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第11話:謁見室の埃と、分別の作法

 ――フォル・ネビュラへの出立前日、王都にて。


 翌朝、午前十時。


 馬車が王城の正門をくぐる少し前から、私は窓の外を見ていた。


 秋の王都は、いつも通りだった。市場に人が集まり、子どもが路地を駆けて、馬車が石畳の上を走る。国内の主要な汚れが片付きつつあることなど、この街は何も知らない。


(それでいいのですわ。おそうじの痕跡が見えるようでは、まだ仕事が足りていないということですもの)


 シリルが報告書の入った革鞄を両手で持ち、私の向かいに座っている。リタは私の隣。昨夜は命令通り早めに休んだのだろう、目の下の翳りが少し薄くなっていた。


「シリル、謁見室の警護の顔ぶれは確認できましたか」


「昨夜のうちに。近衛の第三隊が担当です。隊長はバルジ近衛大尉、十二年のベテランで、ガルベス子爵との接点は記録にございません」


「第三隊の他は?」


「謁見室に接続する廊下側に、第一隊から二名。こちらも記録に問題なし」


「随分と確認したのですね」


「昨夜の最終確認の後、少々」


 シリルが完璧な笑顔で言った。


「リタがお休みでしたので、私が少し動いておきました」


(一睡もしていないのではないかしら。まあ、この人には何を言っても無駄ですわね)


 私は窓の外に視線を戻した。


「謁見室に、Dの影はないと?」


「現状の確認範囲では。ただし、陛下の側近に一名、六年前からの記録に不自然な空白がある人物がいます」


「名前は」


「マールス上席侍従です」


 私は扇子を取り出した。開かずに手の中で転がした。


(マールス上席侍従。……マールスの頭文字はM。だが、それだけで断定するのは早計ですわ)


「確認済みの脅威ではないが、注意人物、ということですわね」


「はい。今日の謁見に限れば、問題ないと判断しています。ただし」


「ただし?」


「報告書の内容が漏れた場合、Dの側が動く時間は、謁見の後です。……謁見室の中より、謁見が終わった後の方が警戒が必要かと」


「なるほど。帰り道ですか」


「帰り道と、屋敷に戻った後の数時間。……報告書の内容が国王陛下の手に渡ったことが確定した瞬間、Dにとってガルベス子爵は切り捨て可能な汚れになる」


「ゴミ袋を縛った後は、早く捨てた方がいい、という理屈ですわね」


「ご明察です」


 私は扇子を静かに開いた。


「では帰り道は、少しルートを変えますわよ。シリル、三通りほど想定しておいてください」


「既に。馬車はその三通りを走れる準備があります」


「……あなたはいつ寝るのかしら」


「掃除が終わってから、存分に」


 私はそれ以上聞かなかった。


   * * *


 謁見室は、想定より静かだった。


 国王陛下は玉座に座し、右側に侍従が二名、左側に書記が一名。警護の近衛は扉の内外に各二名。


 私は礼をして顔を上げた。


 国王の顔を久しぶりに正面から見た。


 第一章の最初、婚約破棄の場では「蒼白になって止めに入った」顔だった。今日は違う。どちらかと言えば、意を決した顔だ。老いても、王の骨格はある。


(少なくとも、今日の陛下は汚れていない。……そういう顔ですわ)


「クレア・ヴィクトリア。第四特命執行者。……久しいな」


「ご無沙汰しております、陛下」


「婚約破棄の場以来か」


「さようでございます」


「あの日は、肝が冷えた」


 国王が率直に言った。


「王子の前髪が少し焦げた時は、止める前に片付けてしまうのではないかと思ったぞ」


「陛下が止めに入らなければ、そうしていたかもしれません」


 私は静かに答えた。


「だが、それでは第一章の仕事が始まらなかった」


「そうなりますわね」


 国王が小さく笑った。笑い皺が、玉座の上の顔に刻まれた。


「まあ、いい。……報告書を」


 シリルが鞄から書類を取り出し、私がそれを受け取り、書記に手渡した。書記が国王の手に届けるまでの、静かな数秒。


 私は正面を見たまま、左の視界で侍従の位置を確認した。右の侍従は動かない。左の侍従はマールスだ。表情は平静。手は体の前で組んでいる。


(今のところ、異常なし)


 国王が報告書を開いた。


 謁見室が静かになった。


 ページをめくる音だけが、間欠的に聞こえる。


 私は立ったまま、待った。


 焦らない。書類の仕事は、読む者に時間を渡すのが礼儀ですわ。


 五分ほど経って、国王が顔を上げた。


「……ガルベスが、ドレインの国内窓口だったことを、証拠化できるのか」


「封蝋の照合と、スラッジ書記官の証言と、ラフス織物商会からの書面が揃っています。法廷での証拠として、十分に機能します」


「二冊目の帳簿は」


「はい。スラッジ書記官が証言の中で、通常の記録とは別に管理していた帳簿の存在を明かしました。本日午後中に、書類として整理を完了させます。Dという頭文字の人物の存在が記録されており、ドレインの上位指示系統である可能性が高い」


「Dの正体は」


「まだ不明です。ただし、輪郭は見えてきています」


 国王が、また少しの間、報告書の特定のページを見た。


「カラミ商会、か」


「フォル・ネビュラの港にある中間拠点と見られます。エストという中間管理者が管轄しているとのことです」


「つまり、国内の汚れは一段落したが、根っこはまだ隣国にある、ということだな」


「さようでございます」


 国王が報告書を閉じた。


「第二章の特命について、話そう」


   * * *


 国王の言葉は、想定の範囲内だった。ただし、一点だけ、想定していなかったことがあった。


「フォル・ネビュラへの出張清掃を、正式に命じる。……ただし、クレア・ヴィクトリア、一つ条件がある」


「伺いますわ」


「単独での出張は認めない」


 私は微かに眉を動かした。


「単独、とはどういう意味でしょうか。シリルもリタも」


「従者は構わない。……もう一名、同行させる」


 国王が書記に目配せをした。書記が扉に向かい、廊下側に二言三言告げた。


 少しの間があって、廊下から一名が入ってきた。


 年齢は三十前後。中背で、動きが静かだ。軍服ではなく、旅装に近い動きやすい装いをしているが、腰の剣の柄の形が、この国の様式ではない。


(……この柄の形。どこかで)


 私はすぐに思い当たった。


 スラッジ書記官が言っていた。「腰の剣の柄が、この国の様式ではなかった」。料亭でガルベス子爵と接触した旅装の男。第5話でリタが暗号文を回収した、あの男。第8話でシリルと「やはり、繋がっていますわね」と確認した、あの人物が、今この謁見室に立っている。


(……ここで出てきましたわね)


 シリルの気配が、私の斜め後ろでわずかに固まった。


 同じ結論に至ったのだろう。


「フォル・ネビュラの港の事情に精通した協力者だ」


 国王が言った。


「名はルオ・ベインド。……かつてドレインの外側で、私の側の仕事をしていた者だ」


   * * *


「ガルベス子爵と料亭で会っていましたわね」


 私は静かに言った。


 ルオ・ベインドが、少しだけ目を細めた。驚く様子はない。計算のある目だ。


「覚えていますか」


「あなたの使いの者が、封書を回収した夜ですね」


 落ち着いた声だった。抑揚が少ない。言葉を選んでいる声だ。


「あの料亭でガルベス子爵と会っていたのは、情報を渡すためです。渡したのはこちらから陛下に届けるための情報で、ガルベス子爵本人の目的には合わない内容でした」


「つまり、あなたはガルベス子爵を使って、こちらに情報を流していた」


「そういうことです」


「……なぜ、直接こちらへ来なかったのですか」


「来ていれば、ガルベス子爵の側の信頼を失う。双方の情報が取れなくなる」


 私は扇子を開いた。パチリ、と音がした。


(この男は、二重の立場で動いていた。ガルベス子爵に向けては工作員として、こちらには情報提供者として。……汚水管の中に、こちら側の目が潜んでいた、ということですわ)


「フォル・ネビュラのカラミ商会を知っていますか」


「知っています」


「エストも?」


「……会ったことがあります」


 ベインドが少しだけ間を置いた。それは、どの言葉を選ぶかを計算している間だった。嘘をついている間とは、違う。


「エストの本名はヴァルス・スラム。フォル・ネビュラの港の出身で、二十年近くドレインの中間管理者を務めています。カラミ商会はその拠点ですが、表向きは海産物の問屋です。……港の汚れというのは、表の荷物と一緒に積み込まれるものですから」


「Dの正体は」


 ベインドが、私を正面から見た。


「それは、フォル・ネビュラへ行かなければ分かりません」


「知っているが、今は言えない、ということ?」


「知っている部分は言います。……ただし、現地で確認しなければ、私が持っている情報が今も有効かどうか、分からない。情報というのは、時間が経てば腐りますから」


(腐る、と言いましたわね。……ゴミの用語を使う人間は、信用できるかどうかとは別として、少なくとも事情を理解している)


 私は扇子を閉じた。


「国王陛下」


 国王に向き直った。


「このルオ・ベインドを同行させることが、特命の条件ということですわね」


「そうだ。……彼の情報は、フォル・ネビュラでしか使えない。同時に、彼の身の安全は、あなたの従者では保証できないかもしれない」


「それは」


 私は少し間を置いた。


(リタがいれば、誰の身の安全も保証できますわよ。ただ、陛下がそれを言いたいわけではない。……同行させることで、こちらがベインドを監視できる、ということも、陛下は計算に入れているのでしょう)


「承知しましたわ」


 私は答えた。


「ただし、一つだけ確認させてください、ベインド様」


「どうぞ」


「あなたが今回の出張で守りたいものは何ですか」


 謁見室が静かになった。


 ベインドは少しの間、私を見た。感情を量っているのか、答えを探しているのか、判断できなかった。


「……フォル・ネビュラの港に、私が長年知っている漁師一家がいます。港が汚れているせいで、まともな商売ができなくなっている」


「それだけですか」


「それだけです」


 私は答えを、静かに受け取った。


(港の底に溜まった澱のせいで、真っ当に働いている者が煽りを受けている。……その漁師一家が本当のことかどうかは今は分からない。ただ、この男は、守りたいものを聞かれて、組織でも利権でも自分の身でもなく、名前のない一家を挙げた)


「分かりましたわ」


 私は国王に向き直った。


「第二章の特命、お受けしますわ」


   * * *


 謁見室を出た後、廊下でシリルが静かに言った。


「……予想外の変数でした」


「そうですわね」


「信用できますか」


「今の段階では、七割方」


「残りの三割は?」


「フォル・ネビュラへ行って確認しますわよ。……現地の情報が全て正確だったら、八割にします」


「厳格な採点ですね」


「お掃除の評価基準は、結果で決まりますもの」


 廊下の先で、マールス上席侍従が頭を下げながら通り過ぎた。私はその背中を、一瞬だけ目で追った。


(マールス。……今日は動かなかった。だが、報告書の内容が伝わる経路は、今夜から始まる。今夜、Dの側で何かが動くとすれば、そこからですわ)


「シリル、今夜の屋敷周辺の警戒を強化してください」


「既に。午前中のうちに手配しております」


「リタ」


 私の隣で、リタが静かに頷いた。


「今夜は、私の部屋の前に控えていてくださいな。……ただし、扉の外で結構ですわよ」


 リタがチャキッと答えた。今日の音は、低く落ち着いている。了解と、軽い緊張感が混ざった音だ。


 廊下を歩きながら、私は右手の手袋の端を、軽く指先でなぞった。


(ガルベス子爵の件は国王陛下の手に渡った。モモ・ダスト嬢の封蝋の件も。……今夜から、私の仕事は第二章の準備に移りますわ。霧の港へ行く前に、道具を整えて、地図の空白を埋めて)


「ルオ・ベインドは、どこに?」


「謁見の後、別室で待機していると聞いています。明日中に正式な同行許可書が発行されるとのことです」


「では、明日、こちらから接触しますわよ。……あの方に、もう少し話を聞かなければなりませんもの」


「何を?」


「フォル・ネビュラの港の、空気の話ですわよ」


 シリルが少し首を傾けた。


「空気、ですか」


「どんな場所でも、最初に現場を歩かなければどこが汚れているか分からない、と誰かが言いましたわね。……ベインドは、その現場を歩いてきた人間ですわ」


 シリルが理解した様子で頷いた。


「現地の地図と、実際の場所の差分を、事前に埋めておく、ということですね」


「できるだけ」


 私は秋の光の差し込む廊下を歩きながら言った。


「霧の港は、霧の中に入らなければ何も見えない。でも、霧の形くらいは、事前に知っておけますもの」


   * * *


 馬車の帰り道は、シリルが用意した三通りのうちの二番目のルートを取った。


 市場の外れを抜け、川沿いに北上してから南に戻る。回り道だが、尾行が付いた場合に分断しやすい。


 リタは馬車の御者台の横に座っている。普段の帰り道とは違う位置だ。外からの視界に入れるための配置だと、聞かずに分かった。


 馬車の中で、シリルが言った。


「ベインドの件で、一点補足があります」


「聞かせて」


「謁見前に、陛下の側から私に事前資料が届いておりました。……昨夜遅くに」


 私は扇子を止めた。


「それを今言いますの」


「謁見の場でお嬢様の反応が自然であった方がよいと判断いたしました。事前に知っていれば、表情が計算されたものになる」


「……嫌な気遣いをしますわね」


「お褒めの言葉として受け取ります」


「褒めていませんわよ」


 私は扇子を再び動かした。


「資料の内容は」


「ルオ・ベインドは、フォル・ネビュラで生まれ育ち、若い頃にドレインの末端として働いていたことがあるとのことです。その後、先代の王の時代に王国側へ転じ、以来十五年、フォル・ネビュラに留まりながら国王陛下の協力者として動き続けてきた。……いわば、汚水管の内側を知りながら、外から蓋をし続けてきた元管理者、とでも申しましょうか」


「清掃員、とは言いすぎですわ」


「では、内側から汚れの流れを知っている元管理者」


「それで結構ですわ」


 私は窓の外を見た。川沿いの道を、馬車がゆっくり走っている。水面に秋の光が散っている。


(フォル・ネビュラ育ちで、ドレインの末端出身で、今は国王側の協力者。……複数の染みを持つ人間ですわ。洗っても、落ちない部分は残る。でも、落ちない染みを持っているからこそ、汚れの在り処を知っている)


「ベインドの信頼性について、陛下のご見解は?」


「資料には『現時点で最も有効な現地協力者』とのみ」


「外交的な表現ですわね」


「陛下は外交がお上手ですので」


 私は小さく笑った。


「つまり、確実に信用できるとは陛下も言えない、ということですわ」


「さようです。ただし」


「ただし?」


「ベインドが十五年間、国王側の協力者として動き続けてきた実績は、記録にあります。……汚れているかどうかとは別に、今まで裏切っていないという事実は事実です」


「汚れていても、きれいに機能する道具はありますわよ」


「ごみ収集車も、中は汚れていますから」


 私は少し顔を向けた。


「……それは良い比喩ですわ」


「ありがとうございます」


 馬車が少し速度を落とした。御者台のリタが何かを確認しているのだろう。数秒後、また速度が戻った。問題なし、の意味だ。


 私は川の水面から視線を外した。


(今夜、Dが動くかどうか。……動いたとすれば、何を捨てて何を守るかが見える。ゴミ袋を縛った後の行動で、そのゴミが何を入れていたか、大体分かりますもの)


   * * *


 屋敷に戻ったのは、夕方になる少し前だった。


 スラッジ書記官とその家族は、昨日と同じ客間にいる。使用人から、夕食の準備を手伝いたいとマリアが申し出たが、今は許可していないと聞いた。


 書斎に入ると、机の上に一通の封書が置かれていた。


 封蝋は、王城の正規の紋章ではない。ただの赤い蝋が、丸く押されているだけだ。


「これは?」


「リタが屋敷の門前で拾いました。謁見の間に、投函されたようです」


「差出人は」


「封蝋に記号はありません」


 私は封書を手に取り、開いた。


 中の紙は一枚。短い文章が書かれている。


   *ガルベスが喋った以上、このままでは管が詰まる。早急に処理が必要なゴミがある。謁見室の控えにいた者に聞け。――管理者より*


 私はその文章を、二度読んだ。


(管理者より、と書いてある。……Dからか、あるいはDの部下からか。謁見室の控えにいた者。……マールス上席侍従のことですわ)


「シリル」


「はい」


「マールス上席侍従が、今どこにいるか確認してください」


「既に動いております。……謁見の後、上席侍従は王城内の自室に戻ったとのことですが、一時間ほど前から所在が確認できていません」


「所在が確認できていない、とはどういうことですか」


「自室を出た後、王城内で見当たらない状態です」


 私は封書を机に置いた。


(マールス上席侍従が消えた。……これは、Dが処理を急いでいる証拠ですわ。ガルベスが喋った以上、マールスは次の汚れとして分別されつつある。自分が捨てられる前に逃げているのか、あるいは捨てられた後なのか)


「リタ」


 廊下から、チャキッと音がした。


「王城の方向へ。……マールス上席侍従を見つけてください。ただし、接触は不要。位置を確認したら、すぐに戻ってきてくださいな」


 チャキッ、と一拍。了解の音だ。


 足音もなく気配が遠ざかった。


「シリル、この封書の発信元を追えますか」


「紙の質と筆跡の分析に、一時間ほどいただければ。……ただし、故意に特定させないよう工夫している文書であれば、難しいかもしれません」


「工夫しているかどうかも、分析の一部ですわよ」


「承知しました」


 シリルが封書を持ち、書斎の別の机に移った。


 私は水路の地図を広げた。


(管理者より、と書いてある。……これはDそのものの言葉か、Dの下の誰かの言葉か。Dが『管理者』を名乗るとすれば、自分がドレインの上位にいることを認識している。そして今、マールスというゴミを処分しようとしている。……これは、ドレインの内部で分別が始まっている、ということですわ)


 地図の右端の、まだ名前が入っていない空白の箱を見た。


(Dは、ガルベスを失っても動じていない。むしろ、素早く次の手を打ってきた。……これは、用意周到に汚れを分別できる者の行動ですわ。計算高い。感情的ではない)


 私は扇子を開いた。


(マールス侍従を、Dは切り捨てようとしている。つまり、マールスが知っている情報が、Dにとってリスクになりつつある。……マールスをこちらで確保できれば、Dの輪郭がさらに見えてきますわ)


「シリル」


「はい、分析中です」


「分析と並行して、もう一つ。マールス上席侍従の身辺の資料を出してくださいな。家族構成、財産、王城に上がった経緯、ガルベス子爵との接触記録。……全部」


「既に引き出してあります」


 シリルが、分析の手を止めずに別の書類を示した。


 私はそれを手に取り、立ったまま読み始めた。


   * * *


 リタが戻ったのは、一時間半後だった。


 扉を開けずに、コンコンと二回叩く。帰還の合図だ。


「どうぞ」


 リタが入ってきた。手に、何も持っていない。


「マールス侍従は?」


 リタが右手の人差し指と中指を伸ばし、王城の方角を指した。次に、地面の方向を示すように手を下げた。


「王城の地下?」


 頷く。


「自分で?」


 首を横に振る。それから、リタは右手で何かを押し込むような仕草をした。


(押し込まれた。……誰かに、地下へ連れ込まれた?)


「生きていますか」


 リタが頷く。続けて、力なく体を揺らす仕草。


「意識はあるが、状態がよくない?」


 また頷く。


「助け出せましたか」


 リタが右手を広げ、少し傾けた。今すぐは難しい、という意味の仕草だ。


(王城の地下に人員が複数いて、リタ単独では動かせなかった、ということですわね)


「場所は分かりますか」


 リタが頷く。右手で、特定の形を描いた。シリルがそれを見て、素早く王城の図面を広げた。


 リタが図面の一点を指差した。


「旧記録室の地下収蔵庫の付近か」


 シリルが言った。リタが頷く。


「人員は?」


 リタが指を三本立てた。


(三名。……プロの配置ですわね。ただのゴミ処理ではない。計画的に動いている)


「シリル、国王陛下への緊急の連絡手段は?」


「特命執行者の権限で、王城の緊急書記に直達できます。深夜でも機能する経路です」


「使いますわよ。マールス侍従の身柄保護を、陛下の名で要請する。……ただし」


 私は立ち上がり、手袋を確認した。


「連絡が届いて動ける人員が集まるまで、時間がかかりますわ。マールス侍従の状態が悪ければ、待てない可能性もある」


「お嬢様が動くおつもりで?」


「私が動く、とは言いましたか?」


 シリルが少し首を傾けた。


「では、リタに?」


「リタは、場所を把握しています。単独で三名は多い」


「そうですね。人員が必要です」


 私は少し考えた。


(ルオ・ベインド。今夜、王城の別室で待機しているはずですわ。フォル・ネビュラ出身で、ドレインの内側を知っていた男。現地のゴミ処理の勝手は分かるはずですわ。……ただし、今夜これに動かせば、まだ信頼関係も確認もできていない変数を、いきなり使うことになる)


「シリル、ベインドに連絡できますか」


「王城の宿泊施設に宿を取っているはずです。経路を辿れば、三十分以内に」


「連絡を。……今夜、動いていただけるかどうか確認だけしてください」


「強制ではなく、打診として?」


「任意ですわ。……ただし、動く場合は単独でなく、リタと組んでいただく。指示系統はリタを通じてこちらから。これを条件として伝えてください」


「承知しました」


「それと、緊急書記への連絡も同時に。マールス侍従の保護要請は正式に出す。時間がかかっても、記録に残す必要があります」


「両方、今から動きます」


 シリルが書斎を出た。


 私は一人、水路の地図を眺めた。


(マールス。……記録の空白がある人物。Dとスラッジ書記官を繋いだかもしれない人物。今夜、切り捨てられようとしている。……ゴミは、使い終わったら捨てる。それがDのやり方ですわ)


 右手を持ち上げた。


 白い手袋に包まれた手が、秋の夕暮れの光の中にある。


 今夜は焼かない。焼くべき相手がいない。ただ、汚れが人を押し込もうとしている。それを止める必要がある。


(おそうじ、というのは、不法投棄の現場を片付けることも含まれますわよ)


 私は扇子を扉に向かって軽く示した。


「リタ。準備してくださいな。……ただし、リタは向こうへ行くまでは、私の傍にいてください」


 廊下から、チャキッと音がした。


 今夜の音は、弦を引き絞る前の静けさに似ていた。


   * * *


 シリルが戻ったのは、二十分後だった。


「ベインド様、了承しました」


「条件は?」


「なし、とのことです。『仕事をしに来たので』と」


 私は扇子を開いた。


(条件なし。……迷わず、と)


「それから、緊急書記への連絡も完了しています。陛下の近衛が旧記録室の周辺へ向かうまで、少なくとも一時間かかります」


「一時間で、マールス侍従の状態がどう変わるか、ですわね」


「リタの見立てでは、今夜中に動かなければ危険だと」


「分かりましたわ。では、ベインドとリタで先行してもらいます。私とシリルはここで連絡を受けながら、近衛の到着と繋ぎますわよ」


 リタが廊下でチャキッと言った。今度は少し強い音だ。


(今夜は私を行かせるな、という意味ですわね。いつも通りの反応です)


「今夜は汚れが燃える状況ではありませんわよ。……私が行っても、役に立つ場面がありません」


 リタがまた音を立てた。


「命令ですわ」


 沈黙。それから、渋々といった音が一つ。了解だ。


「ベインドとリタを合わせた動きの指示は、シリルを通じてこちらから出します。現場の判断はリタに委ねる。……ベインドは、リタの判断を尊重してもらうよう、伝えてください」


「既に伝えてあります。……ベインド様は、『強い護衛が付いてくれた方が動きやすい』とおっしゃっていました」


「賢明な方ですわね」


 私は机の上の地図を一度見た。それから、窓の外の夜空を見た。


「行きなさい、リタ。……マールス侍従を、きちんと回収してきてください」


 チャキッ、と。


 今夜一番、澄んだ音だった。


   * * *


 それから二時間、書斎は静かだった。


 シリルが封書の分析を続け、私は水路の地図に新しい書き込みをしながら待った。


 封書の分析の結果、紙の質が王城の公用紙と同じだと判明した。つまり、王城の内部から出た手紙だ。


「マールス侍従自身が、自分を始末しようとしている側に、何らかの連絡を入れた可能性がありますわ」


「あるいは、マールス侍従は既に監視下に置かれていて、この封書は彼を使ってこちらへ送られた」


「どちらにしても、王城の内部からDの指示が動いている、ということですわね」


「はい。……D-3の問題は、スラッジ書記官一名では終わっていなかった、ということが確認できました」


 私は地図の「D-3王城の内通者」の欄に、マールス上席侍従の名を書き加えた。


 そして、その隣に小さく「不法投棄被害者の可能性あり」と書いた。


(使い終わったゴミは、ゴミ捨て場に投棄される。マールス侍従も、今夜捨てられようとしていた。……道具として使われた後、不法投棄。Dのやり方は、随分と非衛生的ですわね)


 二時間後。


 廊下から、足音がした。

 リタの足音だ。もう一つ、それよりやや重い足音がある。


 書斎の扉が、コンコンと叩かれた。


「どうぞ」


 リタが入ってきた。その後ろに、ルオ・ベインドが続いた。


 二人の様子を見た。乱れは最小限。ベインドの肘の部分に薄い汚れがある。地下収蔵庫で何かに触れたのだろう。リタは……いつも通り清潔だ。


(この二人が揃えば、地下三名程度は問題なかったようですわね)


「マールス侍従は?」


 リタが二本の指を立て、親指を立てた。「二名に引き渡した」という意味の仕草だ。


「近衛に?」


 頷く。


「意識は?」


 リタが目を閉じ開く、というゆっくりとした仕草をした。意識はあるが、ぼんやりとしている、という意味だろう。


「分かりましたわ。ご苦労様でした」


 私はベインドの方を見た。


「ありがとうございます、ベインド様」


「仕事ですので」


 短い答えだった。


「地下の三名は?」


「近衛に引き渡しました。……二名は素直に動きましたが、一名が少し難航して」


「リタが処理しましたわね」


「いえ、私が止めました。……生かした方が、情報が取れると思いましたので」


 私は少し目を細めた。


(ベインドが止めた。リタではなく、ベインドが。……情報のために、処分を控えた。それは、私たちと同じ判断ですわ)


「正解ですわよ」


 私は静かに言った。


「不燃ゴミか、リサイクル資源かの判断は、現場でした方がいい。……それを正確にした」


「ゴミの分別は得意です」


 ベインドが言った。口元が、わずかに動いた気がした。笑ったのかどうか、判断しにくい顔だ。


(この人は、ゴミの言葉で話す。……フォル・ネビュラ育ちで、汚水管の内側を知っている人間は、汚れの言語が染み付いているのかもしれませんわね)


「シリル」


「はい」


「ベインド様の信頼度を、七割から七割五分に上げましょう」


 シリルが少し目を細めた。


「謹んで記録いたします」


「俺の信頼度を採点しているんですか」


 ベインドが言った。


「当然ですわ」


 私は扇子を開いた。


「一緒に仕事をする前に、道具の性質を確認するのは、掃除の基本ですもの」


「……道具、ですか」


「悪い意味ではありませんわよ。良い道具は、仕事の成果を左右します。……あなたは今夜、良い道具であることを示しましたわ」


 ベインドがまた何か言いかけて、止めた。


 その代わりに、小さく頷いた。


   * * *


 夜が深まった。


 マールス侍従の身柄は近衛が確保し、王城内の医官に委ねたと連絡が入った。命に別条はないが、何かを飲まされた形跡があるとのことだ。


(飲み物に混ぜる。……ポイッツェン伯爵のやり方に似ていますわ。Dは、毒を使うことを厭わない)


「シリル、マールス侍従に飲まされたものの分析を、医官に依頼できますか」


「陛下への連絡経路を通じて、依頼を入れます」


「成分が分かれば、Dが使っている調達ルートが見えるかもしれませんもの」


「承知いたしました」


 ベインドが少し前に出た。


「毒の成分が特定できれば、フォル・ネビュラに持ち込まれている物品の一覧と照合できます。……港の荷物は全て記録がある。表向きは」


「表向きは、ということは、裏があると」


「カラミ商会の荷物は、港の外れに独立した荷降ろし場所があります。そこを通った物品の記録は、公式のものとは別です」


「あなたはその記録にアクセスできますか」


「かつては。……今もできるかどうかは、現地へ行かなければ分かりません」


(かつてはアクセスできた、ということは、ドレインの末端として動いていた時代にそのルートを知っていた、ということですわ。……十五年前の情報が、今も有効かどうか。それは現地で確かめるしかない)


「分かりましたわ。フォル・ネビュラでの調査の方針を、明日改めて詰めましょう。今夜は、まずお疲れ様でしたわよ」


 ベインドが軽く頭を下げた。


「客間をお使いくださいな。……屋敷には今、他にも客がいますが、ご不便はないかと思います」


「スラッジ書記官ですか」


 私は少し眉を動かした。


「……なぜ知っているのですか」


「王城で、そういう話が回っていました」


「王城で」


「噂というのは、水と同じで、低い方へ流れます。……マールスを始末しようとした連中も、スラッジ書記官の証言が取れたことを知っていたのでしょう」


(そうですわね。だから今夜、急いでマールスを処分しようとした。……Dは、スラッジ書記官の証言が王城の正式な記録に入る前に、別の情報源を消そうとした)


「ありがとうございますわ、ベインド様。……有益な観点でしたわよ」


「仕事ですので」


 また同じ返答だった。


 ベインドが書斎を出た。


 シリルが扉を閉めた後、私の傍に来た。


「お嬢様」


「何ですか」


「ベインドが『王城で噂が回っていた』と言いましたが……」


「マールス侍従が情報を流していた可能性が高いですわね。あるいは、まだ別の内通者がいるか」


「D-3が、まだ完全には片付いていない、ということになります」


「そうですわ」


 私は水路の地図を見た。


(染み抜きは、一枚の布に複数の染みがある場合、一か所を拭いても終わらない。……王城の内通者問題は、スラッジ書記官とマールス侍従だけでは終わっていない可能性がある)


「D-3の欄に、追記してくださいな。『複数の情報経路が存在する可能性、継続調査』と」


「承知しました」


 私は窓の外を一度見た。


 夜の王都に、秋の風が流れている。


(ガルベス子爵という詰まりを外した。スラッジ書記官という証言を確保した。マールス侍従という不法投棄を阻止した。……今日一日で、随分と動いたわね)


 右手の手袋を、左手でそっと押さえた。今夜も何も燃やさなかった。ただ、止めた。阻止した。回収した。


(焼くだけが掃除ではありませんわ。……それを、今章は特に意識することになりそうですわね)


   * * *


 深夜のダイニングに、シリルが用意したものが静かに並んでいた。


 今夜の茶は、フォル・ネビュラ産ではない。


 淡いベージュ色の、見慣れない茶葉だ。湯を注ぐと、ほんのりと甘い草の香りが漂う。


「これは?」


「ベインド様が持参したものです。フォル・ネビュラの隣の、港町で採れる野草茶だそうです。旅の前後に飲む習慣のある茶で、体を落ち着けてくれると」


「ベインドが?」


「『荷物の中にあったので、よければ』と。……気が利く方です」


 私はカップを手に取った。


 一口飲む。


 甘さはほとんどない。草の苦みが先に来て、後からほんのりとした温かさが広がる。港の潮の香りとは違う。もっと、土の奥の方の香りだ。山と海の境目のような。


「……珍しい味ですわね」


「道中の疲れを取る茶なので、旅の後半に飲むものだそうです。……ただ、今夜は旅の始まりの方だと思いまして」


「始まりに飲む理由は?」


「前半に飲んでおけば、後半の用意が早まります」


「……強引な理屈ですわよ」


「ご容赦ください」


 私は少し笑った。


 テーブルには、野草茶の他に、焼いた根菜のスープが小さなカップで二つ。薄切りの堅いパンが数枚。


「根菜は?」


「屋敷の庭でまだ残っていたものを、料理人が使いました。こちらは王都のものです」


「隣国と王都が混ざっているのですわね」


「今夜の仕事が、両方を繋ぐものでしたので」


 私は根菜のスープを一口飲んだ。煮込んだ甘さが舌に残る。港の茶葉より、ずっと地に足が付いた味だ。


 シリルが自分のカップを持ったまま、少し間を置いてから言った。


「ベインドという変数が加わりました。……これで、第二章の準備の構成要素が一つ増えたことになります」


「扱い方が難しい素材ですわね」


「ですが、今夜の働きで、少なくとも今夜は信用できる素材でした」


「七割五分、ですわよ」


「はい。ただ、私個人の感覚では――」


「何ですか」


「あの方は、汚水管の内側を知っているだけでなく、その汚れが何のせいで溜まっているかを、身体で知っている。……そういう人間は、掃除の方向を間違えません」


 私は野草茶を一口飲んだ。


 草の苦みが、鼻の奥を静かに通り過ぎた。


(フォル・ネビュラ。霧の港。カラミ商会。エスト。そして、地図の右端の空白の箱)


「シリル」


「はい」


「第二章では、どんなゴミと会うことになりますか」


 シリルが少し考えてから答えた。


「港に溜まった澱は、長い時間をかけて積み重なったものです。……何十年と流れ込んだ汚水が、底に固まっている」


「それは、焼けませんわね」


「焼けば、港ごと消えます」


「分別が必要、ということ」


「はい。ただし」


 シリルが少し声を落とした。


「港の底の澱を分別するには、まず霧の中に入らなければなりません。外から眺めているうちは、何が澱で何が砂かも分からない」


 私は堅いパンを一口かじった。ざりっとした歯触りが、口の中で広がる。


(霧の中に入る。カラミ商会の荷降ろし場所へ行く。エストに近づく。Dの輪郭を掴む。……そして最後に、地図の右端の箱に、名前を入れる)


「準備を、きちんと整えましょう。道具も、地図も、人員も。……霧の中に入る前に、手元が整っていることを確認してから」


「かしこまりました。……出発の目途は?」


「マールス侍従の証言が取れてから。……明日か明後日には話を聞けるはず。そのタイミングで、陛下への最後の報告を済ませて」


「それが、第一章の真の締めになりますわね」


「ええ」


 私は野草茶の最後の一口を飲んだ。


 苦みが舌の上に残る。後からくる温かさは、今度はさらにゆっくりと広がった。


 慣れれば、悪くない味だ。


(フォル・ネビュラ。……まだ、霧の中には入っていない。でも、霧の向こうの空気を、少しずつ先に受け取っている)


 私は窓の外を一度だけ見た。


 夜の王都が静かに眠っている。


「シリル」


「はい」


「もし、霧の港で、落ちない汚れに触れることになったとしたら」


 少し間があった。


「……お嬢様?」


「何でもありませんわよ」


 私はパンを最後まで食べた。


(余計な思考は、おそうじが終わってからにする。……いつも、そうしてきましたわ)


 でも今夜だけ、その思考の端がほんの少し、手袋の外に出てきた気がした。


 私はそれを、野草茶の最後の温かさで、静かに流し込んだ。

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