)
「シリルる」
「はい」
「フロード補佐官へ、今すぐ連絡を入れてください。マールス上席侍従の今朝の動きを確認するよう。……それと、王城の近衛に、クロフトの身柄確保の準備を整えるよう伝えてください。実行のタイミングは、私から指示しますわよ」
「かしこまりました。……三十分ほど時間をいただきます」
「急いで」
シリルが素早く書斎を出た。
私は立ち上がり、窓の外を見た。
まだ夜明け前の王都だ。空の端が、わずかに明るくなり始めている。薄い灰色が、夜の黒から少しずつ剥がれていく。
(ガルベス、クロフト、マールス。三本の枝管が、今日一日で動く可能性がある。……ゴミというのは、本管に詰まりが起きると、枝管から一斉に逆流しようとするものですわね)
右手の手袋の端を、左手の指がそっと触れた。
触れたことに気づいて、離した。
(仕事中ですわよ)
* * *
三十分後、シリルが戻ってきた。
「フロード補佐官からの返答です」
「読んでくださいな」
「マールス上席侍従は、今朝の六時、通常より二時間早く登城しています。執務室の個人保管庫を開けた記録が残っています。……フロード補佐官は、すでに侍従の行動を把握していたようで、今朝の早い段階から監視を強化していたとのことです」
「先を読んでいましたわね、フロード補佐官」
「はい。……補佐官からの追記があります。『マールス侍従が保管庫から持ち出した書類の量は、通常の業務量を大幅に超えている。内容は確認中だが、個人的な書類である可能性が高い』とのことです」
(個人的な書類。……王城内でのやり取りの証拠を、自分で処分しようとしている。つまり、今日一日で、クロフトのルートとマールスのルートが同時に動いている)
「二つの枝管が、同じ日の朝に動いた」
「ガルベスの召喚が引き金になった、ということかと」
「ゴミ箱の蓋を開けると、中のゴミが一気に外へ出ようとしますわよ。……同じことですわ」
私は扇子を手に取った。開かずに、手の中で転がした。
「マールス侍従については、フロード補佐官に一任してよろしいですか」
「王城内の処理は、補佐官の方が動きやすいでしょうから、それが適切かと」
「では、こちらはクロフトに集中しますわよ」
「はい。……クロフトとムーアは現在、南区の河岸沿いに向かっています。監視員によれば、スラム廃業の倉庫まで、あと二十分ほどの距離です」
私は立ち上がった。
「リタを呼んでください」
シリルが廊下へ向かった。
チャキッと音がして、リタが書斎の入口に現れた。昨夜から廊下を守り続けているはずだが、疲れた様子は微塵もない。
「今日の仕事を説明しますわよ」
リタが静かに目を細めた。聞く準備ができている、という目だ。
「クロフトという人物が、今朝南区の河岸沿いへ向かっています。書類を廃棄しようとしているはずですわ。……その前に、クロフトを止める必要があります」
リタが一度頷いた。
「クロフトを動かしているムーアという人物が先行しています。元王都警備の除名処分者です。静かに始末をするタイプだと聞いていますわ。……私よりリタの方が詳しいと思いますけれど」
リタが少し目を動かした。何かを確認するような動き。
「知っていますか、ムーアという人物を」
リタが少しだけ、右手の人差し指を自分の左の眉の上へ当てた。
(眉の上の傷。……知っていますわね)
「よく知っている相手ですか」
リタが首を横に振った。知っているが、よく知っているわけではない、という意味に取れた。
「王都警備時代の人間ということで、どこかで把握しているのかもしれませんわね。……今日の仕事は、スラム廃業の倉庫に着く前に、クロフトを止めることですわよ。ムーアは、できれば拘束。クロフトは、近衛に引き渡します」
リタの目が少し変わった。確認するような光が、消えた。
代わりに、準備が整った、という光になった。
チャキッ。
「今日は、私も出ますわよ」
リタが微かに眉を上げた。今日は出ない方がいい、という気配を一瞬だけ発した。
「護衛メイドが心配するのは分かりますわよ。でも、クロフトの身柄確認と、書類の状態の確認は、私がいた方が確実ですわ。……それに」
私は扇子をパチンと閉じた。
「第一章の枝管を閉じる仕事は、最後まで見届けたいですもの」
リタが今度は何も表情を変えなかった。
それが、了承の意味だと分かった。
* * *
出発の前に、カスミ弁護士の客間をノックした。
「どうぞ」
扉を開くと、カスミ弁護士はすでに起きていた。昨夜より顔色がよい。窓際に立ち、夜明け前の空を見ていた。
「今朝、動きますわよ」
「クロフトが?」
「はい。今から南区へ向かいます。……あなたには、今日もここにいていただきますわよ。シリルが残ります。何かあれば、シリルに」
「分かりました」
カスミ弁護士が少し言い淀んだ。
「……クロフトを、どうするつもりですか」
「近衛に引き渡しますわよ。焼却するには燃費が悪い」
「燃費?」
「クロフトが知っていることを、まだ使えますから。リサイクル資源として扱う方が、この段階では効率的ですわよ」
(本来なら焼却が美しい仕事だが、ドレインの本管へ辿り着くためには、まだクロフトが持っている情報が必要だ。……燃やしてしまえば気持ちがいいが、それでは地図の空白の箱が埋まらない)
「リサイクル、か」
「ゴミでも、使えるゴミと使えないゴミがありますわよ。分別が大事ですわ」
カスミ弁護士が少しだけ目を細めた。
「気をつけてください」
「ありがとうございます。……でも、今日は単純な仕事ですわよ」
私はそれだけ言って、廊下へ出た。
* * *
馬車は南区の手前で止めた。
そこからは、徒歩だ。
朝の河岸沿いは、荷卸しの業者と早起きの魚売りが行き来していて、それなりに人気がある。その人の流れに紛れるように、私たちは歩いた。
薬草商の装いだ。前日に用意してあった地味な外套と、業者風の小さな荷物。シリルのいない今朝は、私とリタの二人だ。
(二人で動くのは久しぶりですわね。第二話以来かもしれない)
河岸沿いの倉庫街が見えてきた。
古い石造りの建物が並んでいる。川沿いの湿気で、壁の下の方に黒ずんだ苔が生えている。朝の光の中でも、どことなく薄暗い。
(スラム廃業。……廃棄物の運搬と処理を行っている業者ですわね。表向きは正規の業者として商業登録されている。でも、クロフトはここを書類廃棄の経路として使っていた。つまり、この業者はドレインの系統の一部として機能している)
「リタ」
小声で呼ぶと、リタが一歩前に出た。
十メートルほど先の倉庫の前に、人影が二つある。
一人は、がっしりとした体格の男だ。左の眉の上に古い傷がある。
(ムーアですわね)
もう一人は、細身で、外套の襟を立てている。クライン侯爵家の秘書官という立場の人間が、早朝の河岸倉庫に来るには似つかわしくない、という格好だ。
(クロフト。……アイス・クロフト)
二人の間で、何かのやり取りがあった。ムーアが手に持っている革鞄を、クロフトへ差し出す動作をした。
(書類を受け取ろうとしている。倉庫の中で処理させるつもりですわ)
私は扇子を取り出した。
開かなかった。ただ、手の中に持っておいた。
(今日は焼却ではない。……手順を踏んで、証拠を確保して、人間を引き渡す。静かな仕事ですわよ)
リタが動いた。
音もなく、まっすぐに。
ムーアが気づいた時には、リタがすでに三歩の距離まで来ていた。
ムーアが革鞄を持ったまま、身構えた。
チャキッ。
音が、朝の河岸に短く響いた。
ムーアの目が一瞬大きくなった。
リタの右手が、ムーアの手首を取っていた。鞄を持っている方の手首だ。力は入っているが、乱暴ではない。ただ、外れない。
(リタが力加減をしている。壊さず、でも逃がさず、という調整ですわ。……さすがですわよ)
クロフトが後退した。
私は前に出た。
「アイス・クロフト様、ですわね」
クロフトが私を見た。
細い目が、一瞬だけ計算するように動いた。誰か、どう対処するか、を素早く整理しようとしている目だ。
(腹の中を読もうとしている。……でも、外套と装いで判断しようとしているとしたら、間違えますわよ)
「ヴィクトリア家の者です。……お話ししたいことがありますわよ」
クロフトが少し顎を引いた。警戒の動作だ。
「ヴィクトリア……」
「男爵令嬢の、クレア・ヴィクトリアですわ。初めてお目にかかりますけれど、お名前はよく存じ上げていますわよ」
クロフトの表情が、わずかに硬くなった。
(名前を知られている。それが何を意味するか、計算しているのでしょうね)
「こちらへ向かっていることも、知っていましたわよ。……ムーアさんが昨日、私の屋敷を偵察しにいらっしゃいましたもの。ごくろうさまでしたわ」
クロフトの目が細くなった。
「何が目的ですか」
「あなたが今朝持ってきた書類を、処分する前に確認させていただきたいのですわよ」
「書類?」
「白々しいのは好きではありませんわ。……ムーアさんが持っている革鞄の中身ですわよ。スラム廃業に渡す前に、確認しますわよ」
クロフトが少し口を開いたが、言葉が出てこなかった。
(言い訳を考えているのか、逃げ道を探しているのか。……どちらも、もう遅いですわよ)
私は扇子を持ったまま、一歩前に出た。
「クロフト様。よく聞いてくださいな」
声を落とした。倉庫街に他の人間の気配がないことを、視界の端で確認してから。
「今朝のガルベス子爵の身柄確保は、王城側の動きですわよ。陛下の御命令です。……あなたとガルベス子爵を繋ぐ証拠は、すでにこちらの手にありますわ」
クロフトの顔が、少し変わった。
(揺れていますわ。……動揺を抑えようとしているが、できていない)
「そして、ドレインからあなたへの指示書も、三通、拝見しましたわよ。昨夜」
決定的な一言だった。
クロフトの背中が、わずかに前傾みになった。逃げようとした瞬間の動きだ。
でも、行く先はない。
リタがムーアを押さえたまま、体の向きをわずかに変えた。クロフトの退路を塞ぐように。音もなく、自然に。
クロフトが足を止めた。
* * *
三分後、近衛の二名が河岸沿いに現れた。
シリルが事前に手配しておいたものだ。早朝の時間帯に、近くで待機していてもらっていた。
近衛の一人がクロフトの腕を取った。もう一人がムーアを確保する。
リタがムーアを手放した瞬間、革鞄がかちゃりと地面に当たりそうになった。
リタが片手で、それを拾った。
私に差し出す。
「ありがとうございますわよ」
受け取り、留め金を外した。
中には、書類が束になっていた。
表紙に、手書きの記号がある。クロフト独自の分類だろうか。でも、内容を一枚めくると、見慣れた形式の数字の羅列がある。
(ガルベス子爵との取引記録。……日付が直近のものまで入っていますわ。廃棄するつもりだったこれが、今朝のうちに手に入った)
「シリルが喜びますわ」
私はそれだけ言って、革鞄を閉じた。
クロフトを引き渡す前に、近衛の方へ向いた。
「身柄は陛下への報告書と合わせて、王城での取調をお願いしますわよ。……書類は、こちらで一度確認してから、フロード補佐官経由で届けますわ」
「かしこまりました」
近衛が頷いた。
クロフトが連れられていく前に、一度だけこちらを振り返った。
その目に、何が混じっていたか。
怒り、か。焦り、か。あるいは、まだ計算しようとしている目か。
(どれでも構いませんわよ。……今日からあなたは、リサイクル資源ですわ。持っている情報を、きちんと活用させていただきますから)
私は扇子を、静かに手の中に収めた。
ムーアも連れられていく。
河岸沿いが、また朝の人の流れに戻り始めた。荷卸しの声が聞こえる。魚売りが通り過ぎる。
何事もなかったように。
* * *
スラム廃業の倉庫の前に、私とリタだけが残った。
倉庫の扉は閉まったままだ。中に人の気配はない。
私は倉庫を少しの間見た。
(スラム廃業。……ヴァルス・スラムと同じ名前。ドレインが国内外を繋ぐために設計した、廃棄経路の一端。クロフトが使っていた枝管の末端にある、ゴミ箱ですわね)
(ここを処理するのは、今日ではない。今日は、クロフトという枝管を閉じる仕事だった。倉庫の中身を確認するのは、後でフロード補佐官と段取りを組んでからですわよ)
私は倉庫に背を向けた。
「リタ、屋敷に戻りますわよ」
チャキッ。
短い返答の音が、朝の河岸に響いた。
* * *
屋敷に戻ると、シリルが玄関で待っていた。
外套を受け取る前に、私の顔を一瞬だけ確認した。
「書類は?」
「はい」
革鞄を渡す。シリルが受け取り、重みを確かめるように一度だけ持ち上げた。
「全部入っていますか」
「確認してくださいな。……ガルベスとの取引記録が主体のようでしたわよ。他に何が入っているかは、あなたの方が早く分かりますわ」
「承知しました。……クロフトの身柄は」
「近衛に引き渡してきましたわよ。ムーアも同様に。……フロード補佐官へ、引き渡し完了の連絡を入れておいてくださいな」
「既に入れております」
「早い」
「出発前に段取りを組んでおきましたので」
シリルが小さく一礼した。笑顔だが、目は書類の方を向いている。早く中身を確認したいのだろう。
(いつも通りですわね)
「急いで確認してください。……ただし、朝食が先ですわよ。食事を抜かないこと」
「お嬢様の方が、先にお召し上がりになってください」
「あなたも、ですわよ」
「かしこまりました」
* * *
ダイニングには、カスミ弁護士が先に来ていた。
椅子に座って、温かい飲み物を手にしている。シリルが用意しておいたものだろう。
私が入ると、顔を上げた。
「……戻りましたわよ」
「お怪我は?」
「ありませんわよ。怪我をする局面ではありませんでしたわ。……クロフトは、近衛に引き渡しましたわよ。書類も確保できました」
カスミ弁護士が短く息をついた。
「そうですか」
「今日中に、フロード補佐官を通じて陛下への報告書が届けられます。……ガルベス子爵の取調が進んでいる段階と合わせれば、この週の中で大きな動きが出るはずですわよ」
「クロフトが何を喋るか、ですね」
「そうですわ。……ドレインの本管がどこにあるか。クロフトが知っている範囲で、有益な情報が出てくることを期待していますわよ」
私は椅子に腰を下ろした。
シリルが台所へ向かっていた。朝食の準備だ。
少しの間、ダイニングが静かだった。
「カスミ弁護士」
「はい」
「あなたが届けてくださった書類が、今日の動きを可能にしましたわよ。……指示書の三通がなければ、クロフトへの証拠の束が完成していなかった」
カスミ弁護士が少し黙った。
「役に立てたなら、よかったです」
「役に立った、で片付けるには、あなたの決断は小さくありませんでしたわよ」
(保身と正義が両立することがある、と昨日言いましたわ。この人が十数年間、書類を持ち続けたことは、そのどちらでもあった。……どちらでもあったから、最後まで持ち続けることができたのかもしれない)
「さて」
私は扇子を取り出し、今日初めて、きちんと開いた。
「今日で、第一章の大きなゴミが二つ、処理されましたわよ。ガルベス子爵とクロフト」
「二つ」
「でも、まだ終わっていませんわよ。……本管はまだ空白の箱の中にありますわ。そして、モモ・ダストという名前の、目に見えにくい汚れが、まだ王都に残っていますわ」
(ダスト。……塵のように蓄積する、一番扱いにくい種類の汚れ。ガルベスやクロフトのような、書類で辿れる汚れではない。目に見えるゴミを全部片付けた後で、最後に残る塵が、一番てこずりますわよ)
「モモ・ダストは、今日の動きで何か変化しますか」
「直接の影響はないかもしれませんわね。……ガルベス子爵が消えても、モモ・ダストには関係ありませんわよ。彼女は、ガルベスとは別の水路を使っていますもの」
「別の水路?」
「彼女は、人の心に直接染み込む方法を使いますわ。書類で繋がっていない。……そういう汚れは、証拠を集めるよりも、先に染み込むのを止める必要がありますわよ」
カスミ弁護士が少し考えた。
「染み込むのを止める、というのは」
「王子が、それ以上汚れを吸い込まないようにすること、かしら」
(でも、それはもう、遅い段階に来ているかもしれない。王子はガルベスの不在で、次に誰に頼るかしら。モモ・ダストに、より深く依存する方向へ動く可能性がある。……ゴミ箱の中が空いた分、また別の汚れが入りやすくなる)
「……難しい話ですね」
「そうですわよ」
私は扇子を一度動かした。静かな風が、ダイニングに一瞬だけ生まれた。
「でも、今日のところは、今日できた分でよろしいですわよ。……一日に、一つか二つの汚れが片付けば、着実ですわ」
* * *
朝食が届いた時、シリルも席に着いた。
普通の朝食だ。焼きたてのパンと、スープと、卵料理。
どこかに、この雰囲気が第二話の馬車の帰り道と似ている気がした。
(第二話の時は、一人だった。馬車の中で、白い指先を眺めていた。「何も残さない。何も。」と)
今朝は、テーブルに三人分の席がある。
違いが、小さく、でも確かにあった。
(変わった、ということかしら。それとも、ゴミを片付けると、その分だけ空間が生まれる、ということかしら)
私はパンを一口食べた。
シリルが革鞄を膝の上に置いたまま食事をしている。中身を確認したくてたまらないのが、目に見える。
「食べてから、ですわよ」
「分かっております」
「表情に出ていますわよ」
「失礼しました」
カスミ弁護士が、短く笑った。
静かな朝のダイニングに、その音が馴染んだ。
* * *
朝食の後、シリルが革鞄の書類を広げ始めたのを横目に、私は書斎へ向かった。
水路図を出した。
ガルベス子爵の名前の隣に、処理済みの印を入れた。
クロフトの名前の隣にも、同じ印を入れた。
マールス上席侍従の欄には、「フロード補佐官に一任・確認待ち」と小さく書いた。
水路図の枝管が、今日だけで三本、閉じられようとしている。
残っているのは、まだいくつかある。
スラム廃業の倉庫の処理。スラッジ書記官の証言の正式記録化。カスミ弁護士の今後の安全と身分の整理。
そして、Dという空白の箱。
(本管。……クロフトの取調で、Dへの糸口が出てくれば、地図の空白が少し埋まるかもしれない。でも、埋まらないかもしれない。……本管の水源は、深いところにある)
私は水路図を折り畳んだ。
折り畳んだ状態で、机の端に置いた。
右手で、机の端を軽く押さえた。
白い手袋の指先が、紙の上に乗った。
(今日で、第一章の大きな仕事の一区切りが付きましたわ。……でも、これは終わりではなく、第二章への踏み台ですわよ。フォル・ネビュラへ行く前に、国内の整理を済ませておく必要があった。今日が、その整理の山場だった)
(J-1、J-2、J-3。……霧の港の名前が、地図の別の場所に残っている。スラム廃業とエストのスラムという名前の一致。セドゥン商会の西区画。カラミ商会の送金先。……国内の枝管を閉じた後で、本管の出口が向こうにある可能性がある)
私は立ち上がった。
書斎の窓から外を見た。
今朝の王都は、薄曇りだ。昨日の重い灰色の雲より、少しだけ明るい。
(雨にはなりませんわね。……少なくとも、今日は)
扇子をパチンと閉じた。
* * *
午後、シリルから書類の照合結果が届いた。
「クロフトの革鞄の中身を確認しました」
「どうでしたか」
「ガルベス子爵との取引記録の他に、もう一つ、別の書類が混入していました」
「混入」
「クロフトが意図的に廃棄しようとしていたかどうかは不明ですが、他の書類とは毛並みが違います。……アドルフ・ケルハムという名前が出てきます」
私は少しだけ、扇子を持つ手を止めた。
(アドルフ・ケルハム。……J-5「アドルフ・ケルハム」として記録していた名前ですわね。ガルベスと隣国の繋がりの中に出てきた人物。B-4と連動する可能性があるとメモしていた)
「内容は?」
「会合の記録のような形式です。日付と場所が記してあります。……場所は、フォル・ネビュラ近郊の地名です」
静かな午後の書斎に、その一言が落ちた。
「フォル・ネビュラ近郊」
「はい」
(クロフトが廃棄しようとしていた書類の中に、フォル・ネビュラ近郊での会合記録があった。……そして、アドルフ・ケルハムという名前が出てきた)
私はゆっくりと、扇子を開いた。
「J-5の欄に追記してくださいな。クロフトの廃棄予定書類にケルハムの名前が出現。フォル・ネビュラ近郊での会合記録と一致した可能性がある、と」
「承知しました。……これは、フォル・ネビュラへの出発前に、陛下へ報告しておくべきですか」
「そうしますわよ。今日の報告書に合わせて添付してください」
「かしこまりました」
シリルが書斎を出た。
私は扇子を一度ゆっくりと動かした。
(クロフトが今朝廃棄しようとしていた書類が、フォル・ネビュラへの糸口になった。……ゴミを処理する前に中身を確認する。それが、今日の正解でしたわよ)
(焼却していたら、この書類も灰になっていた。……燃費の計算が、今日は正しかったわけですわね)
* * *
夕方、陽が傾いてきた頃、フロード補佐官からの返答が届いた。
シリルが封書を持ってきた。
「マールス上席侍従の件です」
開いて読む。
*マールス上席侍従、本日正午過ぎ、王城内で身柄を確保。個人保管庫から持ち出した書類は全点押収済み。内容を確認中だが、ガルベス子爵への情報提供の記録と一致する部分が多数。本件については当方で引き続き処理する。クロフトの身柄については受け取り確認。取調は明日以降開始予定。書類は夕方中に届け出るよう手配中。以上。*
「三本、揃いましたわね」
私はそれだけ言って、封書を机に置いた。
(ガルベス、クロフト、マールス。……今日一日で、三本の枝管が閉じた。第一章の腐敗貴族連合の核心が、今日の段階で全員処理段階に入った)
(残っているのは、王子とモモ・ダスト。……でも、それはもう少し、後の話ですわよ)
私は水路図を再び開いた。
マールス上席侍従の欄に、処理済みの印を入れた。
地図の上で、閉じられた枝管の点が増えた。
(この地図の空白の箱に名前が入る日が、少し近づいた。……でも、まだ遠い)
扇子を膝の上に置いた。
開いたまま、動かさなかった。
静かな夕方の書斎に、王都の薄暮が差し込んでいた。
* * *
夜のダイニングは、今夜は四人だった。
クレア、シリル、リタ、カスミ弁護士。
いつもと違う顔ぶれだが、テーブルの上の配置は静かで整っている。
シリルがポットを持ってきた。
「今夜のお茶は、アッサム茶です」
「アッサム?」
「昨日のフォル・ネビュラ産の岩茶と茉莉花のブレンドとは、真反対のものにしました。……渋みが強く、ミルクを入れても負けない茶葉です。今日のような仕事の後には、軽いものより、しっかりとしたものの方がよいと思いましたので」
「珍しい理由ですわね」
「今日は、三人の人間を処理した日です。お祝いでも、弔いでも、どちらでもないが、軽い気持ちで終えてよい日でもない。……しっかりした茶が、適切かと判断しました」
カスミ弁護士がポットを見た。
「ミルクを入れても?」
「どうぞ」
シリルが小さな白磁のミルクポットを差し出した。
カスミ弁護士がミルクを入れ、一口飲んだ。少しの間、黙っていた。
「……強いですね」
「そうですわよ」
私もミルクを少し入れた。
アッサム茶の濃い渋みが、ミルクの丸みと混ざって、重厚な味になる。軽くない。でも、今夜には合っている気がした。
「菓子はこちらです」
シリルが皿を出した。
丸く成形された、濃い色のチョコレートが並んでいる。表面に、薄い金箔が一点だけ載っている。
「これは?」
「王都の老舗菓子店のものです。……苦みのあるカカオを使っています。アッサム茶と合わせると、苦みが打ち消し合わずに、それぞれが際立ちます」
「打ち消し合わない、というのが面白いですわね」
「別々に強いものを合わせると、互いの強さが消えることがある。でも、正しく合わせれば、それぞれが際立ちます。……今日の仕事も、同じではないかと思いまして」
(シリルは、本当に茶葉の理由付けが好きですわよ)
私はチョコレートを一粒手に取った。
口に入れると、最初に苦みが来た。次に、奥から甘みが出てきた。最後に、またかすかな苦みが残った。
(最初と最後が苦い。でも、中に甘みがある。……今日のことを表しているとしたら、少し意地悪な表現ですわよ、シリル)
「シリル」
「はい」
「これは、わざとですわね」
「何がでしょうか」
「今日の仕事の表現として、このチョコレートを選んだでしょう」
「偶然の一致でございます」
「あなたに偶然はありませんわよ」
シリルが完璧な無表情で、二粒目のチョコレートを皿から取った。
カスミ弁護士が、今夜三度目の笑いを見せた。今夜が一番長く続く笑いだった。
リタが廊下で短い音を出した。チャキッ。今夜の音は、柔らかかった。
(今日のゴミが片付いた。次のゴミが待っている。それでも、今夜はここで、この四人でいますわ)
私はアッサム茶をもう一口飲んだ。
強い渋みが、舌の上でゆっくりと変化する。
窓の外、王都の夜が静かに広がっていた。




