第8話 まだ見ぬ誰か……そして二人の時間
【side???】
——始まりは、いつだっただろうか。
そう、あれは三年前。私の人生に彩を与えてくれた、あの人の隣へと引っ越してきた時からすべてが変わった。
あの人のそばにいたい。その一心で、私は自分にできることを全部使った。けれど、どうしても積極的に迫る勇気は持てなくて……。だから私は、彼が私に歩み寄ってくれるのを、ずっと待ち続けていた。
隣に住む彼のためにカレーを作って差し入れたり、一緒にお酒を酌み交わして、わざと無防備に見せたり……。でも、あの人は決して手を出してこなかった。必死に自分を抑える姿が、なぜかとても可愛くて。
年上の彼に「可愛い」なんて失礼かもしれない。けれど、私にはそう見えて仕方なかった。優しくて紳士的で、だけどどこか子供みたいに純粋で。気づけば、私はその不器用さごと夢中になっていた。
昨夜のこと。
久しぶりに仕事で疲れ果てて、ぐっすり眠っていたから詳しくは思い出せない。けれど、あの人の住む隣の部屋から、妙に騒がしい音が響いていた気がする。家具のぶつかるような物音。やがてサイレンの音。胸騒ぎだけが残った。
朝になってから、あの人の部屋に空き巣が入ったと聞いた。
しかも、昨日から彼は帰っていないらしい。
心配で、胸が締め付けられる。
どこにいるの? 無事なの? ……どうして何も言ってくれないの。
窓から差し込む朝の光は、いつもと同じはずなのに、今日はどうしても落ち着かない。世界そのものが、少しずつ音を立てて形を変えていくような……そんな不思議な予感がする。
——これは、ただの不安じゃない。
私と彼を巻き込む、新しい物語の始まりなのかもしれない。
◇◇◇
俺は紗彩と一緒にデートに出かけることにした。とはいえ、まずは身分証明書を再発行しに警察署に立ち寄ることにする。
盗まれた財布は、犯人の逮捕と共に俺の手元に戻ってきていた。流石に抜かれた中身は戻らなかったが、銀行口座やクレジットカードの不正利用はなかったらしい。
もう再発行してしまったカードは使えないが、安全を考えればその方がいい。
PCも持っていかれていたが、売却寸前のところで取り戻せた。大事なデータも無事で、ネットに流出する心配もない。
紗彩は業者を手配し、返ってきた荷物は明日には彼女のマンションに届くよう手続きしてくれていた。
驚くべきことに、闇金組織は一夜にして壊滅し、借り入れはすべて無効に。
「神のご意思を遂行せよ」と怯えながら叫ぶ幹部たち。全国の警察組織が同時に動き、大規模な摘発に至ったとお喋りな担当警察官が教えてくれたが、そんなことを一般人にペラペラ話していいのか、俺は内心首をひねった。
——神力。
紗彩の夢に出てきたという神様が闇金組織を潰したと聞かされ、俺はあらためて彼女の話に確信を深めた。あの不思議な力のことを、彼女は本当に信じているのだ。
◇◇◇
俺たちはアパートに到着し、私物の荷造りを始めた。持っていくものは衣服くらい。出張用のスーツケースに一式詰め込むだけなので、すぐ終わる。
そういえば、昨日から気になっていることがあった。俺は紗彩に尋ねた。
「なあ紗彩、昨日から紗彩が光って見えることがあるんだけど、神様は何か言ってなかったか?」
「ッ……」
紗彩の息が詰まった。伝わってくるのは、嬉しさと同時に、どこか言いにくそうな気配。
「えっとですね。神力を有する人って、運命で繋がった特別な女性が見えるそうです」
「そうなのか!じゃあ俺と紗彩は運命で繋がってるってことだな。嬉しいよ!」
この不思議な力はまだ未知数だが、俺が使い方を誤らなければ二人で幸せになれる。そんな確信があった。
「ありがとうございます隆行さん。私も神様に認められた運命の人が隆行さんで、とても嬉しいです。でも……」
「どういうこと?副作用でもあるとか?」
「いえ、そうではなく。運命で繋がった女性は一人だけじゃないんです。私は最初の一人目ってことらしいです」
俺は言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかった。
「つまり、運命で繋がった女性は複数いる。その人達はみんな隆行さんと特別な絆で繋がった魂、らしいです」
つまり——神様は俺にハーレムを作れと言っているのか。
「だから、これから隆行さんの前にはたくさんの運命の女性が現れるそうです。隆行さんはその方達と共に幸せいっぱいの人生を歩むことになる……神様はそう言っていました」
俺は即答した。
「それはないよ」
「え?」
「たとえ運命で繋がっていても、俺は紗彩だけを愛するって決めたから」
紗彩は座布団の端をギュッと握り、涙ながらに喜びを伝えてくれた。
だが、彼女は首を横に振り、真剣な眼差しで続けた。
「でも、それじゃあ振られた女性が悲しい思いをしちゃうじゃないですか……」
紗彩の真剣な想いを受け取り、俺は無い頭をひねって考えた。
「分かった。本当にそうなるのかは分からない。でも、俺は紗彩に悲しい思いはさせたくない。もし俺を愛してくれる女性が他にも現れて、その人が紗彩と一緒に俺を愛したいって言ってくれたら、俺もその人を愛する努力をする」
俺は彼女をまっすぐ見つめ、抱きしめ、耳元で囁いた。
「紗彩が一番だから」
「え?」
「何人の女性が現れたとしても、俺は紗彩を一番に扱う。だから紗彩、俺の一番でいてほしい」
「ありがとう、ありがとうございます……とっても嬉しいです」
紗彩は涙を拭き、笑顔を浮かべた。
「でも大丈夫です。スピリットリンクは、全ての運命の女性同士の心をつなぎ合わせてあなたを幸せにするための力だって、神様は言っていました。私も、あなたと一緒に成長していきたい」
「ありがとう紗彩。愛してる」
「私も、愛しています、隆行さん」
そして彼女は、少し上向いて目を閉じ、俺の言葉に微笑んだ。
「一つ、わがままを言ってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
「今だけ……今だけは、私だけの隆行さんでいてください」
俺はそっと頷き、彼女の肩を抱き寄せる。
「君が望むなら、今はそうするよ」
紗彩は小さく笑い、頬を染めながら寄り添ってきた。
その温もりの中で、俺はあらためて誓う——この手を離さず、そしてこれから現れるすべての運命にも、正面から向き合っていこう、と。




