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第15話:ゴミは、出所まで辿る

 ガルベス子爵が王城に召喚されたのは、朝の九時だった。


 その報せを、シリルは朝食の最中に受け取った。


「お嬢様」


「聞こえていますわよ」


 私はカップを置かずに言った。


 カモミールティーの湯気がまだ立ちのぼっている。昨夜の深夜に飲んだものと同じ茶葉だ。今朝は少し薄めに淹れてある。


「ガルベス子爵が、正式召喚の形で登城しました。近衛の同行付きです」


「陛下が動きましたわね」


「はい。……クロフトへの動きについては、まだ陛下のご判断を待っている段階です。昨夜の報告書は今朝の早便で届けましたので、今日中には方針が返ってくるかと」


「そうですわね」


 私は一口飲んだ。


(ガルベスが引っ張られた。王城側が動いた。……これで水路の一本目が塞がれる。問題は、もう一本のクロフトのルートをいつ、どのタイミングで塞ぐか)


「カスミ弁護士は?」


「今朝、早くに起きていらっしゃいました。朝食は台所でシリルと……私が同席しました。今は客間で書類を整理されています」


「話したいことがあると?」


「おそらく」


 私はカップをソーサーに戻した。


「食事を終えたら、応接室に来ていただくよう伝えてくださいな」


「かしこまりました」


 シリルが出ていく前に、廊下からチャキッと音がした。


 リタが客間側の廊下で何かを確認した音だ。いつもより少し早い。昨夜から守り続けているのだから、体力的には問題ないはずだが、そういう問題ではないのかもしれない。


(リタが気にしているのは、カスミ弁護士の安全より、屋敷全体の緊張感の変化かもしれませんわね。ガルベスが召喚されたことで、ドレインが焦る可能性がある)


 私は朝食の最後の一切れのパンを口に入れた。


 薄く塗ったバターの塩気と、パンの素朴な甘さが混ざる。今日も一日、仕事がある。


* * *


 カスミ弁護士が応接室に来たのは、十時少し前だった。


 昨夜と同じ落ち着いた歩き方で、椅子に腰を下ろす。手には小さな書類の束を持っている。


「昨夜は、お休みになれましたか」


「少し」


「少し、ですわね」


「……最後にあれだけの情報が出てきた後では、頭が動き続けていました。申し訳ない」


「私もですわよ」


 私は扇子を膝の上に置いた。


「今朝、ガルベス子爵が正式召喚で登城しました」


 カスミ弁護士の目が、わずかに動いた。


「そうですか」


「あなたが昨夜持参した書類が、決め手の一つになりましたわよ。……ありがとうございます」


「礼を言われると、少し困ります」


「なぜですか」


「私は、正しいことをしたわけではありませんから。……ガルベス子爵の顧問だった間に、見えていたことがあっても、書類を集め続けていた。それは自分の保身のためでもあった」


(正直な方ですわね。あるいは、正直でなければならないと分かっている方だ)


「保身と正義は、両立することがありますわよ」


「そうですか」


「書類を集めていた理由が何であれ、書類はこちらの手にある。……ガルベス子爵の水路を塞ぐのに、必要なものが揃っていますわ」


 カスミ弁護士が、手の中の書類束を少し持ち直した。


「今日、お持ちしたのは昨夜の続きです。……クロフトとドレインに関して、私が整理できる範囲で整理してきました」


「今朝の早い時間に、ですか」


「眠れないなら、働く方がまだましです」


「なるほど」


 私は手を差し出した。


 カスミ弁護士が書類を渡す。


 受け取り、表紙の文字を確認した。整然とした筆跡で、項目が並んでいる。弁護士の仕事として書かれた文書だ。感情が入っていない。だからこそ、読みやすい。


「シリル」


「はい」


「昨夜の書類と合わせて、今日の午前中に照合してくださいな」


「承知しました」


 シリルが書類を受け取り、傍らの机に広げ始めた。


 私はカスミ弁護士に向き直った。


「昨夜の話の続きをしたいのですが、よろしいかしら」


「どうぞ」


「クロフトという人物について、もう少し詳しく聞きたいのですわよ。昨夜はドレインとの繋がりという点で話を聞きましたが、その前の話を」


「その前、というと」


「クロフトが、どこから来た人間か。ドレインに繋がる前の話ですわよ」


 カスミ弁護士が少し考えた。


「……クロフトの本名は、アイス・クロフトです。クライン侯爵家の出身ではなく、外部から秘書官として採用された人間です。採用前の経歴は、貿易関連の会社数社を経由しています」


(貿易関連。……港や国境を経由する仕事をしていた、ということかしら)


「どの地域の貿易ですか」


「主に、南部の港町と隣国の間の取引です」


 私は少しだけ、扇子を握る手に力を入れた。


(南部の港町。隣国。……フォル・ネビュラと、同じ方向を向いていた人間ですわ。ドレインの系統がそちらから来ているとすれば)


「クロフトがドレインと繋がった時期は、分かりますか」


「クライン侯爵家に入る前です。……おそらく、貿易会社での仕事を通じて繋がったと見ています。最初から、ドレインの系統で動く人間として、侯爵家に送り込まれた可能性がある」


「侯爵家に潜り込んだ、ということですわね」


「はい。……クライン侯爵本人が知っているかどうかは、私には判断できません」


(侯爵本人が共犯か、利用された側か。……昨夜の時点でも、その点が保留になっていましたわね)


「クライン侯爵に関して、何か印象はありますか」


「弁護士として、何度か侯爵の書類に関わったことがあります。……侯爵は、数字に強い方ではありません。大局を見る政治家としての力はあるが、細かい書類の中身については、側近に任せる癖がある」


「都合のよい盲点ですわね」


「ドレインにとっては、そうです」


(クライン侯爵の盲点を利用して、クロフトが侯爵の名の下に動いていた可能性が高い。……これは、侯爵が白か黒かを確認する前に、クロフトを切り離す方が先決かもしれませんわ)


「分かりましたわ。……クロフトの件については、陛下からの方針を待ってから動きます。今日の午後には返答があるはずですわよ」


「では、それまでは」


「ここにいていただいて構いません。安全ですから」


 カスミ弁護士が少し目を伏せた。


「……こちらの屋敷には、不思議な感じがします」


「不思議?」


「きれいすぎる」


 私は少し考えた。


「当然ですわよ。私のおそうじの手が届いている場所ですもの」


「掃除人の屋敷は、掃除が行き届いている」


「それは、どんな仕事でも同じですわよ。靴職人の靴は、きちんと縫われているものですわ」


 カスミ弁護士が、今朝初めて、わずかに口元を動かした。


* * *


 午後、陛下からの返答が届いた。


 シリルが封書を持ってきた時、私は書斎で水路図の最新版を確認していた。


「拝見しますわ」


 封書を受け取り、開く。


 国王の直筆ではなく、フロード補佐官の筆跡で書かれている。内容は簡潔だ。


   *ガルベス件は午前中に身柄確保、現在取調中。クロフト件については同日中の同時処理を承認。実施の方法と時期の最終判断はクレア・ヴィクトリアに委任する。ただし、クライン侯爵本人への波及は慎重に確認の上、判断すること。*


「委任ですわね」


「はい。……陛下は、現場の判断を尊重する方針のようです」


「現場の判断、か」


(委任というのは、信頼でもあり、責任の移譲でもある。……うまく使えということですわ)


「シリル、クロフトの今日の所在は把握できていますか」


「今朝の時点では、クライン侯爵邸に登庁しています。午後三時に、外出の予定があるという情報があります」


「外出先は?」


「北区の商業通りにある、貿易関係の組合事務所です。週に一度の定例会合だそうです。……ガルベスが召喚されたことをまだ知らない段階での予定です」


(ガルベスの召喚を知れば、クロフトは動くかもしれない。あるいは、知ったことを隠して平静を装うかもしれない。どちらにせよ、今日の午後の動きは重要ですわ)


「クロフトが、ガルベス召喚の報せをいつ知るか、分かりますか」


「正式な発表は夕刻の予定です。……ただし、王城内の情報の流れは早い。クロフトが侯爵家の秘書官ルートで知るとすれば、午後の早い段階で耳に入る可能性があります」


「つまり、定例会合へ向かう前後に、知ることになりますわね」


「そう見ています」


 私は水路図に目を向けた。


 ガルベス子爵の名前が入った点が、今日から「処理中」になった。クロフトの名前の点は、まだ「監視中」だ。


(ガルベスが引っ張られたことをクロフトが知れば、証拠の始末に動くか、逃げるか、あるいは平静を保ってドレインへ指示を仰ぐか。昨夜のムーアへの動かし方を見れば、クロフトは直接手を汚さないタイプ。……ということは、誰かを使う)


「シリル」


「はい」


「ムーアは今日、どこにいますか」


 シリルが少し間を置いた。


「……監視員からの報告では、今朝の時点でムーアは北区の旅人宿に滞在中です。昨夜の行動の後、そのまま宿へ戻っています」


「クロフトがガルベス召喚を知った後、最初に動かすのはムーアだと思いますわよ」


「何の目的で?」


「書類が昨夜回収できなかった件の、後始末のためですわ。……カスミ弁護士の事務所ではなく、別の標的に向かう可能性があります」


 私は扇子を、開かずに手の中で転がした。


(別の標的。昨夜の時点で、ドレインはカスミ弁護士が書類を動かしたことに気づいているかもしれない。ムーアが空の事務所を確認した時点で、何者かが書類を持ち出したことは分かったはず。……では、誰が持ち出したかを、ドレインはどこまで把握しているか)


「シリル、昨夜カスミ弁護士がここへ来る前の経路について、誰かに尾行される可能性はありましたか」


「確認しておりました。昨日の昼に弁護士が事務所を出た後から、私の指示した者が後方を確認しています。……尾行の形跡は、昨夜の時点ではなかったとの報告です」


「昨夜の時点では、ということですわね」


「はい。……ただ、今朝の時点では確認できていません」


(今朝から、この屋敷が標的になる可能性がある。……リタがさっき廊下で反応していたのは、そのことを感じ取っていたのかもしれませんわ)


「リタを呼んでくださいな」


 シリルが廊下へ向かった。


 少し後、チャキッという音と共に、リタが書斎の入口に現れた。


 私はリタを見た。


「今日の午後、屋敷の周囲が騒がしくなるかもしれません。……クロフトが動かすムーアという人物が、この屋敷を探りに来る可能性があります」


 リタの目が少し細くなった。


「ムーアは、静かに始末をするタイプだと聞いています。ただ、乱暴に踏み込んでくる可能性は低い。……偵察が先ですわ。もしムーアが屋敷の周囲をうろついている気配があれば、追い払わず、ただ確認するだけにしてください」


 リタが一度頷いた。それから、右手を持ち上げ、小さく指を動かした。


(カスミ弁護士は、という意味かしら)


「カスミ弁護士の客間は、引き続き守ってください。今日は外出なしでお願いしますわよ」


 リタがもう一度頷き、廊下へ戻った。


 チャキッ。


 今度の音は、準備が整ったという種類の音だった。


* * *


 午後の二時を過ぎた頃、最初の動きがあった。


 監視員からシリルへ、伝言が届いた。


「ムーアが旅人宿を出ました。方向は南へ」


「南。……この屋敷の方向ですわね」


「はい」


「距離は?」


「徒歩で三十分ほどの場所です」


(クロフトがガルベス召喚を知ったのだとすれば、それが午後の早い段階ということになりますわ。情報の伝わり方が早かった)


「ムーアが何を確認しに来るか。……昨夜の書類の行方ですわね、おそらく」


「事務所に書類がなかったことは分かっている。どこへ行ったか、まだ特定できていないとすれば、カスミ弁護士の行動を追う段階かもしれません」


「カスミ弁護士が昨日この屋敷へ来たことを知っていれば、直接ここへ来る。知らなければ、周辺を探ることになりますわね」


「どちらだと思われますか」


 私は少し考えた。


(ムーアは昨夜、書類の回収に失敗した。クロフトへ報告した。クロフトは次の動きを指示した。……カスミ弁護士の昨日の行動を追うとすれば、事務所を出た後の経路を辿ることになる。シリルが確認した時点では尾行はなかったが、ムーアが後から経路を再構成した可能性は排除できない)


「どちらの可能性もありますわ。……ただし、この屋敷が目的地だと分かった場合、ムーアが単独で踏み込んでくることはないはずですわよ。昨夜のパターンから見れば」


「では?」


「周囲を確認して、クロフトに戻す。……その報告を受けた後に、次の動きが来ますわ」


「今日の動きは、偵察止まりだと」


「おそらく。……ただし、こちらはその偵察を、ただ受けるのではなく、使いますわよ」


 シリルが少し目を細めた。


「使う、とは?」


「ムーアが屋敷を確認したことを、こちらが把握していると相手には知らせない。……ムーアが偵察し、クロフトへ報告し、クロフトが次の指示を出す。その流れを、こちらが先読みした上で動けば、相手の次の手を封じることができますわよ」


「お嬢様は、ムーアの次の動きを予測できますか」


「一つだけ、確認したいことがありますわよ」


 私は書斎の机から、昨夜カスミ弁護士が持参した書類の一ページを取り出した。


「カスミ弁護士に聞いてください。……クロフトが証拠を始末する際に、通常どういう経路を使うか。書類を処分する、という意味ですわよ」


「書類の廃棄方法を、弁護士が知っているのですか」


「直接は知らないでしょうが、パターンは見ているはずですわ。……弁護士は、書類の動きを見る仕事ですもの。不自然な廃棄の跡は、分かりますわよ」


 シリルが一礼して、客間の方へ向かった。


* * *


 シリルが戻るまでの間、私は窓の外を見ていた。


 今日の王都は曇っている。昨日の澄んだ空とは違う、重い灰色の雲が低く垂れている。


(雨が来るかもしれませんわね)


 右手を少し持ち上げた。


 白い手袋。指先から手首まで、きれいな白だ。


(ガルベス子爵が今日、王城で取調を受けている。……私が最初にガルベスの名前を聞いたのは、第三話の頃だったかしら。王子の側に集まっていた、腐敗貴族連合の筆頭として)


(そこから、水路図を辿ってきた。ガルベスからB-4の隣国との繋がりへ。B-4からF-1のドレインへ。ドレインからM、Nという階層へ。その末端に、マールス侍従とクロフトがいた)


 私は手を下げた。


(本管は、まだ見えていない。Dの正体は、まだ空白の箱のままですわ。……でも、水路の地図はずいぶん埋まってきた)


 扉がノックされた。シリルだ。


「失礼します」


「どうぞ」


 シリルが入ってきた。手に短いメモがある。


「カスミ弁護士からのご回答です」


「読んでくださいな」


「はい。……クロフトが書類を処分する際は、二つのパターンがあるとのことです。一つは、帳簿屋経由での書き換え処理。もう一つは、物理的な廃棄です。物理的な廃棄の場合、クロフトは港周辺の業者を使う習慣があったとのこと。書類を梱包して荷物として扱い、廃棄物として処理する経路を使う」


(帳簿屋経由……セドゥン商会の可能性がありますわね。フォル・ネビュラへ行けば、そこを当たれる。物理的な廃棄については、国内の港の業者ということになる)


「港周辺の廃棄業者というのは、特定できますか」


「カスミ弁護士の記憶では、南区の河岸沿いにある、スラム廃業という名の運搬業者を使っていたとのことです」


 私は少し止まった。


(スラム廃業。……エストの本名は、ヴァルス・スラムでしたわね。スラムという名前が、ここでも出てきた)


「シリル、ヴァルス・スラムとスラム廃業の関係を確認できますか」


「……確認します。ただし、国内の業者記録は、王城の商業登録に問い合わせが必要です。今日中には難しいかもしれません」


「急いではいませんわよ。……ただ、頭の端に置いておきたいのですわ」


 私は再び窓の外を見た。


(スラムという名前が、エストから国内の廃棄業者へ繋がった。……ドレインは、汚水管という名前の通り、端から端まで繋がっているのかもしれない。フォル・ネビュラの中間管理者と、国内の廃棄業者が、同じ名前の系列にある。これは偶然ではなく、設計ですわ)


「シリル、今日の午後の動きについて、判断を変えますわよ」


「どのように?」


「ムーアが屋敷の周囲を偵察した場合、今日は追わない。……今日は、ムーアに見える状態を作りますわよ」


「見える状態?」


「カスミ弁護士がこの屋敷にいることを、ムーアに確認させる。……ただし、書類がここにあることは、悟らせない。人間がいる、ということだけを確認させますわよ」


 シリルが少し考えた。


「……ムーアがクロフトへ報告する内容が、『カスミ弁護士はヴィクトリア家の屋敷にいる』という情報のみになれば」


「クロフトの次の動きが、書類ではなく、人間を標的にする方向に変わるかもしれない。そうなれば、クロフトが動く理由と方法が、こちらにとってより見やすくなりますわよ」


「……ただし、カスミ弁護士を餌にすることになります」


「カスミ弁護士に確認しますわよ。……その判断は、私が一人でするものではありませんわ」


* * *


 客間でカスミ弁護士に話を持ちかけた。


 リタが入口に立っている。シリルは廊下で待機。私はカスミ弁護士の向かいに座った。


「今日の午後、ムーアという人物がこの屋敷の周囲を確認しに来る可能性があります」


「……クロフトが動かしたのですね」


「おそらく。ガルベス子爵の召喚を知って、証拠の始末を急ごうとしている段階だと見ていますわよ」


「書類が私のところにあるかどうか、を確認しに来ている」


「はい。ここで、一つお聞きしたいことがあります」


「どうぞ」


「あなたがこの屋敷にいることを、ムーアに確認させることを、許可していただけますか。……書類がどこにあるかは悟らせない。人間がいるという情報だけを、相手に渡す形です」


 カスミ弁護士が、少しの間私を見た。


「私を、情報として使うということですね」


「そうなりますわよ。……ご不快であれば、別の方法を考えます」


「いいえ」


 カスミ弁護士が首を横に振った。


「構いません。……クロフトに対して、動ける証拠を集めることが先決ですから。私の所在を確認させることで、クロフトの次の手が読みやすくなるなら、それは有益です」


「ありがとうございます」


「ただし」


 カスミ弁護士が少しだけ目を鋭くした。


「クロフトがムーアではなく、もっと別の手段を使って来た場合は、どう対処しますか」


「リタがいますわよ」


 私は入口を示した。


 リタが静かに目を細めた。一言も発しないが、その目が全てを語っている。


 カスミ弁護士が少し息を吐いた。


「……了解しました」


* * *


 午後の三時を過ぎた頃、ムーアが屋敷の外に現れた。


 監視員からの伝言が届いた時、私は書斎にいた。


「屋敷の向かいの商店の前に、ムーアらしき人物が立っています。左眉の上の傷を確認しました」


「他に人員は?」


「一人です」


(一人で偵察。……クロフトは、まだそれほど焦っていないということかしら。あるいは、今の段階では静かな確認だけを指示している)


「カスミ弁護士に、窓際を少し歩いていただけるよう、リタから伝えてくださいな。……自然に。わざとらしくならないように」


 シリルが客間へメモを届けた。


 少し後、客間の窓に、人の影がゆっくりと動く気配があった。


 監視員からの次の報告が届くまで、十五分ほどかかった。


「ムーアが立ち去りました。北の方向へ」


「ありがとうございます。……監視員は、ムーアを三ブロック追ったら戻してください。深追いは不要ですわよ」


「かしこまりました」


 シリルが返答を送り出した。


 私は椅子の背にもたれた。


(ムーアは確認した。カスミ弁護士がヴィクトリア家の屋敷にいることを。……クロフトへの報告は今夜。クロフトの次の指示が来るのは、明日か、場合によっては今夜の遅い時間か)


「シリル」


「はい」


「クロフトへの処理について、陛下への追加連絡を入れておきますわよ。……今夜か明日の早朝、クロフトが動く可能性があります。先に動くために、王城側の近衛に連絡を取れますか」


「フロード補佐官を通じれば、三十分で繋がります」


「お願いしますわよ。……内容は、クロフトへの身柄確保の準備を今夜中に整えること。実行のタイミングはこちらから指示します、と」


「かしこまりました」


 シリルが書斎を出た。


 私は水路図を広げた。


 ガルベス子爵の名前に、今日の日付を書き込んだ。


 クロフトの名前の隣に、小さく「明日」と書き添えた。


(水路の二本目が、明日には閉まりますわ。……M、N、ガルベス、クロフト、マールス侍従。枝管が一本ずつ閉じていく。本管は、まだ残っている。でも、枝管が全部閉じた後では、本管の圧力が変わるはずですわよ)


 私は右手を水路図の上に置いた。


 白い手袋の指先が、Dという空白の箱の上で止まった。


(あなたの名前を書ける日が、近づいてきていますわよ)


 それだけ思って、指を引いた。


 水路図を丁寧に折り畳んだ。


* * *


 夕方、シリルが台所から戻ってきた。


 盆の上に、いつもより少し華やかな道具が並んでいる。白磁のポット。小ぶりの二つのカップ。それから、薄い紙に包まれた菓子が一皿。


「今夜はカスミ弁護士もご一緒に、ということで」


「三人でですか」


「リタは廊下で。ライス様は……今日はいらっしゃらないので、三名で」


「そうですわね」


 応接室で、カスミ弁護士と向かい合って座った。シリルがポットからカップへ注ぐ。


 湯気が上がった。香りが広がる。


「今日のお茶は何ですか」


「フォル・ネビュラ産の岩茶に、国内の茉莉花を合わせました。岩茶の渋みと、茉莉花の甘い香りが混ざります」


「混ぜるのですか」


「二章の舞台の茶に、一章の花を添える、という形で」


 シリルが涼しい顔で言った。


(それは、あなたが自分で考えた理由ですわね。……悪くないですわよ)


 私はカップを手に取った。


 一口飲む。


 岩茶の深い渋みが先に来て、それから茉莉花の甘い香りが後を追ってくる。二つが混ざって、どちらでもない、新しい味になっている。


(先ほどの水路図と似ていますわ。複数のものが混ざると、それぞれ単体の時とは異なる何かになる)


「カスミ弁護士、一口どうぞ」


「……ありがとうございます」


 カスミ弁護士がカップを受け取り、一口飲んだ。


 少しの間、黙っていた。


「不思議な味がしますね」


「二つのものを合わせると、どちらとも違うものになりますわよ」


「それは」


「弁護士の書類と、掃除人の水路図を合わせると、どちらだけでは届かない場所まで辿れる、ということですわ。……同じことですわよ」


 カスミ弁護士が少し目を細めた。


「……掃除人というのは、ものの言い方が独特ですね」


「よく言われますわよ」


 シリルが、薄い紙の包みを開いた。中から出てきたのは、小さな丸い菓子が並んでいる。


「これは?」


「南部の旧来の菓子で、ジャラン糖といいます。砂糖と香辛料を固めたものです。……カスミ弁護士がご出身の地方のものかと思いまして」


 カスミ弁護士が少し動きを止めた。


「よく、調べましたね」


「筆跡の書体と、出身地から類推しました。外れていましたか」


「外れていません」


 カスミ弁護士が一粒、手に取った。口に含んだ。


 少しの間、何も言わなかった。


「……子供の頃に食べたものです」


「そうですか」


「随分と久しぶりです。南部を離れて、もう二十年近くになるので」


(二十年。……南部の旧来書体と、この菓子と。カスミ弁護士の中に、二十年前の場所が、まだある)


 私はジャラン糖を一粒取った。


 口に入れると、砂糖の甘さとともに、かすかに香辛料の香りが広がった。慣れない味だが、悪くない。後からゆっくりと、甘さが変化して、違う種類の甘さになっていく。


「複雑な味ですわね」


「南部のものは、大抵そういうものです」


「岩茶と似ていますわね。最初と後とで、味が変わる」


「港のものと、内陸のものが、似た性質を持っているとは」


「汚れの落とし方が似ているものは、大抵、別の場所でも繋がっていますわよ」


 カスミ弁護士が、今日二度目の、わずかな笑いを見せた。


 今度は先ほどより少し長く、口元に残っていた。


 廊下からチャキッという音がした。


 リタが、外の様子を確認した音だ。今夜は静かだという報告と、私は受け取った。


「今夜は、ゆっくりお休みになってください。……明日は、少し動きがありますから」


「クロフトが?」


「おそらく。……ただし、今夜中に片がつく可能性もありますわよ」


「分かりました」


 カスミ弁護士がカップを置いた。立ち上がる前に、一度だけ私を見た。


「……クレア様」


「何ですか」


「今日、私を情報として使った。それは正しいことだと思います」


「正しいかどうかは、明日の結果で分かりますわよ」


「でも、確認を取ってから使った。……それが、私がこれまで働いてきた場所との違いです」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


(確認を取ること。……書類を一枚動かす前に、内容を確認する。人を一人動かす前に、意志を確認する。それは掃除の基本ですわよ。物の扱い方と、人の扱い方は、同じでなければならない)


「当然ですわよ」


 私はそれだけ言った。


 カスミ弁護士が一礼して、客間へ戻った。


 シリルがテーブルの上をそっと片付け始めた。


 私は残ったカップを手に取り、最後の一口を飲んだ。


 岩茶と茉莉花が混ざった液体が、喉を通っていく。最後の一口は、最初の一口より、ずっと馴染んでいる。


(明日、クロフトが動く。……あるいは、動かせる。枝管をもう一本、閉じますわよ)


 私は扇子を開いた。


 秋の夕暮れの応接室で、そのまましばらく動かさなかった。


 風が生まれなかった。


 それでよかった。


 今夜は、静かに待つ仕事だ。

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