第3話 湧き上がるパワー
「待てやチンピラども!!」
声を張り上げながら走る俺の身体は、まるで別物になったかのようだった。
肺が焼けるように苦しいはずなのに、空気を取り込むたびに体中が軽くなる。
心臓は高鳴っているのに、妙に落ち着いている。
足は地面を蹴るたびにバネのように弾み、視界は驚くほど鮮明だ。
「篠宮課長!?」
水無月君が驚いた声をあげた。
その声に応える余裕はなかったが、確かに彼女の震えが耳に届く。守らなきゃ、という思いが胸を突き動かす。
「おっ、ご本人登場か。だったら話が早ぇ」
「ちょうどいい、借金返してもらおうじゃねぇか」
チンピラどもの下卑た笑い。だが、不思議なことに、怖くない。
さっきまであれほど足がすくんでいたのに、今はまるで別人のように心が澄んでいる。
「言っておくが、俺は金なんか借りていない。証文がどうのと言うが、昨日盗まれた免許で勝手に契約したものは無効だ。警察で確認すれば一発でわかる」
俺は真正面から言い放った。
チンピラの一人が、手にしていた紙をちらつかせる。
昨日付けの借用証。印字された俺の名前、免許証番号。だが――
「なっ……字が、見える……?」
驚愕した。
普段なら小さな文字は老眼のせいで霞んで見えるはずだ。だが今は、ありえないほどはっきりと視認できる。
その証文に書かれた粗雑な偽造痕跡すら、指先でなぞれるような感覚で見抜ける。
「昨日の日付だな。借りた翌日に取り立てに来る? そんなルール破りを堂々とやって、貸金業者を名乗るとはな」
「う、うるせぇ! 口の減らねぇオッサンだ!」
苛立った男が拳を振り上げて突っ込んでくる。
だがその拳は、あまりに遅く見えた。まるでコマ送りの映像のように。
俺はほんの少し身をずらし、相手の腕を軽くいなす。
「ぐおっ!」
体重を利用しただけの動作で、チンピラの巨体が派手に地面に叩きつけられた。
自分でも信じられない。高校の体育で習った程度の護身術しか知らないはずなのに、まるで達人のように身体が勝手に動いている。
「な、なんだこいつ!?」
「聞いてた話と違うぞ!」
残る二人が狼狽する。その声に俺の耳が敏感に反応した。
――聞いていた?
やはりこれは偶発的なトラブルじゃない。俺を狙った、何者かの仕掛けだ。
「おい、やっちまえ!」
二人が同時に飛びかかってくる。
俺は咄嗟に一人の腕を掴んで捻り上げる。その瞬間、信じられないことが起きた。
「ぐあっ!? あ、上がっ……身体が浮いて……!?」
男の全体重が腕にかかったはずなのに、まるで子供を持ち上げるように軽い。
驚愕する暇もなく、俺は彼を地面に叩き伏せ、残る一人へと鋭い視線を向けた。
「……っ!」
最後の一人は一瞬ひるんだが、すぐにナイフを取り出して構える。
街灯の光を反射して鈍い光を放つ刃。
普通の俺なら確実に腰を抜かしていたはずだ。だが――
「やめろ……!」
俺の声が、意識していないのに低く響いた。
まるで全身から圧を放っているような感覚。
チンピラの腕がわずかに震え、刃がかすかに揺れた。
「……ちっ、クソが。引き上げるぞ!」
吐き捨てるように言い残し、三人は退散していった。
俺はすぐに水無月君を背後から庇い、周囲を警戒する。
「……はぁ、はぁ……」
彼女の肩は小刻みに震えていた。
泣き出しそうな顔で、必死に俺の背中にしがみついてくる。
「すまない……巻き込んでしまった」
「ち、違います……篠宮さんは、私を……助けてくれました……!」
弱々しくも、確かにそう言った彼女の声に胸が熱くなる。
さっきまで震えていた足は、今やしっかりと地面を踏みしめていた。
――これが、あの魔法薬の力か。
勇気、冷静さ、身体能力。すべてが一変している。
恐怖で逃げようとしていた俺が、今は彼女を守れている。
「とにかく、ここから離れよう。落ち着ける場所に」
水無月君を優しく促しながら、俺は夜の街を見回した。
闇に溶けて消えたチンピラたちの影、その背後にある“誰か”の存在を感じながら――。
だが同時に、胸の奥底では別の感覚が芽生えていた。
昂ぶり。高揚感。
まるで血が沸き立つような、今まで味わったことのない力に包まれる感覚。
俺は知らなかった。
この一口の薬が、自分の人生を大きく変えていく引き金になることを――。
「……すごい……」
呆然とした声が背中越しに聞こえた。
振り返ると、水無月が俺を見上げていた。大きな瞳に涙を浮かべたまま、口元は震えている。
「すごいって……俺が?」
自分のことなのに首をかしげてしまう。
だって今までの俺を知ってる彼女なら、真っ先に“篠宮課長=臆病で平凡な中年”というイメージがあるはずだ。
だが彼女は、目を潤ませながら力強く頷いた。
「はい……! あの人たちを前にして、こんなに堂々と……私、初めて見ました」
「そ、そうか……」
俺は気恥ずかしくなって視線を逸らす。
正直、全部薬の力だ。俺自身の勇気じゃない。そう言いかけて――やめた。
震えながらも必死に俺を信じ、俺のために涙まで流してくれた彼女に、「実は俺、インチキ薬を飲んだだけです」なんて言えるわけがない。
「……でも課長、顔が違います」
「え?」
水無月は俺の胸元を掴んだまま、真剣な眼差しを向けてくる。
その距離、近い。お嬢様育ちのはずなのに、躊躇なく距離を詰めてくるあたり――いや待て、この子、天然か?
「昨日までの課長は、いつも少し自信なさそうで……どこか疲れていて。でも今は……強くて、頼もしい男の人の顔をしてます」
「……買いかぶりすぎだよ」
言いながらも、心臓が跳ねるのを止められなかった。
この年で“頼もしい”なんて言われると、どうしたって意識してしまうじゃないか。
「私……」
水無月が小さく唇を噛む。
彼女の白い頬に、街灯の明かりが差して――やけに美しい。
「……もっと課長のそばにいたいです」
息を呑んだ。
その言葉は、ただの部下としての忠誠心ではなかった。
それは確かに、ひとりの女性として俺に向けられた“想い”だった。
「水無月君……」
呼んだきり言葉が続かない。
だが、彼女の瞳を見つめ返した瞬間、なぜか理解した。
――これが、幸運の始まりなのだ、と。




