第14話:水路の末端まで、きちんと辿る
カスミ弁護士がまっすぐに私を見た。
その目には、迷いがなかった。
「直接来た理由は、二つあります」
落ち着いた声だ。弁護士として何百もの交渉を経てきた人間の、感情の乗らない重さがある。
「一つは、書類を手渡しでなければ届けられない状況だったから。もう一つは」
カスミ弁護士が、革鞄を膝の上に置いた。
「今夜中に、クロフトが動く可能性があります」
応接室に、一瞬の静寂が落ちた。
「根拠を」
「今朝、事務所を出る直前に、クロフトから私へ連絡がありました。……ドレインを通じた連絡ではなく、直接の。内容は、『明日の朝には事務所の書類を確認する』という一言でした」
「それは脅し?」
「確認と書いてあっても、意味は一つです。……クロフトは、私がガルベス子爵の書類とともに、彼に関わる書類も持っていることを知っている。今夜のうちに私が書類を処分するか、渡すかを選べ、という意味です」
(クロフトが動く。今夜中に)
私はシリルを見た。シリルがわずかに頷いた。
「ガルベス子爵が王城に呼ばれている今夜が、クロフトにとって動くタイミングでもあるということですわね。ガルベスが不在の間に、証拠の始末をしようとしている」
「そう判断しています」
「クロフトの今夜の行動について、もう少し具体的に教えていただけますか。使いを送ってくるのか、直接来るのか」
「直接は来ません。クロフトはクライン侯爵の秘書官という立場がある。表立って動けない。……おそらく、別の人間を使います」
「その別の人間というのが、ドレインの手の者、ということかしら」
「ガルベス子爵の系統ではない人間です。クロフトはドレインの中でも別の系統から来ている。……ガルベスルートとクロフトルートは、上では繋がっていても、現場では互いをあまり知らない」
(組織として設計されている。縦割りで、横の繋がりは最小限。ゴミの分別が徹底されているのですわ。ただし、分別されていても、同じゴミ袋の中にはある)
「クロフトが今夜動かす人間に、心当たりはありますか」
「一名、知っています」
カスミ弁護士が少し間を置いた。
「アウグスト・ムーア。元王都警備の巡回員ですが、三年前に除名処分になっています。クロフトとの繋がりはその前からで、今は裏の仕事で動いている人間です」
「ムーア」
私は名前を記憶した。
「その人物について、容貌は?」
「四十代前半、がっしりとした体格。左の眉の上に古い傷があります。……動きは早いですが、派手ではない。静かに始末をする型の人間です」
(静かに始末をする。……それは、証拠を残さず処理するということ。使い古しの雑巾を黙って捨てる、というタイプの処理ですわね)
「シリル、記録していますか」
「はい。それと、ムーアという名前に一点確認があります」
「どうぞ」
「フロード補佐官の差分資料の中に、『M・U』という頭文字で記録された人物への謝礼の記録が一点あります。照合はまだですが、マウス・アウグスト・ムーアの可能性がある」
「ムーアもドレインの資金ルートに乗っていたということかしら」
「仮説ですが、クロフトとムーアの間に定期的な資金の流れがあれば、今夜の動きの裏付けになります」
カスミ弁護士が少し目を細めた。
「……随分と、整理されていますわね」
「おそうじの基本は、汚れの動線を把握することですもの」
私は扇子を膝の上でゆっくりと開いた。
(今夜、クロフトがムーアを使って動く。対象は、当初はカスミ弁護士の書類のはずだった。しかし書類はもうここにある。ムーアが事務所に着いた時、標的は空の部屋だ)
「カスミ弁護士」
「はい」
「あなたが事務所を出た時刻は?」
「正午少し前です」
「その後、事務所に戻っていない?」
「戻っていません」
「事務所の鍵は?」
「持っています。……番頭の者に、今日は閉めるよう伝えて来ました。夕方には誰もいなくなっているはずです」
(事務所は空。書類もない。ムーアが夜中に事務所へ侵入しても、空っぽのゴミ箱を漁るだけですわ)
「では、今夜の対処について、ご提案がありますわよ」
カスミ弁護士が少し前傾みになった。
「どのような?」
「ムーアには、空の事務所に来てもらうとよいですわ。書類を回収しようとして、何もない。その行動そのものが、証拠になりますもの」
「ムーアが事務所に侵入したことを記録する、ということですか」
「不法侵入という事実があれば、クロフトからムーアへの指示があったことの傍証になりますわよ。動きを記録する人間を事務所の周囲に置いておけば十分ですわ」
シリルが続けた。
「ムーアが事務所を出た後の尾行も有効です。どこへ戻るかで、クロフトとの接触場所が分かる可能性があります」
「……それは、ムーアを泳がせるということですね」
「ゴミ袋は、投棄場所を見てから分別するのが確実ですもの」
カスミ弁護士がわずかに息をついた。
「私への直接の危害については、今夜は可能性が低いと判断していいですか」
「書類の回収が今夜の目的であれば、あなたへの接触は二番目になるはずですわ。……ただ、確実ではありません」
私はリタを見た。
「リタ、今夜、カスミ弁護士にはここに泊まっていただくことになりますわ。客間の警備をお願いできますかしら」
リタが目を細め、一つ頷いた。
(準備できている、という目ですわね)
「泊まっていただくことになりますが、よろしいかしら」
カスミ弁護士が少し間を置いてから、頷いた。
「……ありがとうございます」
硬い声の奥に、何か柔らかいものが混ざった。長い間、一人で動いてきた人間が、初めて安全な場所に足を踏み入れた時の音だ。
(この人は、随分と長い間、緊張していたのかしら)
私はそれ以上は何も言わなかった。
* * *
夜の仕度が始まった。
シリルが配置を整えた。カスミ法律事務所の周辺に、二名の観察者を置く。リタは屋敷の客間側を守る。シリル自身は書斎で情報を受け取る立場に回る。
私は書斎でカスミ弁護士が持参した書類の整理を始めた。
革鞄の中には、約束通りの書類があった。
クロフトとガルベス子爵の資金のやり取りを示す記録。王都防衛委員会の特別予算への介入覚書。そして、ドレインからクロフトへの指示書が三通。
「シリル、昨夜の鉄の箱の書類と今夜の書類を並べてみてくださいな」
「かしこまりました」
机の上に、二つの出所の書類が並んだ。
私は照合を始めた。
日付を確認する。署名の形式を確認する。使われている隠語の一致を確認する。
(ガルベスルートとクロフトルート。縦割りで動いていたはずの二つが、書類の上では同じ指示系統に繋がっている。……上位の署名が同じですわ。Dという頭文字で始まる記号が、どちらにも使われている)
「シリル」
「はい」
「ドレインの指示書のフォーマットが、二つの書類で一致しています。つまり」
「ガルベスとクロフトへの指示は、同じ人間が書いている」
「ええ。ドレインは単一の指示者ですわ。複数の組織ではなく、一人か、あるいは極めて少数の中枢から動いている」
(排水管の本管は、一本。そこから枝管が分かれて、ガルベス、クロフト、カスミという末端へ伸びていた。末端は互いを知らなくても、本管を辿れば同じ水源に行き着く)
「本管が一本だとすれば、ドレインの正体に辿り着くことができれば」
「枝管は全部同時に枯れますわよ」
シリルが静かに答えた。
「ただし、本管は深いところにある。地表からは見えない」
「だから、今夜のムーアから辿っていくのですわよ。末端から本管へ」
* * *
夜の九時を過ぎた頃、最初の報告が入った。
観察者の一人から、シリルへの伝言が届いた。シリルが書斎へ持ち込む。
「ムーアが確認されました。北区の路地から事務所の方向へ向かっています。一人です」
「移動速度は?」
「急いではいない。通常の夜の歩行者として溶け込んでいる」
「では事務所に着くまで、まだ少し時間がありますわね」
私は書類の整理を続けた。
(急がない。急くと、手順を飛ばして、後で取り返しのつかない拭き残しが出る)
十時少し前、二通目の報告が来た。
「ムーアが事務所の裏口から侵入を試みています」
「侵入した?」
「……成功しました。中へ入っています」
「観察者に、中には入らないよう伝えてください。外から記録するだけ。ムーアが出てくるまで待ちますわよ」
「かしこまりました」
待つ間、私はカスミ弁護士が持参した指示書の三通目を読んでいた。
二通は既存の書類との照合が終わっていた。三通目だけが、まだ確認の取れていない部分がある。
シリルに翻訳してもらいながら内容を追う。
最後の一段落で、私は手を止めた。
「シリル」
「はい」
「ここ、もう一度読んでいただけますか」
シリルが文書を取り上げて、ゆっくりと読んだ。
「……『Vの排除については、最終判断を保留する。ただし、V周辺の動きが加速した場合、緊急の処理を承認する』」
(Vの排除。……Vはヴィクトリアのカスレスの頭文字)
私は一秒だけ、その言葉を咀嚼した。
(私を、緊急処理の対象として承認するかもしれない、という文書が存在していたということですわ。先週の文書と合わせれば、二重の標的指定ですわね)
(排除。……焼却処分という言葉を使わないのが、むしろ上品に見えますわよ)
「お嬢様」
シリルが、珍しく少しだけ声の温度を変えた。心配、とまではいかないが、確認するような声だ。
「分かっていますわよ。驚きませんわ」
私は書類をそっと机に置いた。
(私が標的であることは、B-3の段階からすでに分かっていた。今夜の文書は、その範囲を一段と広げて確認させてくれただけですもの。……驚かないのは本当ですわ)
(ただ)
右手の白い手袋の端を、左指が無意識に触れた。
(標的にされると分かっている人間が、動き続けることの意味を、私は今夜もまだ整理できていませんわ。仕事だから。王家の特命だから。そうやって言葉を当てはめると、きちんと収まる。でも、その言葉の奥に何があるかを、私はあまり確認しないようにしていますわ)
扇子を手に取り、開かなかった。
(仕事中ですわよ。余計なことを考える時間ではありません)
私は手袋の端から指を離した。
* * *
三通目の報告が来たのは、十時半近くだった。
「ムーアが事務所から出てきました。手ぶらです」
「手ぶら」
「書類を持ち出せなかったことを確認したようで、立ち止まって事務所の裏口を確認しています。……今、歩き出しました。北の方向へ向かっています」
「尾行を続けてください。どこへ向かうか確認しますわよ」
「かしこまりました」
シリルが伝令に返答を送り出した。
「北の方向、ということは」
「北区の上級住宅街です。クライン侯爵邸があります」
(クロフトは、ムーアを直接侯爵邸の周辺から動かしていた。……報告のために戻る場所が侯爵邸に近いとすれば、クロフトはクライン侯爵に随行した形で今夜そちらにいる可能性がある)
「クロフトの今夜の所在については?」
「クライン侯爵が今夜、北区の別宅を使っているという話があります。本邸ではなく別宅の方に、今夜は人が入ったという情報がありました」
「別宅の住所は?」
「北区の八番地です」
「ムーアが北へ向かっているなら、八番地に向かっているかもしれませんわね」
私は立ち上がった。
「シリル、観察者が追えるうちに、ムーアの目的地を確定させてください。ただし、接触は一切なし。距離を保って記録するだけですわよ」
「はい。……ただ、お嬢様」
「何?」
「今夜は、ここで待たれる方がよいと思います。ムーアの動きが確定すれば、次の手は明日以降で打てます」
「分かっていますわよ」
私は扇子を開いた。
「今夜は、待ちますわ。……ゴミの行き先を確認してから、回収の段取りを立てる方が、効率的ですもの」
シリルが一礼した。
* * *
報告の最終便が来たのは、深夜に近い時間だった。
「ムーアが八番地の前で立ち止まりました。裏口から入りました。……三十分後に出てきて、別の方向へ向かいました。現在、観察者は引き返しています」
「八番地への入室が確認された、ということですわね」
「はい。それと」
シリルが少し間を置いた。
「観察者の一人が、八番地への入室直前にムーアの表情を確認できています。……報告によると、苛立った様子だったとのことです」
「書類が空だったことを、伝えに行ったわけですわね。手ぶらで、主人のところへ」
(空のゴミ箱を開けてきただけの男が、依頼人に報告する。……使えない道具と分かった時、ドレインはそれをどう扱うかしら。まだ使うか、捨てるか)
「ムーアについては、継続して監視を?」
「そうしてくださいな。ただし、今夜はもう終わりですわよ。観察者を下げてください」
「はい」
* * *
書斎に戻ると、客間のリタから短い確認のノックが廊下越しに届いた。
「カスミ弁護士は休まれていますか?」
扉の向こうで、リタが親指を立てた。
「ご苦労様でしたわ。今夜はそのまま守ってあげてください」
リタが小さく頷く気配があった。
私は書斎の椅子に腰を下ろした。
今夜の整理をする。
ムーアは八番地へ報告に行った。八番地はクライン侯爵の別宅。クロフトはそこにいた可能性が高い。ムーアとクロフトの接触が、今夜の行動で傍証として積み重なった。
書類はこちらの手にある。
ドレインはまだ書類が消えていないことを知らない。
(今夜の段階では、ドレインはムーアが書類の回収に失敗したとしか思っていないはずですわ。書類が既にここにあるとは知らない。……この時差を、どう使うかですわね)
「シリル」
「はい」
「明日、陛下への第二の報告書を作成しますわよ。今夜集まった情報と書類を全部合わせて。……ガルベス子爵の拘束が今週中なら、クロフトへの動きも同時に考えていただけるかどうか、陛下にお伺いしなければならない」
「一度の報告で、二人分の処理を求めるということですね」
「ガルベスとクロフトは別系統ですが、上位の指示者は同一。一方を処理して他方が逃げれば、ドレインはルートを組み替えてくるだけですわ。……二本の管を同時に閉じなければ、片方から逆流しますもの」
「タイミングを合わせる必要があります」
「陛下がどこまで動けるかは、明日の報告を見てからですわね」
私は机の上の書類をひとまとめにして、端をそろえた。
白い手袋の指が、紙の束を押さえる。
(ガルベス、クロフト、カスミ弁護士、Sの兄妹、ムーア、ドレイン。……それぞれが、大きな水路図の一点ずつですわ。今夜、水路の末端から末端まで、ようやく繋がってきた)
(でも、本管はまだ見えていない)
私はその事実を、静かに書類の束の下に押さえた。
(本管が見えるのは、もう少し先の話ですわ。今夜のところは、今夜できた分だけで十分ですもの)
* * *
シリルが台所へ姿を消し、少しして戻ってきた。
盆の上に、陶器のポットと二つのカップ。それから小さな皿に、薄い生地のクッキーが数枚。
「まだ食べられますか」
「何ですかしら、これは」
「アニスシードのビスケットです。台所に残っていたものを焼きました。……十分ほどで焼けるものが、これしかありませんでしたので」
「シリルが焼いたのですか」
「焼いたとは申しておりません。台所の竈が焼いたのです。私は火加減を管理しただけです」
「それを焼いたと言うのですわよ」
シリルが少し目を細めた。笑いを抑えているような顔だ。
「今夜のお茶は、カモミールにしました。睡眠の補助になりますから」
「眠れるとお思い?」
「眠れなくても、体を横にしていただく必要があります。明日は早いですから」
私は一枚、ビスケットを手に取った。
薄くて軽い生地に、アニスの香りがある。素朴な味だ。華やかなケーキとはかけ離れているが、今夜の深夜には、むしろこれが合っている。
「……悪くありませんわよ」
「恐縮です」
カモミールの湯気が立ち上る。
私はカップを両手で包んだ。
温かい。
(今夜は随分と、たくさんのことを知ってしまいましたわね。ドレインが私を標的にしていること。ムーアとクロフトの接触。カスミ弁護士とSが兄妹であること。……知ることで、動ける。動くことで、次が見える)
(それでも、本管はまだ深いところにある)
「シリル」
「はい」
「水路図は、明日の朝に最新版を作り直してくださいな。今夜分の情報を全部反映させて」
「かしこまりました。……では、お嬢様もそろそろ」
「もう少しですわよ」
「もう少し、が二時間になった前例を存じ上げておりますので」
「今夜は、ならないとお約束しますわ」
シリルが静かに礼をした。
私はカモミールを一口飲んだ。
アニスのビスケットをもう一枚、手に取った。
窓の外は、深夜の王都だ。街は静かで、遠くに夜警の足音が聞こえる。ムーアはすでにどこかへ消え、クロフトは別宅でおそらく苛立っている。ドレインは、まだこちらの手の内を知らない。
(排水管の詰まりを取り除く前には、詰まりの全体図を把握しておく必要がある。今夜は、その図がずいぶん鮮明になった。……あとは、本管を見つけること)
私は扇子を、今度は静かに膝の上に置いた。
カモミールの湯気が、ゆっくりと夜の中に溶けていった。




