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第13話:霧の手前で、道具の確認

 出発の前日は、晴れた。


 窓から見える王都の空が、秋にしては珍しく澄み切っていて、遠くの丘の稜線まではっきりと見えた。そういう日に限って、翌日は天気が崩れる。長年の経験でそれは分かっていた。


(霧の港への道中は、雨になりますわね。まあ、汚れた場所へ行くのに、晴れている必要はありませんわ)


 私は書斎に座り、持参する荷物のリストを最終確認していた。


 羽ペンで項目を追いながら、一つずつ丁寧に目を通す。


 荷物の整理は、おそうじの一部だ。不要なものを持ち込まず、必要なものを漏らさない。それが、どこへ行くにも変わらない原則だ。


「シリル、水路地図の携帯版は?」


「完成しています。折り畳んで、ここに」


 シリルが薄い革の手帳を差し出した。私は受け取り、中を開いた。


 縮小されているが、情報の密度は落ちていない。Dの空白の箱も、ガルベス子爵の名が入った点も、エストとカラミ商会の位置も、きちんと記してある。


(このサイズなら、商人の懐に収まりますわね。目立たない)


「よろしいですわ。薬草商の証明書類は?」


「こちらに三部。……クレア・ヴィクトリア名義ではなく、仮名のロク商会の名前で発行しております。クレア・ロク、という商会主の名前を使う予定です」


「私の名前の一部を残したのですか」


「別名を使う際は、本名の一部を残す方が、とっさの場合に反応しやすいと言いますので」


「なるほど。実用的ですわ」


 私はリストの該当項目に、チェックを入れた。


「リタの荷物は?」


「最小限です。本人が自分で管理しております。……確認したところ、着替えよりも、砥石の方が多い状態でした」


「それで結構ですわよ」


 リタの優先順位は、いつも正しい。


「ライス様の準備は?」


「昨日から旅装のままです。今朝、荷物を確認させていただきましたが、必要なものだけが、非常に効率的に詰められていました。余分なものが一つもない」


「長年の習慣ですわね」


 私はリストの最後の項目を確認した。


(薬草商の証明書類、水路地図、着替え三着分、医療用の簡易道具、手袋の予備五組、砥石はリタが持つ、ライスの案内が入ればカラミ商会の裏経路三つ……)


 手袋の予備五組、のところで一度、羽ペンが止まった。


(五組。……第一章では、二組で足りた。霧の港では、何組必要になるかしら)


 止まった羽ペンを、静かにまた動かした。


「シリルる」


「はい」


「明日の出発は、朝六時で予定通りですわね」


「はい。馬車を二台用意しています。一台に私とクレア様、もう一台にリタとライス様。……荷物は合わせて一台に積む予定でしたが、ライス様から『荷物は人と同じ馬車に分散させた方がいい』とご提案がありました」


「理由は?」


「荷物を狙われた場合に、全員が同じリスクを負わない、とのことです」


 私は少し考えた。


「採用しますわ。荷物はそれぞれ分散させてください」


「承知しました」


「もう一点。近郊の村の漁師との接触は、フォル・ネビュラの手前、どのくらいの地点ですか」


「ライス様によれば、港から馬車で半日ほどの村だそうです。フォルク村という名前で、港の漁師が多く居住しています」


「フォルク村で一泊して、翌朝フォル・ネビュラへ入る」


「そのような段取りです。村の宿は、ライス様が顔を知っている宿主のところをお願いしました」


「ライス様に頼りっぱなしですわね」


「現地情報は、現地を知る道具を使うのが最も効率的です」


「……あなたが道具と言うのは、なぜか違和感がありませんわね」


「私はその用語に慣れておりますので」


 シリルが涼しい顔で言った。


 私はリストを閉じた。


「午後は、スラッジ書記官一家への最後の挨拶をしてから、荷物の最終確認をしますわよ。出発まで、余分な仕事は入れないでください」


「承知しました。……一点だけ、お伝えしておくことがあります」


「何ですか」


「今朝、霧からの手紙が届きました」


 私は少し背筋を伸ばした。


「内容は?」


「短いものです。……こちらに」


 シリルが折り畳まれた紙を差し出した。例の流麗な筆跡だ。


   *掃除人へ。出発前に一点。フォル・ネビュラの港の西区画に、セドゥン商会という帳簿屋があります。表向きは海運会社の記帳代行業ですが、カラミ商会の二次送金先を管理しています。Dへの資金がここを経由しています。気をつけて。――霧*


 私は二度読んだ。


(セドゥン商会。……J-3「セドゥン商会の送金先」として記録していた名前ですわ。霧が、こちらが知らない名称を先に出してきた。……これで三度目ではなく、四度目ですわね。必要な情報を、必要な時に)


「シリル、J-3の欄に追記してください。セドゥン商会が、港の西区画に存在することが霧の情報で確認された、と」


「承知しました。……セドゥン商会の名前は、フロード補佐官の差分資料にも小さく登場していました」


「記録にはあったのですか」


「ただし、そちらでは送金先の末端として一行だけ。詳細不明のままでした。今回の情報で、港の西区画という具体的な場所が判明したことになります」


「使えますわね」


 私は紙を四つ折りにして、携帯版の水路地図と同じ革の手帳に挟んだ。


(霧は、こちらが向こうへ行くことを知っている。今回の手紙の内容が、出発のタイミングに合わせたものだとすれば、霧はこちらの動きを相当正確に把握している)


「霧の情報提供の頻度と内容が、こちらの計画と連動しすぎていますわ」


「……ご指摘の通りです」


「敵である可能性は?」


「敵であれば、この情報は嘘か、誘導のための本物の情報です」


「嘘と本物の情報のどちらかを使った誘導、か。……現地で確認するまでは、保留にしておきますわよ。セドゥン商会の情報は使いますが、西区画に入る際は慎重に」


「ライス様に伝えますか」


「伝えてください。……ただし、霧の情報源であることは今は伏せておきましょう。セドゥン商会の存在は知っているか、という形で聞いてみてくださいな」


「かしこまりました」


 シリルが立ち上がり、一礼して書斎を出た。


 私は書斎に一人残った。


 窓の外の晴天を、少しだけ見た。


(Dへの資金がセドゥン商会を経由している。……帳簿屋が送金を管理しているということは、記録がある。記録があるということは、証拠になりうる。ただし、その記録に触れるには、セドゥン商会の中へ入るか、記録を外から回収するか)


 扇子を手に取り、開かずに膝の上に置いた。


(帳簿屋の汚れは、焼けばなくなる。でも、焼いては証拠が消える。……分別が必要な案件ですわね)


   * * *


 午後、スラッジ書記官の部屋へ向かった。


 扉を二回叩くと、書記官本人の声が返ってきた。


「どうぞ」


 入ると、書記官は窓際の椅子に座って本を読んでいた。昨日より顔色がよい。窓から秋の光が入っていて、部屋が明るい。


「少しよろしいですか」


「もちろんです。……クレア様、椅子を」


「立ったままで結構ですわよ。長くはかかりません」


 私は書記官の向かいに立った。


「明日、私はフォル・ネビュラへ向かいます。出発前にお伝えしておきたかったので」


「フォル・ネビュラへ、ですか」


「国内の仕事の続きが、向こうにありますの」


 書記官が少しの間、本を膝に置いた。


「D、ですね」


「そうですわ」


「……危険ですか」


「管理された危険ですわよ」


 私は静かに言った。


「ご家族は、私が戻るまでここにいていただきます。屋敷の警護は変わりません。先ほど使用人への引き継ぎも済ませましたわよ」


「ありがとうございます。……クレア様」


 書記官が少し言い淀んだ。


「何ですか」


「私は、十二年間、間違った方向へ流されていました。帳簿の数字を書き換えるたびに、次の行に進む前に一度だけ、元の数字を見た。……正しい数字が何だったかを、忘れないためだけに」


 私は書記官を見た。


「それが、二冊目の帳簿になりましたわね」


「はい。……捨てることができなかったのは、元の数字を覚えていたかったからです」


(汚れを記録することで、汚れる前の状態を覚えておこうとした。……奇妙な整理の仕方ですわね。でも、その記録が今、証拠として機能している)


「元の数字は、まだ覚えていますか」


「全部は無理ですが、大事な部分は」


「それで十分ですわよ。……後は、こちらが正しい数字に戻しますから」


 書記官が、深く息をついた。


「ご武運を」


「おそうじに、運は不要ですわよ」


 私はそれだけ言って、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、右手の手袋を左手でそっと触れた。


(元の数字を覚えておくために、間違いを記録した。……私は、消したものを何のために覚えているのかしら)


 思考が斜めに動きかけた。


 私はそれを、廊下の突き当たりで静かに止めた。


(今夜は、考えない。明日の準備があります)


   * * *


「ライス様」


 私が庭に出ると、ベルト・ライスは石のベンチに腰を下ろし、小さな刃物を砥石で研いでいた。


 音が静かだ。力を入れすぎず、一定のリズムで研いでいる。長年の習慣を持つ人間の動作だ。


 ライスが顔を上げた。


「クレア様」


「少しよろしいですか」


「どうぞ」


 私はベンチの少し離れた場所に立った。座る気分ではなかった。


「シリルから、セドゥン商会の件を聞きましたか」


「はい。……知っています」


「どのくらい」


「港の西区画に、帳簿代行業として存在することは知っていた。カラミ商会との関係は、薄々は」


「薄々」


「確認は取れていませんでした。……ただ、港の西区画というのは、表の商人があまり近づかない場所です。荷降ろし場所が集中していて、船の往来が多いが、見通しが悪い」


「霧が溜まりやすい場所ですわね」


「そうです。……物理的な意味でも、比喩的な意味でも」


 私は扇子を取り出したが、開かなかった。


「セドゥン商会の中へ入る方法に、心当たりはありますか」


 ライスが砥石を止めた。刃物を膝の上に置き、少し考えた。


「一つ、あります」


「聞かせてくださいな」


「セドゥン商会は、帳簿代行業として複数の海運会社の記帳を引き受けています。……その中に、表向きは薬草の輸入を扱っている小さな海運会社があります」


「薬草」


「はい。……薬草商として港に入るなら、その会社と取引がある、という設定が使えるかもしれない。帳簿を見せてもらう口実として、記帳の確認という理由が立てられます」


「記帳確認のふりをして、セドゥン商会の内部の帳簿を確認する、ということですわね」


「帳簿屋は、帳簿を見せることが仕事です。……正規の取引先が帳簿の確認を求めることは、不自然ではない」


(なるほど。不法に踏み込む必要がない。正面から入れる方法を、この人はすでに持っていた)


「その薬草の輸入を扱う海運会社の名前は?」


「ルノア・フォルネ商会。……七年前に、エストと仕事をしていた頃に把握した名前です。今も存続しているかどうかは、現地で確認が必要ですが」


「七年前の情報ですわね」


「時間が経てば腐ります。……ただ、帳簿屋というのは、一度記録を引き受けると長く付き合う商売なので、関係が切れている可能性は低い」


「確認は現地で」


「はい」


 私は扇子を膝の前で軽く叩いた。


(この人の情報は、常に「確認は現地で」という留保が付いている。……確実でないことを確実と言わない。それは、情報の扱いとして正しい)


「分かりましたわ。フォルク村で一泊した後、フォル・ネビュラへ入る前に、この方針を最終確認しましょう」


「そうしましょう」


「もう一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「フォルク村の漁師の方に、会うことを楽しみにしていますか」


 ライスが少し間を置いた。先ほどの計算の間とは違う。何かを量っている間だ。


「……そう、なりますかね」


「確信がないように聞こえますわね」


「十五年会っていません。……向こうが、俺を覚えているかどうか」


「覚えていれば、それでよい。覚えていなければ、新しく信頼を作ればいいだけですわよ」


「簡単に言いますね」


「信頼を作ることは、汚れを除くことと同じですわよ。……丁寧に、時間をかけて」


 ライスが少し目を細めた。今日初めて、笑顔とも呼べる表情だった。


「掃除人というのは、ものの見方が独特ですね」


「そうですか? 私には普通に思えますわ」


 ライスが砥石を手に取り、また刃物を研ぎ始めた。


 私はその音を少しの間聞いてから、庭を後にした。


   * * *


 夕方、シリルが書斎に入ってきた時、私は手袋の予備を数えていた。


 五組。白い手袋が、机の上に整然と並んでいる。


「お嬢様」


「何ですか」


「リタからの伝言です。……今夜の夕食後、少しだけ時間をいただきたいと」


 私は手袋から目を上げた。


「リタが?」


「はい。……文字で書いてきました。珍しいことです」


 シリルが小さな紙を差し出した。


 リタの文字は、普段ほとんど見ない。だから、その字が思ったより丸く、几帳面であることが少し意外だった。


   *出発の前に、確認しておきたいことがあります。夕食後に、少しだけ*


(確認。……リタが確認したいことがある。何かを感じ取っているのかもしれませんわ)


「分かりましたわ。夕食後に、ここで」


 シリルが頷いた。


「それと、もう一点」


「何ですか」


「今日の午前中に、マールス上席侍従の書面の筆跡鑑定の結果が出ました」


「鑑定官の所見は?」


「M由来の書面の筆跡は、王城の正規の文書に使われる筆癖とは異なります。南部の旧来の書体に近い、と」


「南部の旧来の書体」


「ナジュミ・カスミ弁護士の出身地が南部の旧来の地主階級だという記録と、一致します」


 私は手袋の一組を手に取り、少し折りたたんだ。


「物証として機能しますか」


「単体では証拠能力は弱い。ただし、スラッジ書記官の帳簿のMへの言及、マールス侍従の封蝋の記憶証言、そして今回の筆跡の所見を合わせれば、カスミ弁護士がMである可能性を示す状況証拠の束として機能します」


「束として、ですわね」


「一本の糸は切れる。束は切れにくい」


「よく言いましたわ、シリル」


「ありがとうございます」


「褒めていませんわよ」


 私は手袋を元の場所に置いた。


「F-2の欄に追記してください。南部書体との一致が筆跡鑑定で確認、状況証拠の束として整理、と」


「承知しました」


「これが、今日の最後の国内作業ですわよ。……明日からは、霧の中に入りますもの」


   * * *


 夕食後、書斎でリタが扉を叩いた。


 二回、控えめに。


「どうぞ」


 リタが入ってきた。シリルは扉の外にいる。私とリタが二人きりになるのは、珍しいことではないが、リタがそれを求めてくるのは初めてだった。


「座りますか?」


 リタが首を横に振った。


 立ったまま、私の正面に立つ。普段の護衛の位置より、少しだけ近い場所だ。


「確認したいことは、何ですか」


 リタが少し考えた。それから、右手を上げ、胸の前で拳を作った。次に、その拳を少し開いて、何かを差し出すような形にした。


(何かを、守る、ということかしら)


「守りますわよ、と言いたいのですか」


 首を横に振る。


 リタがまた考えた。今度は、右手の人差し指で、私の胸元あたりを指した。それから、自分を指した。そして、左右に一度ずつ均等に指を動かした。


(私と、リタ。……同じ、ということかしら。でも何が?)


「同じ場所へ行く、ということですか」


 頷く。続けて、リタは右手の手のひらを上に向け、左手でそれを下から支えるような形を作った。


(支える。……私を、支える?)


「いつも支えてくれていますわよ」


 リタが首を横に振った。もどかしそうに、少し眉が動く。


「別のことを言いたいのですわね」


 頷く。


 リタが一度だけ深く息をついた。それから、右手の人差し指を、私の右手の方向へ伸ばした。手袋をしている、私の右手の方向へ。


 私はその動きを、少しの間受け取った。


(右手。手袋。……A-1、「落ちない汚れ」のことを、リタは何か感じ取っているのかもしれない)


「フォル・ネビュラで、何かが起きると思っていますか」


 リタが、今度は首を縦にも横にも振らなかった。


 代わりに、右手を自分の胸に当てた。


(分からない、けれど、感じている。……そういうことかしら)


「リタ」


 私は静かに言った。


「あなたが何を心配しているか、正確には読めませんわよ。でも」


 私は右手を持ち上げ、手袋に包まれた指先を見た。


「私がどこへ行っても、あなたとシリルが一緒にいることは変わりませんわ。それは、第一章からずっとそうだった。これからもそうですわよ」


 リタが少しだけ、目を伏せた。


 次に顔を上げた時には、また無表情に戻っていた。でも、その無表情は、少し前より落ち着いた種類の無表情だった。


 チャキッ、と音がした。


 今夜の音は、短く、きれいだった。


「よろしいですわ」


 私はそれだけ言った。


 リタが一礼して、扉へ向かった。


 扉を閉める直前に、一度だけ振り返った。振り返って、何も言わずに出ていった。


 私は書斎に一人残った。


 右手を少し下げ、手袋の白さを窓の外の夜と見比べた。


(リタは、私の手の方向を指した。……手袋の下を心配しているのではなく、私が霧の港で手袋を外すような状況になることを、心配しているのかもしれませんわ)


 扇子を手に取った。開いた。


 一度だけ、ゆっくりと動かした。


(焼かなければならない時は焼く。焼かなくていい時は焼かない。……それを間違えないでいることが、私の美学ですわよ。リタ)


   * * *


 夜のダイニングは、今夜も三人だった。


 クレア、シリル、ライス。


 リタは廊下に控えている。昨夜から変わらない配置だ。


 テーブルの上に、シリルが用意したものが並んでいた。


 今夜のティータイムは、出発前夜ということで、少し趣が違った。


 まず、小さなガラスの器に、金色の液体が注がれている。岩茶ではなく、蜂蜜酒に近い色合いだが、匂いは花の香りだ。


「これは?」


「フォルク村の近隣で作られる、花蜜茶です。ライス様のお勧めで、今回は旅立ちの前夜に飲む茶として用意しました」


「旅立ちの前夜に?」


「フォル・ネビュラの近辺では、長い旅に出る前の夜に、この茶を飲む習慣があります。……甘い夜を過ごすと、翌朝の覚悟が決まる、という言い伝えで」


「甘い夜」


「港の人間は、縁起を担ぐことが好きですので」


 ライスが淡々と言った。


「海は予測できないから、ですか」


「汚水管も、予測できません」


「同じですわね」


 私は花蜜茶のガラスの器を手に取った。


 一口飲む。


 甘い。岩茶の渋みとは正反対の、真っすぐな甘さだ。でも、後味に少しだけ、花の芯の苦みが残る。


「甘い中に、苦みがありますわね」


「花の苦みです。……甘いだけでは、翌朝に覚悟が決まらない、ということかもしれません」


「哲学的ですわよ、ライス様」


「港の縁起担ぎは、大抵そういうものです」


 テーブルには、花蜜茶の他に、薄いクレープに塩漬け魚を巻いたものが並んでいる。フォル・ネビュラの近辺の旅装食を、シリルが再現したものだ。それから、乾燥させた小さな果物が小皿に。


「果物は?」


「港町の市場で手に入る、干したルーネの実です。甘酸っぱく、長旅でも傷まない保存食です。現地では旅人が携帯します」


「これも持参しますか」


「道中の口寂しい時に。……小袋に分けてあります」


「気が利きますわ」


「ありがとうございます」


 私は薄いクレープを一口食べた。塩漬け魚の塩気と、クレープの薄さが合わさると、思ったより食べやすい。昨日の塩漬け魚単体より、ずっと口に合う。


(組み合わせることで、単体より食べやすくなる。……情報も、人員も、同じことですわね)


「シリル」


「はい」


「明日の出発後、屋敷の管理は誰が?」


「頭の使用人のジルが取りまとめます。スラッジ書記官一家の保護については、ジルに直接指示を渡してあります。警護の二名は屋敷常駐です」


「フロード補佐官との連絡経路は?」


「書記局を経由する通常の便と、万が一の際には特命の緊急経路を使います。屋敷からの発信権限は、不在中もジルに委任しています」


「陛下への定期報告は?」


「フォル・ネビュラからは、五日ごとを目途に。使者は港の正規の便と、別の経路で二系統用意します」


「抜かりがありませんわね」


「出発前夜に不備を言われるのは、掃除人として失格ですので」


「あなたも掃除人ですの?」


「事後処理担当の、補助的な掃除人でございます」


 ライスが少しだけ笑った。今夜はっきりと分かる笑い方だ。


「補助的な掃除人が、随分と先を読んでいますね」


「ゴミは、見えない場所から出てきますから。先を読むことと、掃除の準備は同じことです」


「なるほど」


 ライスが自分の花蜜茶を一口飲んだ。


 少しの間、全員が黙った。


 夜の屋敷が静かだ。スラッジ書記官一家のいる客間の方から、低い話し声が聞こえる。家族の声だ。


 私はその声を、ダイニングで受け取った。


(この屋敷に、人の声が増えたのは、いつからかしら。シリルとリタだけだった頃は、夜はもっと静かだった)


「ライス様」


「はい」


「フォル・ネビュラの漁師の方に、会いに来たという連絡は入れましたか」


「手紙を出しました。……着いているかどうかは分かりませんが」


「読んでいればよいのですが」


「読んでいれば、待っていてくれると思います」


 ライスが器を両手で持ったまま言った。


「俺が十五年前にフォル・ネビュラを離れた時、その漁師は港の外れで網を繕っていた。……別れを言う時間もなかった」


「急いで離れなければならなかったのですか」


「はい。……Dの側に動きがあって、俺が港にいることが危なくなった。一晩で荷物をまとめて出た。……その後は、陛下の側で別の形で動いていましたので、港へ戻る機会がなかった」


「漁師はそれを知っていますか」


「知りません。……翌朝になっていなくなっていた、ということしか」


(十五年分の、説明のない不在。……それを、手紙一枚で補えるかどうか)


「それでも、手紙を出しましたわね」


「説明もできないのに、いきなり会いに行くより、先に連絡を入れた方がいいと思いましたので」


「正しい判断ですわよ」


 私は花蜜茶を最後の一口飲んだ。


 甘さが最初に来て、花の芯の苦みが最後に残る。


 でも、今度は苦みの後に、また少しだけ甘さが戻ってくる気がした。


(三口目で、ようやく全部分かりますわね)


「シリル」


「はい」


「明日の朝食は、早めに用意してくださいな。五時半には食べ終わりたいですわよ」


「承知しました。……軽めのものを用意します」


「よろしいですわ」


 私はリタの方へ声をかけた。


「リタ、今夜は早く休みなさいな」


 廊下から、短い音がした。今夜は素直な返答の音だった。


「ライス様も」


「分かりました」


 ライスが立ち上がり、短く一礼した。


 シリルがテーブルを片付け始めた。


 私は最後に、干したルーネの実を一粒だけ口に入れた。


 甘酸っぱい。歯でかみ砕くと、中から少しだけ、遠い果物の香りがした。知らない場所の香りだ。


(知らない場所の香りが、口の中にある。……明日には、その場所の空気を、直接嗅ぎに行きますわよ)


 私は椅子を立ち、窓の外を見た。


 王都の夜が静かに広がっている。明日の朝、出発すれば、この窓からの景色はしばらく見ない。


(第一章が終わった。……ゴミ箱は、まだ満杯ではない。でも、汚水管の元栓がどこにあるか、少しずつ見えてきた)


 私は扇子をパチンと閉じた。


 音が、夜の静かなダイニングに短く響いた。


(霧の港へ行く。澱を分別する。Dの名前を、地図の空白の箱に書き込む)


 それだけが、明日からの仕事だ。


 私は書斎へ戻りながら、廊下で一度だけ立ち止まり、右手の手袋の白さを確かめた。


(きれいですわ。……今はまだ)


 確かめて、また歩いた。

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