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第10話:出発前の仕分けと、塵の最終処分

 三日間は、意外なほど穏やかに過ぎた。


 穏やかすぎて、むしろ落ち着かないほどだった。


 第一王子の周辺は、ガルベス子爵の捕捉以来、静まり返っている。腐敗貴族連合の末端が蜘蛛の子を散らすように消えた後、王城の空気は――いや、正確には、水が引いた後の川底のように、妙に広々と白んでいる。


(きれいになったからではありませんわ。おりが、別の場所に溜まり直しているだけですもの)


 私は書斎の窓際で、三日ぶりに手袋を外していた。


 素手の指先を、朝の光にかざす。

 白く、細い。何も残さない、いつもの手。


 だが今日は少し違う。

 今日は、明日の出立を前にした、最後の王都での一日だ。フォル・ネビュラへ発つ前に、今日中に済ませておかなければならないことがある。


「お嬢様」


 シリルが書斎に入ってきた。


「国王陛下からの特命書が届きました」


 私は手袋を嵌め直した。それから、差し出された封書を受け取る。


 重い封蝋。王家の紋章。


 私は封を開いた。


   * * *


 特命書の文面は、簡潔だった。


 ヴィクトリア家クレアに、隣国・フォル・ネビュラへの派遣を命じる。目的は、ドレイン組織の調査および浄化。国内に持ち込まれた汚水の出処を断つこと。期限は定めない。ただし、国際問題に発展しないよう配慮せよ。


 最後に一行、国王の筆跡で直接書き加えられた文があった。


   『くれぐれも、余計な灰は残すな。――国王より』


「……陛下は相変わらず、余計なことを書きますわね」


 私は特命書を机に置いた。


「灰一つ残さないのが私のやり方ですもの。言われるまでもありませんわ」


「陛下なりの信頼の表明かと存じます」


「そうは聞こえませんでしたわよ」


 シリルが、完璧な笑顔で書類を整えながら言った。


「なお、モモ・ダスト嬢の件について、陛下から続報がございます」


 私は顔を上げた。


「こちらです」


 シリルが別の書状を差し出した。


   * * *


 書状によれば、モモ・ダスト嬢は三日前の翌朝から、ダスト侯爵家の別邸へ移っている。


 王城への出入りは続いているが、第一王子のご私室への訪問は、この三日間で一度も確認されていない。カスミ弁護士はガルベス子爵の第一回審問に弁護人として出廷したことが確認され、これにより二者を繋ぐ「水路」が法廷記録に正式に記載された。


 そして最後に、一文。


   『モモ・ダスト令嬢の件については、ダスト侯爵が自ら国王に釈明を申し出た。侯爵家として傍系事業の管理に不備があったことを認め、調査への協力を約した。封蝋の件については現在調査中。処分は調査終了後に改めて通達する。』


 私はしばらく、その文を眺めた。


(侯爵が、先に動いた。……塵の前に、器が頭を下げた。ダスト侯爵は娘よりも、家の存続を選んだということですわ)


「シリル」


「はい」


「モモ・ダスト嬢は、今どこにいますか」


「別邸の東棟です。外出の制限は正式には出ていませんが、馬車の出入りが三日前から急に減っています。……実質的な謹慎状態かと」


「お父上に、部屋の中へ片付けられた、ということですわね」


 私は扇子を取り出した。


(塵は、舞い上がると思っていた。ところが、今は床に落ちて、静かに積もっている。……いずれ、誰かが掃き集めに来るまでは、そこにいるつもりかしら)


「お嬢様、ダスト嬢の件は今後どうなさいますか」


「陛下に委ねますわ。証拠は揃えた。カスミ弁護士という水路が法廷に現れた。エール・ラフスの証言もある。……私がこれ以上手を出す必要はありませんわ」


「では」


「ええ」


 私は扇子を一度だけ開いた。


「塵は、適切な清掃員が来るまで、床の上に置いておけばよろしい。……私の仕事は、霧の港の方ですわ」


 シリルが深く一礼した。


   * * *


 午前中の残りは、出立の準備に費やした。


 書斎の机の上には、水路の地図の最新版が広げられていた。


 ガルベス子爵の名前の横に「回収済み」。

 スラッジ書記官の名前の横に「保護・証言取得済み」。

 カスミ弁護士の箱が新たに地図の内側に追加されていた。

 そして「ラフス織物商会(ダスト傍系)」から「セドゥン商会」へ、「セドゥン商会」から「フォル・ネビュラ」へ、矢印が引かれている。


 フォル・ネビュラの先に、「カラミ商会」の箱。

 カラミ商会の隣に、「エスト(ヴァルス・スラム)」と書かれた箱。

 そして右端に、まだ空白の箱。


「地図の完成度は?」


「八割五分、といったところでしょうか」


 シリルが答えた。


「残りの一割五分が、頂点の名前ということですわね」


「はい。……フォル・ネビュラへ入れば、おそらく残りが見えてきます」


 私は地図を眺めながら、右端の空白の箱を指先でそっと示した。

 紙の上には何も書かれていない。だが、その空白には確かに何かがある。


(汚水管の最も深い場所。全ての汚れが流れ込む先。……それがどんな形をしているのか、地図の上では分からない。行かなければ分からないことが、まだある)


「シリル、道中の手配は」


「完了しております。王都から南の街道を経由して、国境の検問所を通過します。馬車一台、護衛二名のほかに、フォル・ネビュラに既に潜入している情報提供者と、現地で合流する手はずです」


「情報提供者?」


「はい。フォル・ネビュラには、王家の情報網の末端に連なる人物が一名おります。……本職は、港の小商人です」


「信頼できる人間ですか」


「十年以上の協力実績があります。ただし、ドレインの存在については、まだ情報を渡していません。……現地の状況を先に確認してから開示する予定です」


「賢明ですわね」


 私は地図を丁寧に折り畳んだ。


「持っていきますわ。出先では、いつでも見られるようにしておいてくださいな」


「かしこまりました」


   * * *


 昼過ぎ、リタが装備の確認を終えて書斎に入ってきた。


 いつもの黒いメイド服ではなく、動きやすい旅装だった。といっても、見た目は整然としていて乱れがない。ただ、腰の位置に、いつもより数が多い金属の気配がある。


「それは全部、必要ですか」


 私は視線をリタの腰回りへ向けながら言った。


 リタが、ほんの少しだけ、首を傾げた。

 意味は明確だった。「当然です」ということだ。


「港の仕事ということを念頭に?」


 リタが頷く。続けて、波の動きを片手で示した。


「足場が不安定になることへの備え、ということかしら」


 また頷く。今度は少し勢いがある。


(返り血の防御だけでなく、船上や桟橋での近接を想定しているのですわね。リタは、いつも私より先に現場のことを考えている)


「ありがとう」


 私は素直に言った。


 リタが、ほんの少しだけ目を細めた。それが彼女なりの「どういたしまして」だと、私はもう分かっている。


 シリルが扉の外から顔を出した。


「お嬢様、一つ確認ですが」


「何ですか」


「フォル・ネビュラでは、隠語として通る言語がいくつかございます。現地の港言葉は、標準語と異なる。カラミ商会の周辺で使われている言葉については、事前に整理しておいた方がよろしいかと」


「港言葉?」


「潮の匂いがする言葉、とでも申しましょうか。何でもないような言葉が、文脈によって別の意味を持つ。……特に、荷物の積み替えや送金に関わる隠語が多いようです」


(港の言語。……ゴミ屋敷に独自の分類法があるのと同じですわね。外から見ると無秩序に見えて、内側には内側の論理がある)


「事前に一覧にしてくれますか」


「既に作成しております」


 シリルが一枚の紙を差し出した。


 私は受け取り、斜め読みした。


 「流れ物」は現地語で密輸品を指す。「おり屋」は非公式の金融仲介業者。「霧払い」は証拠の隠滅。「港ごと」は包括的な賄賂。


 そして――「おそうじ」は。


 私は一瞬、目を止めた。


「……シリル」


「はい」


「『おそうじ』に相当する港言葉が書いてありますわね」


「はい。現地では『浚渫しゅんせつ』という言葉が近い意味で使われているようです」


「浚渫。港の底に溜まった澱を、取り除く作業のことですわね」


「おっしゃる通りです。……お嬢様のご職業にも、応用が利くかと」


 私は紙をシリルに返した。


「出立前に、全部頭に入れておきますわ。覚えの早さは、お掃除の基本ですもの」


「まったくその通りでございます」


 シリルが深く一礼した。


   * * *


 夕方、フロード補佐官から最後の書状が届いた。


 内容は短かった。


   『スラッジ書記官の量刑について、陛下が掃除人クレアの一文を考慮に含めることを認めました。本人にも伝えました。……書記官は、しばらく何も言わなかった後、「それを伝えてください」とだけ申しました。あとはよろしくお願いします。――F』


 私はその書状を、机の上に置いた。


 それ以上、読み返さなかった。

 読み返す必要がないくらい、一度で入ってきた言葉だったから。


(「それを伝えてください」。……汚泥スラッジは、まだそこにいる。言葉が出てくる場所に、まだいる)


「シリル、この書状はどうしますか」


「お嬢様の判断で」


「……保管してください。書斎の引き出しに」


「かしこまりました」


 シリルが書状を丁寧に折り畳んで、引き出しへしまった。


 私は窓の外を眺めた。秋の午後の光が、庭の落ち葉を金色に染めている。


(汚れが残っていても、まだそこにいる。焼いて消したものとは違う種類の、確かな存在感がある。……それを少しだけ、よかったと思うのは、やはりおかしな話ですわ)


 余計な思考を、扇子で払う。


 やるべきことは、明日から始まる。


   * * *


 出立は翌朝だった。


 夜明け前から、屋敷の玄関前に馬車が一台用意されていた。

 シリルが荷物の最終確認をしている。リタが馬車の周辺を一周し、問題なしと頷いた。


 私は玄関の扉を出て、冷たい早朝の空気を一息吸った。


 秋の王都は、まだ眠っている。遠くで荷馬車の音がするが、通りは静かだ。星が薄く残っている。


「天気は?」


「本日は晴れますが、明後日以降、国境付近から霧が出やすくなるとのことです」


「さすが霧の港ですわね」


 私は手袋を確認した。右手、左手。いつも通りの、白い手袋。


「シリル、出発前に一つ確認ですわ」


「はい」


「この屋敷は、私たちが不在の間、誰が管理しますか」


「家令のマルサが。加えて、フロード補佐官の側から定期的な確認の使者を送っていただく手はずです。有事の際は、国王直属部隊が対応します」


「エール・ラフスへの連絡は?」


「三日に一度、こちらから書状を送ります。何かあれば、指定の中継所を通じて返信が来ます」


「完璧ですわね」


「お掃除の準備が完璧でなければ、お掃除ができませんので」


 私は小さく笑った。


 馬車に乗り込もうとした時、リタが私の前に一歩出た。


 先に乗り込み、車内を一度確認してから、今度は降りてきて私に頷いた。


 いつもと同じ所作だ。屋敷でも、王城でも、どこへ行っても、リタは必ず私より先に場を確認する。


(この人間は、私の前に立つことを、自分の仕事として完全に受け入れている。……なぜかしら、と今更ながら思うことがありますわ。でも、その理由を聞いたことがない)


 私は馬車に乗り込んだ。


 シリルが最後に乗り込み、扉を閉める。


 御者が手綱を取る音がした。


   * * *


 王都を出ると、道は次第に広くなった。


 南の街道は、商人たちが往来する主要な幹線だ。朝の時間帯は荷馬車が多く、私たちの馬車は特に目立つわけでもなかった。


 馬車の中で、シリルが地図を広げた。


「国境の検問所まで、半日ほどです。そこから先、フォル・ネビュラまでは、さらに丸一日の行程になります」


「道中、何かありますか」


「一か所だけ、注意が必要な宿場があります」


 シリルが地図の一点を指した。


「タームという宿場町です。国境手前の最後の宿場で、商人と旅人が混在している。……ドレインの物流ルートが通過している可能性があります」


「どういう根拠で?」


「ガルベス子爵の書類の中に、タームという地名が一度だけ出てきていました。送金の中継地として、では注意を要します」


(送金の中継地。……汚水管の途中に、中間の溜まり場がある、ということですわ)


「タームでは宿を取りますか」


「一泊の予定ですが、宿の主が信頼できるかどうか、現地で確認してから決めます」


「念のため、宿の中の様子は?」


「リタが先に確認します」


 私は窓の外を眺めた。


 王都の郊外を抜けると、視界が開けた。広い耕作地が続いている。秋の収穫が終わった後の、茶色く静かな景色だ。


「シリル」


「はい」


「この旅で、最初に何が見えると思いますか」


 シリルが少し考えた。


「港の入口に積まれた荷物ではないでしょうか。……どんな荷物が、どのように積まれているか。それだけで、かなりのことが分かります」


「荷物の積まれ方で、港の性格が分かる、と?」


「はい。きちんと分別されて積まれているか、無造作に押し込まれているか。……汚れた港は、たいてい、荷物の扱いが雑です」


「雑然としているから、その隙間に何でも押し込めるのですわね」


「おっしゃる通りです」


 私は扇子を膝の上に置いた。


(フォル・ネビュラ。霧の港。セドゥン商会の資金の終着点。ドレインの中継拠点、カラミ商会。エストという中間管理者。そして、地図の右端の空白の箱)


 まだ名前のない、頂点。


(そこまでたどり着くまでに、どれだけの澱をかき分けなければならないのか。霧の中では、灯りも遠く見える。……でも、霧が濃いほど、かき消した後の空気は清潔ですわ)


「リタ」


 リタが視線を向けた。


「港の仕事は、得意ですか?」


 リタがしばらく考えてから、片手を軽く傾けた。


「五分五分、ということですわね」


 頷く。


「具体的に苦手な部分は?」


 リタが少し間を置いてから、片手で「広い」という仕草をした。次に、上から下へ一気に指を落とす。


「視界が開けているのに、落とし穴がある、ということかしら」


 リタが頷く。力強く。


「港特有の地形ということですわね。了解しましたわ。あなたが把握していない場所については、先に歩かせませんわよ」


 リタが、チャキッと短い音を立てた。


 シリルが微かに笑った。


「珍しいですね、リタが苦手を認めるのは」


 リタが、シリルを一瞥した。その視線の意味は「貴方には関係ない」だろうと私は判断した。


「二人とも」


 私は扇子を開いた。


「フォル・ネビュラは、国内とは勝手が違いますわ。……でも、やることは変わらない。汚れを見つけて、分別して、適切に処理する。それだけですわ」


「かしこまりました」


「了解、とリタも言っていますわよ」


 リタが、やや呆れたような気配を漂わせたが、頷いた。


   * * *


 タームの宿場に着いたのは、日が傾きはじめた頃だった。


 宿の前で、リタが馬車から先に降りた。


 周囲を一度見渡し、宿の入口を確認し、隣の建物との隙間を眺め、裏手に回る路地の位置を把握してから、私に向かって頷いた。


「問題なし、ですか」


 リタが頷く。ただし、少し目が細い。何かが「問題なし」ではないが、「進んでよい」という意味だろう。


「宿の中に、気になる何かがいる、ということかしら」


 リタが片手で「小さい」という仕草をした。続けて、素早く指を走らせる仕草。


「小さな、動きの速い何か」


 シリルが横から言った。


「宿の中に、ドレインの末端の耳が一つ、いるかもしれません」


「耳?」


「情報の運び屋です。タームはドレインの中継地。……往来する旅人の荷物や動向を観察して、フォル・ネビュラへ報告を上げる人間がいても、おかしくはない」


(燃やさなくていいゴミが、中にいる可能性。……小さな塵一粒が、私たちの到着を港へ報告する前に、何かできることがあるかしら)


「シリル、今夜の夕食はこの宿で取りますか」


「一応の予定ではそうなっておりますが」


「変更しましょう」


 私は言った。


「ここで食事を取ると、『貴族らしき旅人が一行』という情報が確実に宿中に広まりますわ。……その前に、飯の場所を変える」


「では、宿の北側に小さな食堂があります。商人向けの、目立たない店です」


「そちらにしましょう。宿はここで取って構いませんが、顔を出す必要はない」


「かしこまりました。荷物は私が手配いたします」


「リタ、宿の中の『小さな何か』については?」


 リタが少し考えてから、二本指を立てた。指先を下向きに折る。


「押さえておく、という意味かしら」


 リタが頷く。静かな、確実な頷きだ。


「穏当にお願いしますわ。ここはまだタームで、フォル・ネビュラではありません。……捕まえる必要も、焼く必要も、今夜はないですわよ」


 リタが少しだけ、残念そうな気配を漂わせた。


「リタ」


 私は静かに言った。


「燃えないゴミの処理は、燃やせる場所に着いてからですわ」


 リタが、改めて頷いた。今度は納得した様子だった。


 シリルが小さく言った。


「リタが承服するのは珍しい順番ですね」


「うるさいですわよ」


 私はさらりと返した。


   * * *


 夕食は、商人向けの小さな食堂だった。


 木のテーブルと、素朴な椅子。窓が二つ。出口が一つ。厨房から、煮込み料理の匂いがしている。


 客は私たちのほかに、三組の商人風の旅人。誰もこちらを特別視していない。


(いい場所ですわ。目立たない、ということは、汚れも溜まりにくい)


 私は壁際の席に座り、注文を待った。


 食堂の主人が来て、今夜のメニューを口頭で伝えた。


「国境手前の名物は、タームシチューです。豆と根菜を長時間煮込んだもので、旅人に評判がよい。あとは、黒パンと、地ビール」


「シチューと黒パンを」


 私は言った。


「地ビールは結構ですわ。……ハーブ茶はありますか」


「ございます。国境の手前に自生するタイムを使ったものです」


「それを」


 シリルは同じものを頼んだ。リタは黙ってシリルのものと同じものを指差した。


 食事が来るまでの間、私は扇子を膝の上に置いたまま、食堂の中を静かに観察した。


 三組の商人の動き。出口に近い席の男の目の動かし方。厨房の音。


(ここには、大きな汚れはない。ここは、ゴミが「通過する」場所ですもの。溜まるのは、その先ですわ)


 シチューが来た。


 深い器に、濃い茶色の汁と、柔らかくなった豆と根菜が入っている。上に、枯れ草色のハーブが少し散らされていた。


 一口。


 濃い。だが重くない。豆の土っぽい風味と、根菜の甘みが、ゆっくりと広がる。


「……国境の手前の料理は、道中の寒さに合っていますわね」


「旅人が体を温めるための実用的な一皿です。……港へ向かうための、準備食とも言えます」


「またそういうことを言いますわね」


「事実でございますので」


 私は黒パンをちぎり、シチューに浸した。


 硬い外皮が、汁を吸って少し柔らかくなる。


(国内で食べるものとは、少し違う。土の香りが強い。水の味が違う。……こういう細かい違いが積み重なると、出張先、ということが体で分かってきますわ)


「シリル、明日の国境手続きは」


「身分証明書は全て揃っています。王家の特命書も携帯していますが、使う必要はないよう、通常の商人向けルートを通る手はずです」


「目立たないように」


「はい。……目立つのは、現地に着いてからで十分でございます」


「目立つつもりはありませんわよ」


「左様でございますか」


 シリルが完璧な笑顔で言った。


 私は扇子を閉じたまま、その笑顔を正面から受け止めた。


「私が目立つのは、汚れを焼却する時だけですわ」


「それで十分でございます」


   * * *


 食事を終えて宿に戻ると、部屋はシリルが既に手配を済ませていた。


 私の部屋の窓は、外が見える向きで、かつ通りから直接見えない位置だった。リタが部屋の隅に一脚の椅子を置き、扉に背を向けた。


「今夜は、リタが部屋にいるのですか」


 リタが頷く。揺るぎない。


「……宿の中に、まだ気になるものがありますか」


 リタが少し間を置いてから、小さく頷いた。


「把握している、ということですわね」


 リタが頷く。今度は「任せてください」という意味の、確かな力のある頷き。


「では、お願いしますわ」


 私はベッドの端に腰掛け、手袋を外した。


 素手の手を、ランプの光にかざす。


 明日には国境を越える。明後日にはフォル・ネビュラに着く。


 霧の港で、何が見えるのか。

 地図の右端の空白の箱に、どんな名前が入るのか。

 カラミ商会の中で、汚水がどのように絡まっているのか。


(分からないことが、まだたくさんある。……分からないから、行かなければならない。それだけのことですわ)


 私は手袋を嵌め直した。


 ランプを落とす前に、窓の外を一度だけ眺めた。


 タームの夜は、王都より星が多かった。

 空が広い。遮るものが少ない分だけ、遠くまで見える。


(霧が出る前の星空。……こういうものも、第一章にはありませんでしたわね)


 私はランプを吹き消した。


   * * *


 翌朝の出立前、シリルが簡単な朝食を手配してくれていた。


 宿の食堂ではなく、部屋に運ばれてきたものだった。


 黒パンに、硬いチーズを薄く切ったもの。それに、昨夜の食堂でもらってきたタイムのハーブ茶が一ポット。


「昨夜の食堂から?」


「主人に頼んでおきました。旅の続きがある人間には、気前よくしてくれる店です」


 私は椅子に腰掛け、ハーブ茶を注いだ。


 タイムの香りが、鼻を抜ける。草のような、少し清潔な香りだ。


 昨夜のフォル・ネビュラ産の茶葉とは全く違う。あちらは深く、潮の気配があった。こちらは、まっすぐで、土の気配がある。


「……出発前の、お清めの茶のようですわね」


「国境の手前のハーブには、そういう言い伝えがあるようです。旅人の足元を清める、と」


「シリル、あなたはいつの間にそういうことを調べるのですか」


「出立前の準備中にでも」


「いつ寝ているのですか」


「必要な時に」


 私はそれ以上聞くのをやめた。


 チーズを挟んだ黒パンを一口かじる。昨夜より硬い。だが、噛むほどに塩気と旨みが出てくる。


(質素でも、道中には合っている。旅の食事というのは、こういうものなのかもしれませんわ。屋敷のダイニングとは違う。でも、それも悪くない)


「シリル」


「はい」


「フォル・ネビュラで最初にすることを、改めて確認しましょう」


「まず、港の空気を嗅ぐ。次に、情報提供者と合流する。そして、カラミ商会の外観を確認するところから始めます」


「焦らない、ということですわ」


「はい。……霧の中を、闇雲に進んでも、汚れの場所は分からない。まず現地を知ることが先です」


「よろしい」


 私はハーブ茶を一口飲んだ。


 草の清潔な後味が、口の中に広がる。


 リタが扉の外から、チャキッと短く音を立てた。


「準備ができましたわ」


 私は椅子から立ち上がった。


 手袋を整えて、扇子を帯に挿す。


 窓の外を一度だけ見る。タームの朝は、冷たく澄んでいた。遠くに、稜線が見える。あの向こうに、国境がある。その先に、霧の港がある。


(さあ、出かけますわ)


 私は扉を開けた。


 廊下に、リタが既に立っていた。

 旅装で、腰の金属の気配は昨夜より少し落ち着いている。それでも、必要なものはすべてある。


 シリルが書類入れを抱えてついてくる。


 三人で宿を出た。


 朝の街道は、早起きの商人たちが既に動き始めていた。荷馬車の音。馬の蹄の音。遠くに、鳥の声。


 私たちの馬車が、静かに動き始めた。


(第一章の汚れは片付いた。第二章の汚れは、霧の向こうにある。……どんな形をしていても、私のやり方は変わらない。見つけて、分別して、適切に処理する)


 馬車の窓から、タームの街並みが少しずつ遠ざかっていく。


 今日中に国境を越え、明日にはフォル・ネビュラへ着く。その先に何があるかは、霧が晴れるまで分からない。

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