始まり
異世界に転移した少年。
宿したのは、古の闘神の力。
素手で魔物を打ち砕き、
仲間を守るために拳を振るう。
だがその力は、
使うほどに体を蝕む“神憑き”の業だった。
拳ひとつで運命を殴り壊せ。
これは――
“守るために強くなる”少年の、闘神継承譚。
朝は、いつも静かだ。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、天井を見上げる。
特別な理由はない。癖みたいなものだ。
「……起きるか」
小さく呟いて、布団から出る。
音を立てないように床に足をつけるのも、もう無意識だった。
キッチンに行くと、母が朝食の準備をしている。
フライパンの音と、味噌汁の匂い。
「おはよう、恒一」
「……おはよう」
会話はそれだけだ。
それで十分だった。
向かいの席には、妹が座ってスマホをいじっている。
「今日、部活あるから遅いー」
「……帰り気をつけろよ」
「はーい」
まともに言葉を交わす相手は、母と妹だけだ。
それで困ったことはない。
人と話すのは、得意じゃない。
何をどう言えばいいのか、正直よく分からない。
だから学校では、必要最低限しか口を開かない。
通学路は、できるだけ人の少ない道を選ぶ。
誰かとすれ違うたび、視線が逸れていくのにも慣れた。
――目つきが悪い。
――近寄らない方がいい。
そんな評価をされていることは、知っている。
別に、睨んでいるつもりはない。
ただ、ぼんやり前を見ているだけだ。
学校に着くと、教室の空気が一瞬だけ変わる。
それも、もう日常だった。
「……黒瀬来たぞ」
ひそひそとした声。
机を引く音。
誰かが距離を取る気配。
俺は気にせず、自分の席に向かう。
窓際、後ろから二番目。
ここが一番、落ち着く。
俺は、別にケンカが好きなわけじゃない。
むしろ、できるならしたくない。
それでも、絡んでくる奴はいる。
暇を持て余した不良だとか、他校の連中だとか。
たまに、わざわざ学校まで乗り込んでくる。
「黒瀬ってのがいるんだろ?」
そういう話を聞くたび、溜息が出る。
俺が呼んだわけじゃない。
けど、なぜか――
その矛先は、いつも俺に向く。
「また不良来たらしいよ」
「黒瀬くんのせいじゃない?」
「正直さ……別の学校行ってくれないかな」
笑い声の裏で、そんな言葉が聞こえる。
男女関係ない。
皆、同じ顔をしている。
――怖いものを見る目だ。
別に、怒りはしない。
慣れている。
ただ、少しだけ、胸の奥が重くなる。
俺が唯一誇れるのは、格闘技だ。それには理由がある。
親父は、元特殊部隊員で、帰ってくることは少なかったけど、小さい頃から、親父が教えてくれた。
「いいか、恒一」
父は、いつも同じことを言っていた。
「弱い者を守れる男になれ」
その言葉だけが、今も残っている。
けど、親父は、もういない。
殉職だった。
怖がられるのは、仕方ない。
俺は、そういう人間だ。
校舎を出ると、夕方の空気がひんやりと肌に触れた。
黒瀬は鞄を肩に掛け、人気の少ない道へと足を向ける。
駅前へ向かう大通りを避けるのは、癖のようなものだった。
理由は特にない。
ただ、人の少ない場所の方が、落ち着く。
路地に入ると、聞き慣れた鳴き声がした。
「……いたか」
黒瀬は足を止め、しゃがみ込む。
電柱の影から、痩せた小猫が顔を出した。
警戒する様子はない。
鞄の中から、小さな猫缶を取り出す。
それは、いつも持ち歩いているものだった。
「ほら」
蓋を開け、少し離れた場所に置く。
猫は一瞬だけ黒瀬を見上げ、それから近づいてくる。
食べる音を聞きながら、黒瀬は黙ってその場に座った。
指を伸ばすと、猫は逃げるどころか、頭を擦り寄せてくる。
「……お前は、警戒心ないな」
黒瀬の表情は、ほんの僅かに緩んでいた。
その様子を、通りすがりの人間が横目で見る。
ひそひそとした声。
警戒する視線。
そんな目に、もう慣れている。
黒瀬は気にせず、猫の背中をゆっくり撫でた。
喉を鳴らす振動が、掌に伝わる。
しばらくして、猫缶が空になる。
「……じゃあな」
立ち上がると、猫は名残惜しそうに鳴いた。
それでも、黒瀬は振り返らずに歩き出す。
駅前に近づくにつれて、人の数が増えていく。
店の明かり、行き交う声。
黒瀬は、少しだけ遠回りして帰ろうとした。
そのときだった。
「なあ、ちょっといいじゃん」
耳障りな声。
立ち止まった先に、二人の女子高校生と、三人の男がいた。
女子生徒たちは、明らかに嫌がっている。
体を引き、視線を逸らし、逃げ道を探している。
黒瀬は、溜息をついた。
——面倒だ。
だが、足は止まらなかった。
「……お兄さんたち」
低い声で、そう言った瞬間、男たちが振り返る。
「嫌がってるじゃないですか」
黒瀬の目つきが、自然と鋭くなる。
男の一人が、黒瀬を睨みつけた。
「なんだよ、兄ちゃん」
隣の男が、鼻で笑う。
「正義感か? 今どき流行んねーぞ、そういうの」
もう一人が、一歩前に出る。
「つーかよ、邪魔なんだよ。どけ」
三人の視線が、一斉に黒瀬に集まる。
距離が、じわじわと詰められていく。
黒瀬は、小さく息を吐いた。
——めんどくさ……
その呟きは、本人が思っているよりも、はっきりと聞こえた。
「……あ?」
男の顔が、歪む。
「今、なんつった?」
「調子乗ってんじゃねえぞ」
空気が、一気に荒れる。
「すかしてんじゃねーぞ!!」
怒鳴り声と同時に、男が殴りかかってきた。
踏み込んできた腕を、半身でかわす。
体重移動と同時に、腹へ一撃。
男は息を詰まらせ、その場に崩れ落ちた。
「……っ!?」
残りの二人が、慌てて距離を詰める。
一人は腕を振り上げ、
もう一人は、背後に回ろうとする。
黒瀬は一歩踏み出し、先に来た方の肘を叩き落とす。
関節が悲鳴を上げ、男は声にならない叫びを漏らした。
背後の気配に、振り向かない。
肘を引き、体を捻り、
振り返りざまに拳を叩き込む。
三人目の男は、そのまま地面に倒れ込んだ。
女子高校生たちは、呆然と立ち尽くしていた。
「早く行ってください…」
黒瀬が言うと、二人は我に返る。
「す、すみません!」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げ、駆け出していく。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、前を向いた、その瞬間だった。
背中に、冷たい感触。
次いで、焼けるような痛み。
黒瀬の視界が、一瞬揺れた。
振り返ると、先ほど逃げたと思った男が、震える手でナイフを握っていた。
黒瀬は、すかさず拳を叩き込む。
男は、その場に崩れ落ち、動かなくなった。
黒瀬は、壁に手をつき、体を預ける。
力が、抜けていく。
周囲がざわつき、人が集まってくる。
誰かが叫び、誰かが電話をしている。
音が、遠い。
思考が、途切れ途切れになる。
(あぁ…何やってんだ…俺…ここで死ぬのか…)
(母さん…あかり…帰れそうに…ない…わ……)
黒瀬の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
……。
どれくらい、時間が経ったのか分からない。
黒瀬は、微かな冷たさで意識を引き戻された。
背中に伝わる感触が、硬いアスファルトではない。
土だ。
湿った、柔らかい感触。
ゆっくりと、瞼を開く。
そこは――夜の森だった。
街灯はない。
建物もない。
頭上には、黒く重なり合う木々と、わずかに覗く星明かり。
虫の声。風が葉を揺らす音。
黒瀬は、ゆっくりと上体を起こした。
そこには、見たことのない星空が広がっていた。
雲ひとつない夜。
無数の光が、静かに瞬いている。
黒瀬は、しばらくその光を見つめていた。
「……死んだ…の…か……?」
声は、驚くほど落ち着いていた。
恐怖よりも、戸惑いの方が大きい。
身体を見下ろす。
痛みはあるが、致命的な感覚はなかった。
生きているのか。
それとも、もう死んでいるのか。
分からない。
黒瀬は、ゆっくりと息を吐いた。
「……まあ、いいか」
深い夜の森で、
ただ星を見上げていた。
毎日更新予定です。
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【神縁】も随時更新致しますので、よろしくお願いします。




