第16話 これから始まる希望の未来
紗彩に背中を押されるようにして、俺と愛沢さんは寝室に入った。互いにベッドに腰を下ろしたものの、しばし無言のまま時が流れる。
沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「突然こんなことになって……どう言ったらいいのか」
「いえ、むしろ望んでいたことですから。篠宮さんってば、私がどれだけ想いを伝えても受け入れてくださらないのですもの。正直、私の方が我慢の限界でした」
そっと俺の手を取って肩に寄り添う。香るのは大人の女性らしい、濃密な甘さ。
頬を赤らめた彼女の瞳は潤み、やがて閉じられて――俺たちは自然と引き寄せ合い、唇を重ねた。
「篠宮さん……どうか、私をそばに置いてください」
吐息が触れ合う距離で、彼女のささやきが耳をくすぐる。
「愛しています、隆行さん……だから、どうか受け止めてくださいね」
その声は真剣で、けれど柔らかかった。
俺は言葉を返す代わりに、彼女を抱きしめる。触れた瞬間、互いの心臓の鼓動がシンクロしていくようだった。
「……篠宮さん、私、ずっと想っていました」
「俺も、だ。深雪……」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく震える。ほんのそれだけで、彼女の心がどれだけこの瞬間を待っていたかが伝わってきた。
互いの手を強く握り合い、視線を合わせる。
「どうか、お願いいたします。私は篠宮さんを……愛しています」
「分かった。俺も覚悟を決めるよ。これから一緒に歩んでいこう」
彼女は嬉しそうに頷き、涙を浮かべながら俺にしがみついた。
その姿は儚げで、けれど確かな決意が宿っていた。
「隆行さん、と呼んでもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
「隆行さん……幸せです」
耳元で囁かれたその一言は、どんな甘美な旋律よりも心に響いた。
「俺もだ。深雪、これからは一緒に」
「はい……私は、あなたのそばにいられるだけで」
二人の指は絡み合い、決して離れないと誓うように強く結ばれる。
心と心が繋がり、互いの想いが一つになる。
その瞬間、世界は二人だけのものになった。
深雪の身体は小刻みに震えていた。
その震えは恐怖ではなく、長年押し込めてきた想いがようやく解き放たれたせいだと分かる。
「……最初の夫も、前の夫も……私を本当には抱きしめてくれませんでした」
かすれた声で語られた彼女の過去。
最初の夫には別に想う相手がいた。だから、形だけの結婚のまま彼は彼女を置いて去ってしまった。
二人目の夫は老齢で病に伏せており、深雪の献身を受けながらも、最後まで穏やかに彼女の隣で人生を閉じた。
「私は……ただ一度でいいから、心から愛する人に全てを委ねたいと思っていました」
「深雪……」
その声に胸が締めつけられる。
彼女は過去の孤独をすべて背負いながら、それでも目の前にいる俺を選んでくれた。
俺は強く抱きしめ、耳元で囁く。
「深雪、俺は君を尊敬するよ。ここまで自分を懸命に磨き、守り続けてきたことに。だから……必ず君を幸せにすると誓う」
彼女の大きな瞳から、涙が一筋こぼれ落ちる。
「はい……それだけで十分です。私は紗彩さんとは違う、私なりの形で愛してもらえれば、それが幸せですから」
その言葉に胸の奥が熱くなる。
俺は彼女をもう一度強く抱きしめ、彼女もまた力いっぱい俺にしがみついた。
「隆行さん、とお呼びしても……いいですか?」
「ああ、もちろんだ」
「……隆行さん」
名前を呼んだだけで、彼女の声は震え、涙まじりの笑顔が咲いた。
それは長い孤独を越えた者だけが見せる、本物の幸福の色だった。
「動いてください……私の心を、包んでください」
「わかった。これからはずっと一緒だ」
互いに寄り添い、額を合わせる。
心臓の鼓動が重なり、二人の間に温かな光が広がる。
「……愛しています、隆行さん」
「俺もだ、深雪」
それは単なる言葉ではなかった。
魂が繋がり合い、二人の絆が確かに結ばれた瞬間だった。
深雪と固い誓いを交わしたその直後――。
「……さぁ、今度は寂しがりのお姫様の番ですよ」
にっこりと笑った深雪が、すっと指先を扉の方へ向けた。
俺はハッと息を呑む。スピリットリンクを通じて伝わってくる、もうひとつの鼓動。
「紗彩……?」
そう、そこには確かに紗彩がいた。
ドアの向こうに身を潜めながらも、彼女の心の震えが、俺にも深雪にも手に取るように伝わってくる。
「……大丈夫、大丈夫……許容できる。出来るって決めたんだから……嫉妬しちゃダメ、嫉妬しちゃダメッ」
扉の向こうから微かに聞こえた呟きに、胸が締め付けられた。
紗彩は――自分に言い聞かせながら、必死に堪えていたのだ。
俺と深雪が心と体を重ねている、その間ずっと。
扉一枚隔てた隣の部屋で、ひとりきりで。
ブツブツと自分に言い聞かせるようにつぶやく紗彩。
けれども、その声は震え、涙をこらえる気配がありありと伝わってきた。
俺は深雪と心を重ねている最中でも、扉の向こうにいる紗彩の気配を確かに感じ取っていた。
――ずっと隣の部屋で、俺たちの声を聞いていたのだ。
「紗彩」
「た、隆行さん……終わったんですか!?」
扉を開けると、そこには目を真っ赤に腫らし、うずくまって泣きじゃくる紗彩の姿があった。
頬を伝った涙が膝にシミを作り、見ているだけで胸が痛む。
「こんなに泣いて……やっぱり無理していたんじゃないか」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな。俺は紗彩の覚悟を受け取ったんだ。だから深雪を受け入れたことは後悔していない。でも――紗彩を泣かせたかったわけじゃない」
俺は彼女を引き寄せ、強く抱きしめた。
「うぅ……ごめんなさい、私……」
「いいんだ、分かってる。さあ、約束だ。今度は君の番だよ」
「ぇ、隆行さんっ、ま、待ってください!」
驚く紗彩をお姫様抱っこで抱き上げ、そのままベッドへと運ぶ。
深雪はにっこり笑い、紗彩を優しく迎え入れた。
「紗彩さん……ありがとうございました。私、こんなにも幸せな気持ちになれたのは初めてです」
「深雪さん……」
ベッドに横たえられた紗彩を、深雪がそっと抱きしめ、頬を涙で濡らしながら感謝を告げる。
その真摯な言葉に、紗彩もまた微笑みを返した。
「ごめんなさい、深雪さん。私、覚悟したのに……」
「いいんです。その気持ちは当然ですよ。だから――私はあなたともっと仲良くなりたいんです」
二人は固く手を握り合い、視線を交わした。
俺はその光景に胸を打たれる。
恋のライバル同士が、互いを認め合っている――そんな奇跡のような瞬間だった。
「隆行さん。私たち二人で、あなたを愛します。どうか、受け止めてくださいね」
紗彩の言葉に、俺は深雪と紗彩を同時に抱き寄せ、強く誓いを込めてキスを交わした。
三人の心が、確かに一つに結ばれていく。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝。
俺の胸の上で、二人の恋人が猫のように甘えながら眠っていた。
「んにゅ……おはようございます、隆行さん」
深雪が囁くように目を覚ます。
「おはよう、深雪。体は大丈夫か?」
「はい。むしろ、不思議と元気になっている気がします。……鏡を見るのが楽しみですね」
少女のように微笑む深雪に、思わず俺の顔もほころぶ。
「……むにゅぅ、隆行さん……」
隣で寝言を漏らす紗彩に、二人で思わず笑い合った。
「彼女がいなかったら、私はこんなに幸せになれませんでした。隆行さん、不束者ですが……末永く可愛がってくださいね」
「もちろんだ。二人が俺を見限らない限り……いや、たとえ嫌われても、俺は二人を愛し続ける」
深雪は感極まったように涙を浮かべ、そっと唇を寄せた。
そこに紗彩も目を覚まし、頬を赤くして甘えるように言う。
「私も……キス欲しいです」
「はは、しょうがないな」
三人で笑い合いながら、朝を迎える。
――が、ふと時計を見た瞬間、俺は血の気が引いた。
「か、かかか、会社に行く時間が!!」
「きゃあーーっ!遅刻ぅううう!」
「あらあら大変。急ぎませんと」
バタバタと着替えて飛び出す俺たち。
奇跡的に遅刻を免れ、出社して顔を見合わせた瞬間、三人で大笑いしてしまった。
前途多難だが、きっと楽しい未来が待っている。
そう信じて、俺は二人と共に歩むこれからの人生を思い描いた。




