第10話 出会いは偶然から
愛沢深雪――その名を知る者は少なくない。八年前までは、日本でも指折りの資産家「奉龍院上之介」の後妻として、世間に知られていた女性だ。
五十歳以上も年が離れていたが、深雪は本気で夫を愛していた。奉公人として屋敷で働いていた頃、主であった上之介に見初められ、周囲からは散々なやっかみを受けた。だが、深雪にとって大事だったのは世間の噂ではない。最初の夫に愛されず、仮面夫婦を演じてきた自分を救ってくれたのが、この人だったからだ。
病に伏しがちだった上之介との間に、男女の営みはなかった。だが彼は純粋に癒しを求め、深雪は安らぎを与えた。二人は互いの孤独を埋めるように寄り添い、その日々に偽りはなかった。
――だが、すべては八年前に崩れ去った。
夫の死と共に、深雪は冷酷な遺産争いに巻き込まれる。遺書には「家督は長子へ」と記されており、後妻である深雪に居場所はなかった。彼女を妾にしようと迫る俗物の長子に背を向け、誓約書にサインして屋敷を去る。
それでも、上之介は最期に深雪の未来を守っていた。五十年分の家賃を前払いした高級マンションの一室、潤沢な資金。深雪は涙しながら、その愛に応えるようにトレーダーとして生きる道を選んだ。
今でも夫の写真を大事に抱きしめる彼女にとって、その愛は決して偽りではなかった。
「もう誰も愛さない。ずっと一人で生きていこう」
そう決意していた。
しかし――変化は、唐突に訪れる。
四年前。水無月コーポレーションの株主総会。
場の片隅で、ひとり目立たぬように席にいた深雪は、偶然ひとりの男性を目にする。篠宮隆行。その瞬間、胸を突き抜けるような衝撃が走った。
一目惚れ。
なぜか。若き日の上之介にそっくりだったからだ。
理由は単純でありながら、深い。隆行は若き日の上之介に驚くほど似ていた。外見だけではなく、純朴で人畜無害そうに見える一方で、不思議と大物めいた気配を纏っている。奉龍院で魑魅魍魎と渡り合い、長年「人」を観察してきた深雪だからこそ気付けたのだろう。だが、そのときは名前すら聞けず、会釈ひとつで終わった。
周囲は気づかないだろう。だが長年、奉龍院という魔窟のような家で人の欲を見抜いてきた深雪には分かった。この人は特別だ、と。
――それが始まりだった。
三年前、奉龍院の縁者たちに住まいを潰され、行き場を失った深雪は、偶然にも篠宮の隣室に入居する。そこから始まった隣人としての日々。
隆行は紳士的で、不器用で、誠実だった。晩酌を共にし、食事を分け合い、ささやかな交流を重ねる中で、深雪は寂しさを癒やされていった。無防備に誘惑することもあった。胸元を大きく開いた服で訪れたり、酒に酔ったふりをして彼の前で眠ってみせたり。しかし隆行は理性を崩さず、シーツを掛けてやるだけだった。その優しさに、深雪は複雑な感情を抱いた。残念でありながら、嬉しくもあったのだ。
篠宮は、何度も葛藤しながらも、決して一線を越えなかった。
残念さと、安堵。複雑な気持ちが深雪を苛む。
「どうして、私は勇気を出せないのだろう」
そんな想いを募らせたまま三年が過ぎた。今日こそは、今日こそは告白を──そう思いながらも、経験の浅さから一歩を踏み出せずにいた。
――そして、運命の日が来る。
帰宅途中、彼が若い女性と部屋に入っていく姿を目にした瞬間、深雪の世界は暗転した。
嫉妬に胸を焼かれ、彼女は薄い壁に耳を寄せ、隣室から聞こえる声に涙を堪える。やがて聞こえた言葉は、信じがたいものだった。
『神力を有する人には、運命で繋がった特別な女性が見える』
『つまり、ハーレムを作りなさいって神様が……』
「神力」「運命の女性」「ハーレム」──断片的に聞こえてきた言葉は荒唐無稽で信じがたいものだった。しかし、深雪は別の可能性に胸を震わせる。
突飛な話。けれど、深雪の胸には奇妙な希望が芽生えた。
――もし私も、その「運命の女性」に含まれているのなら?
壁越しに響く二人の笑い声や甘い囁きは、彼女の心を嫉妬で灼きつけた。同時に、心の奥底に眠っていた欲望をも揺り起こした。若い女性には敵わない──そんな劣等感に苛まれつつも、胸の奥では「それでも彼を諦めたくない」と強く願っていた。
再び壁越しに聞こえてきた会話が、答えを与える。
「実はさっき会った愛沢さんも、違う色だけど光って見えたんだ」
「……はぁ、いくら何でも早すぎるよ」
光。
自分が光って見えた――それが意味するものはひとつ。
深雪は頬を押さえた。久しく忘れていた鼓動の高鳴り。
「……私にも、まだチャンスがあるの?」
もちろん、篠宮が「一番」に選ぶのは紗彩だろう。それは直感で理解した。あの娘の想いは純粋で、あまりにも強い。勝てない。
――だからこそ、自分は「二番目」でいい。
かつて上之介を支えたように、今度は篠宮を陰から支える存在になればいい。出しゃばらず、彼と紗彩の幸福を壊さずに、それでも寄り添える女であればいい。
胸の奥で芽生えたのは、確かな決意だった。
「もう一度、人を愛してもいいのなら……私は、この人と生きたい」
やがて我慢できず、深雪はインターホンを押す。涙ながらに彼の無事を気遣い、しがみつく。その姿には計算もあった。だが同時に、それは本物の感情でもあった。彼を案じ、そして彼を求める、どうしようもなく複雑な心情だった。
そこで出会ったのが水無月紗彩。隆行の隣に立つその女性に対し、最初は強烈な嫉妬を覚えた。だが、会話を交わすうちに不思議と嫉妬心は薄れ、妹のように愛おしく思える瞬間が訪れた。紗彩の真っ直ぐな想いの強さを目の当たりにしたからだ。自分では敵わない、と悟らせるほどの純粋さだった。
そして夜。再び壁越しに聞いた隆行と紗彩の会話が、深雪に新たな希望を灯す。「愛沢さんも光って見えた」との言葉。紗彩が肯定する声。──それはつまり、自分もまた「運命の女性」のひとりとして数えられているということ。
涙がにじむほどの歓喜と、押し寄せる戸惑い。けれど、深雪は決めた。独占しようとは思わない。水無月紗彩に勝つことなどできない。ならば、自分は二番目でいい。影となり、彼を支え続ける存在になろう。
八年前に夫を失ってから閉ざしてきた心。その奥底に再び灯った炎は、彼女を迷いから解き放った。深雪は胸に誓う。篠宮隆行と共に生きる道を選び、彼が幸せであるために、自分は静かに寄り添っていこうと。




