俺をフッた女子に拉致されて、逃げ場のない同棲生活が始まりました
世界が終わった日の話をしよう。
あれは大学のサークルの打ち上げの日だった……
サークルの飲み会っていうと、だいたい安~い居酒屋になるものと相場が決まっている。
そして大学生の大好物である『唐揚げとポテト』は外せない。
あとは、女子が好きそうな名前のサラダを頼めば完璧だ。
悪ノリした誰かが突然コールを始めたり、意味不明なゲームを始めたり、毎度のことながら騒がしい。
そんな中で、俺――佐藤和真はジョッキを握りしめたまま、ずっとある女性をチラチラ見ていた。
一ノ瀬さくら――さん。
彼女はサークルの中だけじゃなく、大学でも目立つほどかわいくて……いるだけで場が華やいで見えるほどだ。
そんな一ノ瀬さんが笑おうものなら、どんな男だってノックアウトされるに決まっている。
女子からだって人気があって、俺みたいな普通を絵に描いたような男とは住む世界が違うと思ってたんだ。
――でも。
新歓の準備で一緒に残った夜。
資料を片付けながら、どうでもいい話で笑い合った夕暮れのキャンパス。
終電を逃して、駅前で缶コーヒーを飲んだあの時間……
――勘違いかもしれないけど、信じたくなっちゃうんだって。
「やほ~和真くん、飲んでる?」
不意に一ノ瀬さんから声をかけられて、ビクッとしてしまう。
「えっと……あ、うん! 飲んでる」
ダサっ! こんなんじゃ、意識してるのバレバレじゃんか……
持っていたジョッキの中身は、いつの間にか半分以上なくなっていた。
正直、一ノ瀬さんを盗み見しながらチビチビ飲んでいたせいか、どれくらい飲んだのかよく覚えていなかったりする。
一ノ瀬さんは俺の向かいに座って、少しだけ身を乗り出してくる。
「ねえねえ……今日さ、人数多くて盛り上がってるね」
「まあ……そうだね。いつもよりは多いかも」
「だよね。ちょっと外、出ない? 新鮮な空気吸いたいし」
マジ? 一ノ瀬さんと2人っきりの時間?
――チャンスだ。今日こそ俺は告白する。
彼女について店の外に出ると、夜風が涼しくて心地良かった。
「ごめんね、付き合わせて」
「いやいや、大丈夫だよ」
狭い場所にギュウギュウに閉じ込められていたから、ちょっと暑かったしな。
一ノ瀬さんの提案は逆にちょうど良かったくらいで……。
「でね……こないだなんか陽毬が――」
「へえ~、そうなんだ」
優しい一ノ瀬さんは、俺が退屈しないようにいろいろな話題を振ってきてくれて……俺みたいな平凡な男でも、彼氏になれるんじゃないかって本気で思ってしまう。
でもさ……告白する絶好のタイミングなのに、動けない俺ってどうなの?
頭の中で何度も告白の言葉を練習してきたのに、いざとなると言えねえ~!
だめだ……逃げるな。言うって決めたんだろ?
「一ノ瀬さん」
ヤバい、真面目な感じ出ちゃったかも。
「ん? なに?」
それなのに彼女は、ちゃんと俺の目を見てくれる。
なんていい子なんだ……って違う! 告白するんだ!
ああ、もうっ! 頭の中が爆発しそうだ!
「えっと、俺……」
言うぞ――ここで言わなきゃ、俺は男になれない気がする。
「一ノ瀬さんのことが――」
「……あ、ごめん」
彼女の眉が下がり、少し困った顔になっていた。
片手で口元を押さえて、申し訳なさそうに俺から視線をそらす。
「その、今はちょっと……」
見事な玉砕だった。
その言葉を最後に、彼女は小走りで店の中へ戻っていく。
つまり『爆死した俺、ひとりで取り残されるの図』が完成したのである。
「今日は、やけに冷えるな……」
夜風が、ポッカリと空いた胸の穴に染み入ってくる。
『今はちょっと』
勇気を振り絞った告白は、テンプレどおりに断られた。
まったく、俺は何を期待してたんだろう。
わかってたことじゃないか……それなのに……体に力が入らない。
しばらく店に戻れそうもない。賑やかなあの場所に行くのが辛いから。
気がついたら家に帰っていた。どうやって帰ったのかも覚えていない。
天井を見つめながら、さっきの光景を何度も思い返してしまう。
困った顔の一ノ瀬さんが「今はちょっと……」というシーン。
ダメだった……俺は完全にフラれた。
◆
「はぁ……」
私――一ノ瀬さくらは、トイレの個室で深いため息を吐いた。
タイミング最悪! 本当に最悪!
なんで今なの!? まったく!
心の中で叫びながら、両手で額を押さえる。
よりによって、限界のタイミングで。しかも、あんな真剣な声で。
違うの……違うのに……
告白されるのが嫌だったわけじゃないのに。
ううん。むしろ……ずっと待ってた。頭が真っ白になるほど嬉しかったのに。
でも夜風で冷えちゃって、もう限界で……と、トイレが我慢できなかっただけなの!
好きだから、ちゃんと返事をしたかった。あのままじゃ中途半端な答えになっちゃうから……
――戻ったら、和真くんいるよね?
トイレから戻って急いで席を見渡したけど、そこに和真くんの姿はなくて。
さっきまでいた店の外にも、和真くんはいなかった。
「……もう。なんでよ」
ズキズキする胸に、そっと手を当てる。
逃げられちゃった……いや、違う。私が逃がしちゃったんだ。
でも、まだ大丈夫……和真くんは私のことが好きに決まってる。
あの目は、どう見ても私に告白するつもりだったもん。
なら――
「囲い込めば、いいだけだよね」
私はカバンからスマホを取り出して『ある人』に連絡する。
――私を置いていったことを後悔させてあげるわ。
◆
あれから、3日。
大学に行って講義を受けて、バイトをして、飯食って、寝る。
いつも通りの生活を、いつものリズムでこなす。いわゆる自動運転モードだ。
何日かすれば忘れるに決まっている、すぐに元気になると思っていたのに……どうしても胸の奥にあるモヤモヤが晴れない。
あれからサークルには顔を出していない。っていうか出せない。
飲み会の一件から、一ノ瀬さんに会うのが怖くなってしまった。
どんな顔をして会えばいいんだろう。彼女となんて会話をすればいい?
『今はちょっと……』
あのシーンが、何度も頭の中で再生される。
完膚無きまでにフラれたのに、心のどこかでまだ整理がついていないんだろうか?
実は、コンビニに寄ってビールを買ってきてある。
彼女を早く忘れたい。今日はやけ酒だ『飲んで嫌なことを忘れよう作戦』を決行する。
だけど俺のアパートがおかしい。正確には入口のドアなんだけど……
「……なにこれ?」
ドアに、白い紙が貼られているのだ。
『退去済み・入居者募集中』
「……はあ!?」
まったく意味が理解できない。
俺まだ住んでますけど?
「とりあえず、中に入るか……っておい!」
うそだろ、鍵が変わってる!
見たこともないようなゴッツい電子ロックに付け替えられてて、鍵を差す場所すらない。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」
そうだ、大家さんに連絡しよう。
俺がスマホを取り出した瞬間、タイミングを見計らったようにメッセージが届いた。
差出人は、俺の父さん。
なんだよこれ……嫌な予感しかしないんだけど!
『父さんの勤める会社が一ノ瀬グループに買収されてな。新会長から直々に「娘の警護を息子さんに」と頼まれた。異論は認めんそうだ。お前のアパートは解約し、荷物も運んである。仕送りは一旦ストップだ。和真は会長が用意したマンションに行ってくれ。家族の運命は和真に掛かっている。頼んだぞ』
「…………は?」
まったく意味がわからない。なにこの悪い冗談。
一ノ瀬グループってなんだ? 父さんはその会長と知り合いってことか?
それに同居しろって? 俺が家族の運命をってなんだよ?
「ああ、くそっ!」
よくわからないけど、家族を人質に取られたってことか?
「俺が一体なにをしたんだよ……」
その時、低いエンジン音とともに1台の車が来てアパート前で止まった。
振り返ると、この古いアパートには場違いなほどの高級車。
車体が長くてピカピカの黒塗りのやつ。ヤバい雰囲気しかしない。
後部座席のドアが開くと、そこから現れたのは――1人の女子だった。
「嘘だろ……」
女子は見覚えがあるどころの騒ぎじゃない。3日前に俺をフッた張本人。
そう、一ノ瀬さんだ。
「……迎えに来たよ。和真くん」
「……えっ、迎え?」
この状況がまったく呑み込めない。
一ノ瀬さんが、なぜ俺のアパートを知っているんだ?
気のせいか、一ノ瀬さんの目の下にうっすらクマが出来ているような……
「もう連絡きたよね?」
「いや、ちょっと待って。何これ? ドッキリか何か?」
うろたえる俺に、一ノ瀬さんは笑顔でゆっくり近づいてくる。
「そのままの意味だよ。それに、ドッキリじゃないから」
「そのまま……って?」
「私たち、今日から一緒に住むってこと!」
「はぁ!?」
驚きすぎて目ん玉が飛び出るかと思った。
「和真くんは、これから私の管理下に置かせてもらいます」
うん。柔らかい話し方なのに、容赦がない内容だ!
「どういうことっ!? いや、それよりも俺、この前……その……」
告白して、断られてるじゃん!
「和真くん。あの時、逃げたでしょ」
「いや……その」
だって、気まずくて……
「だからね……」
彼女が少しだけ微笑んだ。
だけど、その笑顔は、今まで一ノ瀬さんが見せたことのないような迫力が……!!
「和真くんが、逃げられない状況を用意したの」
俺は反射的にツバをゴクリと飲み込んだ。
「大丈夫。和真くんに危ないことをさせるつもりはないし、生活も心配いらないよ? 私が養ってあげるから。その代わり和真くんは――」
――本気で言ってる。
一ノ瀬さんは、俺の目をまっすぐ見ていて。とても嘘をついているように見えない。
「私の家に来てもらうことが決まりました」
「それって……断れるの?」
「うーん、止めといたほうがいいと思うよ?」
いや、その顔……!? 悪い人がよくやるやつ!!
その時、父さんのメッセージが頭をよぎる。
『俺たち家族の運命は和真に懸かっている』
まさか、一ノ瀬グループって……目の前にいる一ノ瀬さんが手を回したってこと……?
仕送りは止められ、家は住めなくなり、父さんの勤める会社も押さえられた。
俺にあるのは、コンビニで買ったビールだけ。
「さ、はやく行こ?」
「………………」
こんなの、逆らえるはずがない……
俺はどういうわけか――自分をフった女子と同棲することになってしまった。
◆
いやホント、これどういう状況?
俺なんかが一生乗ることはないと思っていた高級車に乗せられて、隣には好きな女子が座っている。
だけど――ひとつもロマンティックじゃない!
こんなの、めちゃめちゃ気まずいだけっ!
静かな車内にはロードノイズと、時折ウインカーの音が聞こえるくらい。
隣に座る一ノ瀬さんは、寝てるんじゃないかってくらい、ずっと目を閉じていて一言も喋らない。
そんな一ノ瀬さんは……信じられないくらいかわいくて、ふわりと甘い香りがする。
でもさ――冷静に考えたら、これって……拉致被害ってやつじゃないの?
お巡りさ~ん! 事件です!
◆
着いたのは、俺のボロアパート100個あわせても太刀打ちできない高級タワーマンションだった。
「……うわぁ」
セキュリティ完備、オートロックに防犯カメラ。エントランスはホテルのロビーより広い。
どう見ても、俺が入っていい場所じゃない。
それなのに、エレベーターに乗って最上階へ向かう間も、一ノ瀬さんは無言。
「ここよ。さあ入って……」
一ノ瀬さんがようやく声を出したのは、部屋に通されたときだった。
「あの……これって」
いやっ! リビング広すぎ問題勃発!!
夜景を一望できるこのロケーション、センスのいい家具といい、なんという贅沢すぎる空間。
それなのに……ソファの上には、俺が好きだと言っていたアニメのクッションが置いてある。
何じゃ……この違和感。
「一ノ瀬さん、このクッションって……俺が前に話してたやつだよね?」
「……偶然よ」
「でもコレって、俺が好きなアニメの――」
「じゃあ、そこに座って。飲み物を出すわ」
あー。あからさまに話題を変えようとしてる……
一ノ瀬さんに指定されたダイニングセットに大人しく腰掛ける。しばらく待っていると、一ノ瀬さんがお洒落なグラスを2つ持ってきた。
これって、俺が大学でよく飲んでるジュースだよね?
俺が好きな飲み物をわかってて出してるってこと?
いや、まさか……これもただの偶然だよな?
「じゃ、ルールの説明をするわね」
「る、ルール?」
「そう、同棲ルール。和真くんは私の『管理下』に入ってもらうんだから。当然でしょ?」
絶世の美女に管理される――なんとも背徳的で甘美な響きだ。
――家族を人質に取られていなければ、だけど。
「同棲ルールその1。私たちは仮同棲とします」
一ノ瀬さんが指を1本立てて宣言する。
「仮?」
「そう。それとこの関係は期限付き。期間は、とりあえず1ヶ月ってところかしら」
「……1ヶ月」
長いような……短いような微妙な期間だな。
「その間に私が、和真くんにOKを出すかどうかを決めるわね」
「OKって……なにを――」
「ルールその2」
俺の言葉を遮って、彼女はさらに指を立てる。
「同棲中の関係は、友達以上恋人未満とします。キス禁止、私に手を出すのも当然ダメ」
まあそうだろうな。だって俺たちは恋人じゃないから。
うん。まあ……これには納得できるぞ。
「だけど、私から手を出すのはOKとします」
「えぇっ!?」
うぉい! 圧倒的な理不尽ぞ? 俺の人権はどこいった?
「ルールその3。和真くんの門限は18時です。あんまり遅くなると私が寂し……じゃなくて同棲の意味がなくなるでしょ? 例外は私が同伴した場合に限ります。それ以外は認めません」
「いや、俺っ、バイトが……!」
「それについては大丈夫。バイトを辞める手続きはすでに終わっているわ。心配しなくていいのよ? 私が養ってあげるって言ったでしょ」
こんな……なにからなにまで手回しが早すぎるって。
さっきから……ぜんぜん理解が追いつかない。
「和真くんは、これからの1ヶ月を使って全力で私を惚れさせてください。それから私の返事をします」
「ちょ、待って。返事って……」
「え? 告白の返事だよ。あの時の続き……ちゃんと、最後までやらないとね」
「いやいやいや! 俺、あの時フラれたと思って――」
「だから! それは誤解なの」
お笑い芸人かっ? てくらい被せ気味に言われた。
「和真くん。私がちゃんと話す前に、逃げたでしょ?」
「いや、あれは…………」
言えない。先に逃げたのは一ノ瀬さんじゃないのか? なんて言えない。
「私にOKしてほしかったら、態度で魅せてね」
「は、はい…………」
俺は圧倒的に不利な立場だ。
疑問はいっぱいあるけど、ここは頷くしかない。
「じゃ、最後のルールね。和真くん、ついてきて」
「お、おう……」
彼女は立ち上がると、隣の部屋まで歩いていきドアを開けた。
「……え?」
部屋を覗くと大きなベッドがドンっとひとつ置いてある。どうやら寝室……みたいだ。
あのベッドは、キングサイズっていうのだろうか?
初めて見たけど、すっげーデカいな。普通に横向きでも寝れそうなほどの幅があるぞ。
「私と和真くんはこのベッドで一緒に寝ること」
「な、なんでぇぇーーーー!?」
「同棲するんだから、同じベッドで寝るのは普通でしょ?」
「いやいやいやいや!!」
こんなの全然普通じゃねえ!
一ノ瀬さん…………めっちゃヤバい人じゃん!
「もう~和真くんってばっ。別に……何かするとは言ってないでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
それはそうだけど、そうじゃないっていうか。
いいのか? 俺が、こんなかわいい女性と一緒のベッドで寝るなんて。
「それに……他に寝るところなんてないしね」
いや、めちゃめちゃ場所あるじゃん!?
この家、ビックリするくらい広いよ? 玄関でも余裕で寝れそうだけど?
「別に、俺はソファでもいいけど――」
「じゃあ、今日からよろしくね。和真くん!」
「聞いてないっ!?」
こうして俺の意味不明で、逃げ場のない同棲生活がスタートした。
◆
それにしても高級マンションってのは静かなんだな。
前住んでたボロアパートとは全然違う。車の音も風の音も、隣人の生活音だって聞こえない。
聞こえるのは――やたらドキドキしてる俺の心臓の音だけ!
――だって、緊張するでしょ!?
隣で超絶かわいい一ノ瀬さんが寝てるんだぞ? 今だって彼女のことが好きで、諦めきれなくて……だけどすごいヤバい人で……わけわかんないって。
大きなベッドだから横幅は余裕があるはずなのに、俺と一ノ瀬さんの距離がやけに近い。
さっきから、めちゃめちゃ距離詰めてくるんだけどぉ!
「おやすみ……和真くん」
「お、おやすみ……一ノ瀬さん」
すぐ横に一ノ瀬さんがいる。
女性特有の甘い香りが脳天を刺激する。彼女の吐息まで聞こえてきそうな距離感。
イカン、これはイカンって。
そっと一ノ瀬さんに背中を向け、ベッドの端に移動する。落ちないギリギリのところまでいくぞ……
「ちょっと……和真くん。一緒に寝るって意味、わかってる?」
「これは、間違いがないようにしてるだけで……」
「もっとこっちに来なさい」
「でも……」
「ふーん。そっかぁ、同棲ルール破るんだ……和真くん。へぇ~」
ヤバい! 一ノ瀬さんが怖い!
ここは大人しく従うしか……
「少々お待ちください。今そちらに向かいます」
「よろしい……」
くぅ~近い。近すぎるって……
薄明かりで彼女の鎖骨がうっすら見えるし、体温すら伝わってくるほどに近いよ。マジで生殺しだってば。
これ……俺、寝れるの? 無理じゃね?
そう意識した瞬間、余計に目が冴えてしまう。
天井を見つめる。目を閉じる。開ける。さっきからこれのローテーションだ。
一ノ瀬さんから、微かな寝息が聞こえた気がする。
もしかして……寝たのか?
確認……するか?
「……和真くん」
「うっ、な、なに?」
お、起きてたんだ……あっぶねぇ。
「もしかして、緊張してる?」
「そりゃあ……してない、って言ったら嘘になるって」
俺が正直に答えると、隣から小さな吐息が聞こえてくる。
「そっか。私も」
俺だけじゃないんだ、一ノ瀬さんだって本当は緊張してたんだ。
寝返りを打つような衣擦れの音がして、シーツが揺れる。
もしかして……こっちに向いてる?
「ねぇ……」
耳元で囁き声とか、大変危険です!
それに偶然だと思うけど、その……少し当たってます。
「今日は……何もしないから……」
「……お、おう」
本当、だよな……
「だから、安心していいからね」
「…………」
彼女が決めた同棲ルールでは、俺から彼女をどうこうしようってのは出来ない。
でも、彼女は何でもアリだ。俺の運命は彼女のさじ加減ひとつで、どうとでもなる。
「和真くん」
「……どうした?」
「私……待つのは嫌いじゃないから」
そう言って、今度こそ彼女は動かなくなった。
◆
あれから一睡もできなかった。
――って言いたいけど、実はあの後すぐ寝てしまった。はっはっは。
俺、結構図太い神経してるのかも……
でも一ノ瀬さんは、俺よりも先に起きたみたいでベッドはもぬけの殻だった。
人の家で家主より寝てしまうなんて……あ、でもこれからは俺の家でもあるんだっけ?
寝室を後にしてリビングに向かうと香ばしい匂いが……これはトーストか?
「おはよう、和真くん」
「お、おはよう。一ノ瀬さん」
彼女はもうきちんと着替えていて、髪も軽くまとめてある。
エプロンが妙に様になっていて。まるで一ノ瀬さんが自分の彼女みたいな錯覚に陥ってしまう。
「朝ごはん、できてるよ。起こそうか迷ったんだけど、寝顔が――」
「寝顔が?」
「……ううん、なんでもない」
いや、気になるじゃん。視線を逸らさないで教えてよ。
もしかして俺の寝顔、そんなに酷かった?
ダイニングに行くと、テーブルの上にはトースト、スクランブルエッグ、サラダとスープが2人分用意してあった。
「おお!? こ、これ一ノ瀬さんが……俺のために?」
「う、うん。簡単なものだけど、勘弁してくれる?」
「いやこれ……すごいよ、一ノ瀬さん。最高じゃん!」
俺のいつもの朝飯っていったら、食パンをそのまま食うか、まったく食べないかだ。
……それに比べたらとんでもない豪華な食事だ。しかもかわいい子が作ってくれている。もう、それだけでポイント高い。
「そ……そう? 良かった、じゃあ食べよっか」
朝から美女と向かい合って座るなんて……どんな夢だよこれ。
「……いただきます」
「いただきます」
しかもこの『いただきます』を一緒に言うシチュエーションとか、破壊力高すぎだって。
このトーストも美味いな~。
外がカリッとしていて、中はふわっとモッチリしている。
俺が普段買ってるロープライスなパンとは天と地ほどの差がある。
「すげー美味しい……」
「……でしょ?」
俺がボソッと言った本音に、彼女は目を細めて嬉しそうに笑ってくれる。
「和真くん、スクランブルエッグは醤油派だったよね。はい、どうぞ」
さりげなく醤油を取ってくれたりして……ってあれ?
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「ふふっ」
いや、間違ってないんだけど、醤油派の話なんかしたかな?
でも……この感じってさ。
住む場所も、仕送りも、バイトも、親の仕事にすら手を回されて……とんでもないことに巻き込まれたと思っていたけど。
ひょっとしたら、一ノ瀬さんとの同棲生活……悪くないんじゃないか?
むしろ……好きな女子と同棲できるこの状態って最高なんじゃ?
「和真くん。昨日は、ちゃんと我慢できたね。えらいね」
「一ノ瀬さんが言ったんだろ? 同棲ルールだってさ」
いや、危なかったよ……実際。
でも、我慢するしかないじゃん?
「うん、これはプラス評価だね」
「その……基準ってなんなの?」
俺が尋ねると、一ノ瀬さんは少しだけ身を乗り出して悪戯っぽく微笑む。
「……内緒」
朝っぱらから美女の笑顔は、心臓に悪い……早死にしそうだ。
俺の反応を楽しそうに眺めると一ノ瀬さんはコーヒーを飲んだ。
俺、マジでこの人と同棲してるんだ……
「あ、そうだ。和真くんのお父さんのことだけど」
「ああ……うん。一ノ瀬さんのお父さん。俺の父さんが勤める会社の会長なんだろ?」
俗に言う『家族の運命は俺に懸かってる』ってやつだ。
「私、そんなに悪い子じゃないから……安心してね」
「そうか。てっきり、俺も父さんもハメられたのかと思ったぜ」
「私……和真くんのことハメてないんだけど。その言い方、失礼じゃない?」
一ノ瀬さん……その目つき怖いですって!
特に……あなたの権力とか財力とか権力とか。
「あ、はい……すみませんでした」
「わかってくれたら良いの。そうだ和真くん。大学は一緒に歩いて行こうね。帰りも一緒がいい?」
そこは歩いていくんだ。てっきり、黒塗りの車で行くのかと思った。
「えっと……その」
「ふふっ、なに困ってんの? 冗談だから」
「そ、そっか……」
なんだか、昨日から一ノ瀬さんにハラハラさせられっぱなしだな。
「でも、一緒に行くのは本当だから」
◆
マンションを出ると、朝の空気がいつもより澄んでいる気がした。
「ねえ、和真くん」
「ん、なに?」
「こないだのこと……まだ勘違いしてるでしょ?」
「あの飲み会の……こ、告白未遂のとき?」
「うん」
彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、楽しそうに答えた。
「私が『今はちょっと……』って言ったの、断ったわけじゃないんだよ?」
「じゃあ……なんだったんだよ?」
「あ……あれは、トイレ我慢してただけなの!」
「えっ! それじゃ……」
俺の人生、一ノ瀬さんの尿意のせいで買収されたってこと?
「そのあとちゃんと話そうと思ったのに、和真くんいなくてっ!」
「そっか俺……あの時、家に帰ったから」
「なんで逃げるのよ。和真くんのヘタレ!」
「いやっ! 俺、断られたと思ったんだって!」
「でも……今度は、逃がさないからね?」
いや、怖い! その笑顔が怖いっす!
「そろそろ大学ね……みんなの前では、今まで通りでお願いね?」
「お、おう。わかった。えっと……俺たちは友達で、同じサークルの気の合う仲間……だな?」
「うん、よく出来ました。でも。忘れないでね?」
一ノ瀬さんが急に俺に近づいてきて、耳元で囁いた。
「和真くんは……家では恋人候補なんだからね」
そう言って、何事もなかったかのように歩き出す。
「でも、お触り禁止だからね~!」
「ちょっと、そんなこと、大きな声で言うなって!」
誰かに聞かれたらどうするんだよ!? 変態だと思われるだろ!
……ん? この場合、俺が変態で一ノ瀬さんが被害者って思われるんじゃ?
おいおい……誰も聞いてないよな?
俺はしばらく、その背中を見送ってから深く息を吐いた。
「わかったよ。一ノ瀬さんを惚れさせればいいんだろ?」
朝ごはんの味と、並んで歩いた感覚が蘇ってくる。
――悪くない、どころか。良い。
たぶん、この同棲生活は俺に残された最後のチャンス。
――次こそ一ノ瀬さんにOKと言わせて見せる。
俺の新生活は、始まったばかりだ。
◆
ここまで読んで下さってありがとうございます。
楽しんで頂けたら幸いです。




