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第12話:マールスの染み、もう一度の拭き取り

 翌朝、マールス上席侍従が意識を取り戻したという報せが届いたのは、私がまだ朝食のティーカップを持っている時だった。


 シリルが報せの封書を持ってきた時、私はカップを置かなかった。


 一口飲んでから、封書を受け取った。


(急かされてするおそうじは、雑になりますわ)


「意識の回復は確認済み。医官の見立てでは、今日の午前中には話が聞けるとのことですわね」


「はい。ただし、陛下の近衛が先に事情聴取を行う手順になっています。クレア様がマールス侍従に直接お話しを聞けるとすれば、午後からになるかと」


「それで構いませんわよ」


 私は封書をシリルに返した。


「午前中で、何を整えておくべきか考えてみましょう。マールス侍従から話を聞く前に、こちらが何を確認したいかを整理しておかないと」


「お嬢様が直接訪ねるおつもりですか」


「近衛の事情聴取が終わった後なら、陛下の許可は取れますわね。……あの方に聞かなければならないことが、三つありますわよ」


「三つ?」


「一つ目。Dという人物に、いつ、どのような形で最初に接触されたか。二つ目。昨夜の地下収蔵庫に連れ込まれるまでの経緯。三つ目」


 私はティーカップをソーサーに戻した。


「Mという頭文字の人物に、心当たりがあるかどうか」


 シリルが少し目を細めた。


「スラッジ書記官が証言の中で言及していたMですね。帳簿の二冊目に記録があると」


「ナジュミ・カスミ弁護士と同一人物の可能性を検討していますわよ。……でも、それはまだ推測の段階ですもの。マールス侍従の証言で、もう少し輪郭がはっきりするかもしれない」


「なるほど」


「準備してくださいな。午後に王城へ向かいますわよ」


   * * *


 午前中、ベルト・ライスが書斎に顔を出した。


 昨夜泊まった客間から、朝食を済ませてそのまま来た様子だった。旅装のままで、剣は腰にある。この屋敷では帯刀を許可している。


「おはようございます、ライス様」


「おはようございます。……昨夜のマールス侍従の件、回復したと聞きました」


「さようですわ」


 私は書斎の椅子に座り、ライスに向かいの椅子を示した。


 ライスが腰を下ろした。動きが無駄なく、静かだ。


(この人は、長いこと、見られながら動いてきた人間ですわね。観察されることに慣れている)


「今日の午後、マールス侍従に話を聞きに行きますわよ。……その前に、ライス様に少し確認しておきたいことがあります」


「どうぞ」


「マールス上席侍従のことを、以前からご存知でしたか」


 ライスが少し間を取った。計算ではなく、記憶を辿っている間だ。


「名前は知っていました。……フォル・ネビュラで、エストと仕事をしていた頃に、国内の窓口として名前が出てきたことが一度だけあります」


「一度だけ」


「はい。七年ほど前のことです。ガルベス子爵との連絡を取り次ぐ役割として、王城の誰かの名前が出た。……Mという呼称で」


 私は扇子を膝の上で転がしながら、何も言わなかった。


(ライスも、Mという呼称を知っていた。……七年前に、エストとの仕事の中で)


「Mがガルベス子爵と連絡を取り次いでいた、と?」


「エストがそう言っていました。詳しくは聞いていない。聞く立場でもなかったので」


「そのMが、マールス侍従だと思いますか」


「今となっては、そう見えます。ただし、確認はしていない」


「正直なご回答ですわね」


 私は扇子を一度だけ開いた。


「ライス様、フォル・ネビュラのエストについて、もう少し詳しく教えていただけますか。昨夜は概略だけでしたけれど」


 ライスが少し前のめりになった。椅子の背に寄りかからず、両膝に肘を置いた。話す態勢を取った人間の形だ。


「エストは、港の生まれじゃない。内陸の出身で、二十年前にフォル・ネビュラへ流れてきた。最初はカラミ商会の下働きをしていたんですが、荷物の管理の才能があった。不正な荷物の記録を正確に管理して、いつ誰に何が渡ったかを全部把握できる人間だった」


「記録の才能、ということですわね」


「ええ。ただ、才能がある分、使い方が歪んだ。カラミ商会の荷物の中身を、表の記録と別に管理することで、両側から利益を得るようになった。港に水揚げされる荷物の表と裏を、両方握っている人間ですよ」


(表と裏を両方管理する。……そういう汚れは、片方だけ取り除いても、もう片方が残りますわ)


「エストの本来の雇用主は、カラミ商会の現在の所有者ですか」


「所有者は名前だけです。実質的にはドレインの指示系統の下に動いている。……ドレインというのは、組織というより、仕組みに近い」


「仕組み?」


「人ではなく、流れの名前です。汚水が流れる管の名前。管の中に人がいるんじゃなくて、管の構造そのものがドレインと呼ばれている。だから、一部を塞いでも、別のルートを作れる」


 私は扇子を止めた。


(排水管の構造そのものが、ドレイン。……人を処理しても、仕組みが残れば汚水はまた流れてくる。それは)


「ポイッツェン伯爵の施設を焼却しても、ドレインが残っていた理由ですわ」


「そういうことです」


「では、Dという人物は」


「管の設計者か、それとも管を所有している者か。……どちらかだと思います。エストは『上の方からの指示』と言うだけで、名前は知らなかった」


「七年前の時点で、Dの名前はエストも知らなかった?」


「少なくとも私には言わなかった。……ただ、エストの動き方が、フォル・ネビュラの地元の商人とは明らかに違った。もっと遠い場所の指示を受けているような、そういう動きでした」


「遠い場所というのは」


「この国ではないかもしれない、ということです。……確認はしていません」


 私は扇子をゆっくりと開いた。


(Dは、国内の人間ではない可能性がある。ガルベス子爵を経由して国内に汚水を流し込んでいたが、発生源は隣国、あるいはさらに遠い場所にある可能性)


「シリル」


 シリルが控えの位置から前に出た。


「フォル・ネビュラと、その周辺の主要な商業圏について、資料はありますか」


「第2章の準備として、昨夜のうちに引き出しております。書架の第三段に」


「後で確認しますわよ。……ライス様、もう一点だけ」


「どうぞ」


「フォル・ネビュラへ行った場合、カラミ商会に近づく最も自然な方法は何ですか」


 ライスが少し考えた。


「港の商人として入るのが一番自然です。……カラミ商会は表向きは海産物の問屋なので、買い付けの商人が来ても不自然ではない。ただし」


「ただし?」


「エストは顔を見れば分かります。私の顔も、向こうは知っている。私が直接近づけば、気づかれる」


「つまり、あなたは表の窓口として使えない」


「そういうことです。……ただ、裏の経路は知っています。エストが使っているルートの、少なくとも三つは」


「裏から入る方が、確認できるものが多いですわね」


「はい。ただし、危険も多い」


「危険の評価は、リタに任せますわよ」


 廊下からチャキッと音がした。


 ライスが少し視線を廊下に向けた。


「あのメイドは、普通じゃないですね」


「よく気づきましたわ」


「昨夜、地下収蔵庫の三名を処理する前に、私が場所を確認しようとしたら、もう確認し終わっていた。……それで分かりました」


「リタは、優秀なおそうじの道具ですわよ」


「道具、か」


 ライスが小さく呟いた。昨夜と同じ言葉への反応だ。ただし今朝は、反発ではなく、何かを考えている様子だった。


「俺も、長いこと道具として動いてきたので」


「国王陛下の道具として?」


「それより前から」


 ライスがそれ以上言わなかった。


 私も聞かなかった。


(言えない部分があるのは、誰でも同じですわ。今は、言える部分だけを確認すれば十分)


「では、午後の準備を進めましょう。シリルが王城への連絡を取り次ぎますので、一時間後には出発できるようにしておいてくださいな」


 ライスが頷いた。


「俺も行きますか?」


「マールス侍従との面会には同行していただかなくて結構ですわ。……ただ、屋敷で待機していてください。戻ってから、また話を聞きたいことが出てくるかもしれませんもの」


「承知しました」


 ライスが立ち上がり、書斎を出た。


 その背中を一瞬だけ目で追ってから、私は書架の資料に向かった。


   * * *


 王城の療養室は、窓から中庭が見える小さな部屋だった。


 医官が「あまり長時間は」と言ったので、私は椅子を持ち込まずに立ったまま入った。リタは扉の外。シリルは廊下で待機。


 マールス上席侍従は、白い寝台の上で半身を起こしていた。


 年齢は五十を越えたあたりだろう。顔色がまだ悪い。ただ、目は開いている。その目が私を見て、わずかに揺れた。


「クレア・ヴィクトリア様で、いらっしゃいますね」


「さようですわ」


 私は静かに言った。


「昨夜の件、お力添えできてよかったですわよ」


「……私を助けた理由を、聞いていいですか」


「情報を持っている方でしたから」


 正直に言った。


(お礼を言われると期待していたなら、この回答は冷たく聞こえたかもしれませんわね。でも、甘い言葉で包む理由もありませんわ)


 マールス侍従が少しの間、私を見た。それから、苦そうな笑みを顔に浮かべた。


「正直な方ですね」


「物事には、正確な名前をつけた方が、処理しやすいですもの」


「……そうですか」


 侍従の手が、寝台の上の白いシーツを少し握った。


「私は、Dの情報を持っています。……昨夜の地下に連れ込まれる前に、私は自分で手紙を書きました。あなたのところへ届くように」


「受け取りましたわよ。謁見室の控えにいた者に聞け、とありました」


「それが、私でした。……昨夜、マールスを切り捨てよと指示が来た時、私はまだ王城の中にいた。指示を受けた側の人間が私のすぐ近くにいた。だから、自分でも分かっていた。今夜中に動かなければ、明日はない、と」


 侍従が天井を少し見た。


「手紙を書いた後、自分で逃げようとしましたが、地下に誘導されました。……騙されたのか、罠だったのかは分からない。ただ、あなたの方から助けが来た」


「昨夜はそういう段取りでしたわよ」


「はい。……ですから、今日、話せることは全て話します」


 私は少し間を置いた。


(使い終わった道具が、最後に自分で手紙を書いた。……切り捨てられる前に、自分がゴミ箱の外へ何かを放り出しておいた。それは、道具としての判断ではなく、人としての判断ですわ)


「三つ、聞いてもよろしいですか」


「どうぞ」


「一つ目。Dという人物に、最初にどのような形で接触されましたか」


 マールス侍従が、ゆっくりと答え始めた。


   * * *


 マールス上席侍従の話は、二十分ほど続いた。


 八年前のこと。


 侍従の次男が、賭博の借金を抱えていた。そこへ現れた仲介者が、借金を肩代わりする代わりに「小さな頼み事」を持ちかけた。


 最初は小さかった。王城の来客記録の一部を確認すること。それだけだ。次第に大きくなっていった。予算審議の日程、国王の外出予定、特定の書記官の業務内容。


「仲介者の名前は?」


「……Nという呼び方をしていました」


 私は扇子を閉じたまま持ち続けた。


(N。……ナジュミ・カスミ弁護士のNか。あるいは、別の誰かのNか)


「その仲介者の風貌は」


「五十前後の男性でした。弁護士のような話し方をする人間で、書類の扱いに慣れていた。一度だけ顔を合わせて、後は全て書面でのやり取りでした」


「カスミという名前に心当たりは?」


 マールス侍従が目を細めた。


「……聞いたことがあります。ガルベス子爵の顧問だと、どこかで」


「直接の接点は?」


「ありません。ただ、仲介者の使う封蝋の形と、一度だけ王城の廊下で目にしたカスミ弁護士の書状の封蝋が、同じ形をしていた気がします。……記憶の話なので、確かではない」


(記憶の話。……証拠としては弱いですわね。ただ、輪郭の一部が、また少し鮮明になりましたわ)


「二つ目。昨夜、地下へ誘導されるまでの経緯を教えてください」


 マールス侍従が息を一つ吐いた。


「謁見の後、王城の食堂で夕食を取りました。その後、自室に戻ろうとした時に、廊下で王城の使用人が声をかけてきた。……陛下からのご伝言があるので、こちらへ、と」


「その使用人は?」


「見覚えのない顔でした。正規の王城使用人の制服を着ていましたが、後から確認したところ、そういう人物の登録がなかったとのことです」


「潜り込んだ人員ですわね」


「はい。……廊下を案内される途中で、違和感を覚えました。ただ、その時には既に旧記録室の近くまで来ていた」


「飲み物を渡されましたか」


「途中で、喉が渇いたでしょうと水を渡されました。……それを飲んでから、記憶が曖昧になっています」


 私はその情報を静かに受け取った。


(水に混ぜた。使用人に変装した人員を使った。……Dは、王城の内部の動きに非常に精通している。単なる外部の組織が一朝一夕にできることではありませんわ)


「三つ目。Mという頭文字に心当たりはありますか。……先ほどのNとは別の人物です」


 マールス侍従が少し考えた。


「Mは、Nよりも上位の人物だと聞いたことがあります。……書面に一度だけ登場した言葉です。Nへの指示書の写しが、間違えて私への封書に入っていたことがあって。それにMからNへの一文が書かれていた」


「その内容は?」


「マールスの件は、確認が取れた段階で処分せよ、と」


 部屋が静かになった。


(自分の処分指示が、誤って自分のところへ届いた。……それがこの方の、この場所への道筋の一つだったのかもしれませんわ)


「……その書面は今もありますか」


「自室の引き出しに、ずっと持っていました。証拠として。……何かあった時のために」


「今も自室にありますか」


「はい。引き出しの鍵は、私の上着のポケットの中に」


 私はシリルへ目配せした。


 シリルが静かに廊下へ出た。


「マールス侍従」


「はい」


「よく、持ち続けていましたわね」


 私は静かに言った。


 それは労いのつもりではなかった。ただ、事実の確認として言った。


 でも侍従は、少し目を伏せた。


「捨てることもできなかったのです。……Dの側が怖くて捨てられなかったのか、いつか使うつもりで持っていたのか、自分でも分かりませんでした。ただ、その紙だけが、私が証人であるという証拠でしたから」


(証拠。……染みがついてしまった布地を、捨てることも洗うこともできずに持ち続けた。その染みが、今日、使えるものになるかもしれない)


「今日から、その紙はこちらで保全しますわよ。適切な場所で、適切な使い方をします。……ご安心くださいな」


「……ありがとうございます」


 今度こそ、その言葉はそのまま受け取られたようだった。


 私は扉の方へ歩きかけ、少し止まった。


「最後に、一つだけ」


「何でしょう」


「次男さんの借金は、今はどうなっていますか」


 マールス侍従が少し驚いた顔をした。


「……三年前に、自分で完済しました。別の仕事を掛け持ちして」


「そうですか」


 私はそれだけ言って、扉へ向かった。


(借金が返ってからも、関係を切れなかった。……切り方を知らなかったのか、知っていたが切れなかったのか。後者ですわね、おそらく。道具として使われることに、慣れてしまっていたのでしょう)


 扉を出た廊下で、シリルが待っていた。


「マールス侍従の自室の件、近衛を通じて確認が取れ次第、鍵を回収します」


「お願いしますわよ」


 私は廊下を歩きながら言った。


「シリル、Mという頭文字について」


「はい」


「マールス侍従は、NへのMからの指示書の写しを持っている。……そのMが、スラッジ書記官の証言で言及された帳簿のMと同一人物なら、Nとスラッジ書記官を両方動かしていたMの存在が、物証で繋がりますわ」


「つまり、MはNよりも上位にいて、Dよりも下位にいる、ということになります。……ドレインの階層構造として」


「D→M→N→実行部隊、という流れですわね」


 シリルが少しだけ眉を上げた。


「整理すると、D(頂点・正体不明)。M(二段目・ナジュミ・カスミ弁護士の可能性)。N(三段目・マールスへの仲介者・カスミ弁護士との関連あり)。ガルベス子爵とマールス侍従は、同じNを通じて動かされていた並列の実行部隊」


「エストは、N経由ではなくM経由で動いていた可能性がありますわ。フォル・ネビュラは、Mが直接管理していた、ということかもしれない」


「なるほど。国内はNを経由して管理し、国外はMが直接、という分業体制」


「ただし、これはまだ推測の段階ですわよ」


 私は廊下の窓から中庭を一瞥した。秋の光が庭石を白く照らしている。


「物証が揃うまでは、仮説として持っておくだけですわ。……今日、マールス侍従の自室から書面が回収できれば、また一歩進みますわね」


「そのタイミングで、陛下へのご報告も」


「ええ。……これが、第一章の最後の報告になりますわよ」


   * * *


 マールス侍従の自室からの書面回収は、午後遅くに完了した。


 近衛が引き出しを確認し、鍵で開いた引き出しの中に、折り畳まれた古い紙が一枚あった。


 王城の書記室へ持ち込み、シリルが内容を確認した。


 私は隣で、その内容を読んだ。


   *Nへ。マールスの件は、ガルベス線が安定した段階で切るように。記録は焼却。本人は港の外。――M*


 私はその短い文章を、三度読んだ。


(「港の外」。……フォル・ネビュラへ、ということかしら。マールス侍従を切った後、港の外へ不法投棄するつもりだった。昨夜の地下収蔵庫は、一時的な保管場所に過ぎなかった、ということですわ)


「シリル、筆跡の分析は?」


「今から専門の文書鑑定官に依頼します。王城に一名いますので、今日中に初見の所見は出ます」


「スラッジ書記官の証言で言及されていた帳簿のMへの書き込みと、この書面の筆跡を照合できますか」


「帳簿のMの記述は、スラッジ書記官自身の記録ですので、直接比較はできません。ただ、M由来の書面がこれで初めて手元に入ったことになります。……今後、別のM書面が出た場合の照合基準として機能します」


「では今日は、照合の基準を確立する、ということですわね」


「はい」


 私は書面を静かに封書に戻した。


「これを、今日の報告書に添付して陛下へ。……第一章の、本当に最後の報告になりますわよ」


「かしこまりました」


 シリルが書面を受け取り、羊皮紙と封蝋の準備に移った。


 私は書記室の窓から外を見た。


 秋の王都が、夕暮れに色を変えていく。橙色の光が石畳を長く伸びた影で割り、広場を歩く人々の輪郭を際立たせている。


(国内の汚れは、整理できた。ガルベス子爵という詰まりは取り除いた。スラッジ書記官という証言は確保した。マールス侍従という不法投棄は阻止した。カスミ弁護士という霞は、自分で凝結した。モモ・ダスト嬢の封蝋は、陛下の手に渡っている)


 右手の手袋を、左手でそっと押さえた。


(残るのは、地図の右端の空白の箱。Dの名前。……それは、霧の港へ行かなければ分からない)


「お嬢様」


 シリルが声をかけた。


「報告書の宛名を書く前に、一点確認を。……陛下へのご報告の中に、フォル・ネビュラへの出発予定を入れますか」


「入れますわよ。マールス侍従の証言と書面が揃った以上、第一章の仕事は実質完了ですわ。……次の仕事の準備を進める旨を伝えてください」


「出発は?」


「三日後を目途に、と」


「リタとライス様の準備も、三日あれば整います」


「あなたの準備は?」


「既に九割方」


「……相変わらずですわね」


「お褒めの言葉として受け取ります」


「褒めていませんわよ」


 私はため息の代わりに、扇子を開いた。


 秋の夕暮れの中で、その扇子がゆっくりと動いた。


   * * *


 屋敷に戻ると、玄関でスラッジ書記官の娘のマリアと鉢合わせた。


 廊下を歩いていたらしく、私の姿を見て立ち止まった。


「クレア様」


「どうぞ、気にしないでくださいな」


 私はそう言って通り過ぎようとした。


「あの」


 マリアが小さな声で続けた。


「昨夜のダイニングの花瓶、勝手にしてしまって、ごめんなさい」


 私は少し足を止めた。


「構いませんわよ。……きれいな花でしたわ」


「ほんとう、ですか」


「私は嘘をつかない習慣ですから」


 マリアが少し安心したような顔をした。それから、また何か言いかけて、止めた。


「何ですか」


「……ここは、怖くないところですか」


 私はその問いを、少しの間受け取った。


(怖くないところか。……私の屋敷に来ておいて、怖くないかと聞いているということは、この子は今の状況をそれなりに正確に理解しているのですわ)


「安全ですわよ」


 私は答えた。


「完全に怖くないかどうかは、保証できませんわ。でも、あなたとお父様を、不必要な汚れから守ることはできますわよ」


「不必要な、汚れ」


「必要な汚れというのもありますわ。……例えば、お父様が証言をするということは、少し泥を被ることになるかもしれない。でも、それは後から洗えますわよ」


 マリアがしばらく私を見た。


「分かりました」


「よろしいですわ」


 私は廊下を進んだ。


 背後でマリアが、小さな足音を立てて客間の方へ戻っていく音がした。


(洗えると言いましたわ。……実際に洗えるかどうかは、こちらの仕事次第ですわね)


 右手の手袋の端を、左手の指先が少しだけ触れた。


 廊下の突き当たりで、私は一度だけ止まった。


(この手袋の下の手が、どれだけ白いかは、私には分からない。……ただ、今日のおそうじは、焼くことではなく、阻止することと、回収することだった。それは確かですわ)


 止まった場所から、また歩き始めた。


 書斎でシリルが待っている。ライスが情報を持っている。リタが廊下に控えている。三日後に、霧の港へ行く。


(第一章が終わる。……第二章が始まりますわよ)


   * * *


 夜のダイニングに、シリルとライスと私が集まった。


 リタは今夜も廊下に控えている。マールス侍従の件で動いた翌日なので、休んでよいと言ったが、今夜は首を縦に振らなかった。


 テーブルの上に、シリルが用意したものが並んでいた。


 まず、白い陶器の小さなポットが二つ。一つには私が知っている王都の茶葉。もう一つには、見慣れない深緑色の茶葉が入っている。


「これは?」


「フォル・ネビュラの市場でしか取れない、岩茶というものだそうです。ライス様が、出発前に慣れておいた方がいいと」


 ライスが頷いた。


「港の商人が好む茶です。現地で出された時に戸惑わなくなります」


「実用的な心遣いですわね」


 私は岩茶のポットに手を伸ばした。


 湯を少し足して、ゆっくりと回した。蓋を開けると、深い土の香りと、それからかすかに磯の気配がした。


「……海の香りがしますわね」


「岩に染み込んだ塩気が、茶葉に移ると言われています」


「なるほど。港で飲む茶ですわね」


 カップに注いだ。深い琥珀色の液体が、小さな白いカップに満ちた。


 一口飲む。


 渋みが強く、後からゆっくりと深い甘さが来る。喉の奥に残る感じは、王都の茶葉とは全く違う。もっと、地面の奥にあるものの味がする。


「苦いですわね」


「霧の港の空気が、大体そういう感じです」


 ライスが自分のカップを両手で持ちながら言った。


(空気が苦い。……霧の中に入れば、最初はそういうものですわ)


「慣れれば、悪くない味ですか?」


「慣れれば」


「昨日の野草茶も、そう言いましたわ」


「フォル・ネビュラの近くのものは、大体最初は苦いんです。……でも、後から来るものが違う」


 私はカップを置き、シリルが用意した皿を見た。


 焼いた根菜のスープ。それから、薄切りの塩漬け魚が小皿に並んでいる。その横に、固い白いパン。


「塩漬け魚は、フォル・ネビュラで一般的な食材です。港では、この形で保存します」


「シリルが用意したのですか?」


「隣国の食材を扱う商会に、今週頼んでおきました。出発前に、少しずつ慣れていただくために」


「……本当に、先の手を打ちますわね」


「お嬢様が苦手な食材で現地で箸が止まると、目立ちますので」


「それは確かですわよ」


 私は塩漬け魚を一口食べた。


 塩辛さが先に来て、それから魚の旨味が広がる。強い味だが、食べ慣れれば主食になる感覚は分かる。岩茶と合わせると、塩気が茶の渋みで流れて、後味がすっきりした。


「……合わせると悪くないですわね」


「現地では、一緒に出すことが多いです」


「なるほど。バランスで成り立っている」


 私はパンを一口かじった。硬い。歯ごたえが強い。でも、慣れれば腹持ちがよさそうだ。


(現地の食事に慣れておく。……これもおそうじの準備の一部ですわ。道具の準備だけでなく、自分の準備も必要ですもの)


「シリル、三日後の出発の段取りを確認しますわよ」


「はい」


「まず、スラッジ書記官一家の処遇。……ご本人の証言は完了していますが、フォル・ネビュラから帰るまでは、屋敷で保護を続けますか」


「はい。書記官のご証言は陛下の記録に入りましたが、裁判の公判まではまだ時間がかかります。その間の身の安全を確保するため、こちらで保護継続が適切かと」


「了解しましたわ。……使用人への指示は、私が出発した後も通常通りの警護を、ということでよろしいですか」


「既に手配しております。屋敷の警護は、出発後も二名体制で継続します」


「次、ライス様」


 私はライスを見た。


「フォル・ネビュラへ入る際の名義について、確認しておきたいのですが」


「俺は本名は使えません。……エストに顔が割れているので」


「偽名の用意は?」


「ベルト・ランという名前を使っています。フォル・ネビュラでは、過去に何度か使った名前なので、不自然ではない」


「私とシリルとリタは?」


「三名でフォル・ネビュラに入るなら、商人の一行として入るのが自然です。貴族の装いでは目立ちます」


「商人の扮装ですわね」


「はい。布地か薬草か、何かの買い付けで来た、という設定が港では通りやすい」


「布地は、ラフス織物商会との関係もあって少し引っかかりますわね」


「薬草の方が無難です。港の近辺では、隣国産の薬草の需要が高いので、買い付け商人はよく来ます」


「シリル、薬草商の設定で必要な書類の準備は?」


「三日あれば整います」


「ではそれで」


 ライスが少しだけ前のめりになった。


「一点、申し上げてもいいですか」


「どうぞ」


「フォル・ネビュラへ入る前に、近郊の村に一泊することをお勧めします。港の空気を先に感じておくことと、情報収集のためです。……俺が顔を知っている者が、村にいますので」


「どのような方ですか」


「十五年前から知っている漁師です。港の外れで暮らしていますが、カラミ商会の船の動きをよく見ています。ただ、関わりたがらない。……ただ、信頼できます」


(昨夜の謁見でライスが言った漁師一家のことかもしれませんわ)


「その方に会うことで、カラミ商会の最近の動向が分かりますか?」


「話してくれれば、ですが。……俺が会いに行けば、少しは話してくれると思います」


「分かりましたわ。一泊の件、予定に入れておいてください」


「承知しました」


 私は岩茶をもう一口飲んだ。


 苦みは最初より少し馴染んできた気がした。後からくる甘さが、今度は最初から少し分かった。


(慣れる、ということは、最初の苦みに気づかなくなることではなく、後から来るものが分かるようになることですわ)


「シリル」


「はい」


「水路の地図を、明日もう一度整理してください。フォル・ネビュラへ持参できる形に、情報を整えておきたいですわ」


「縮小版を作ります。持ち歩けるサイズに」


「お願いしますわ。……Dの空白の箱は、向こうで埋めてきますわよ」


「ご武運を」


「おそうじに運は不要ですわよ」


「では、ご用意を」


「それで結構ですわ」


 ライスが、少し笑ったように見えた。先ほどと同じ、口元がわずかに動いただけの表情だ。


「何ですか?」


「いや……掃除人というのは、初めて一緒に仕事をする人種なので」


「どんな人種だと思っていましたか」


「もっと無口で、暗い仕事をすると思っていました」


「暗い仕事ですわよ」


 私はさらりと言った。


「ただ、暗い仕事をする人間まで暗くなる必要はありませんわ。……それでは、作業効率が落ちますもの」


 ライスが今度は確かに、小さく笑った。口元だけではなく、目の端が少し動いた。


「なるほど」


「フォル・ネビュラで、よろしくお願いしますわよ」


「こちらこそ」


 私は岩茶の最後の一口を飲んだ。


 渋みと甘さが、今夜初めてちょうどよく混ざった気がした。


 塩漬け魚のわずかな後味と、固いパンの歯ごたえと、岩茶の深い温かさ。


 それは、まだ見ぬ港の空気を、ほんの少しだけ先取りしたような食事だった。


(三日後に、窓を開けますわよ。霧の港の空気を、今度は直接、嗅ぎに行く)


 私はカップを置いた。


 扇子を膝の上で静かに開き、一度だけ動かした。


 夜のダイニングに、小さな風が生まれた。


 それは行き先を知っている風だった。

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