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薄壁越しの訳あり姉妹 ~彼女たちの部屋でGを退治したら、彼女たちに猛烈に愛され始めた件~  作者: 藍之介


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第5話 キッチンの背中と、優しい嘘

 食後のお茶――来客用にと買っておいた少し良いほうじ茶――を啜りながら、俺たちは満腹の余韻に浸っていた。

 どことなく温かい空気が、狭い部屋の中で緩やかに流れている。

 ふと、葵さんが居住まいを正し、真剣な瞳で俺を見る。


「あの、佐藤さん。……もしご迷惑でなければ、洗い物をさせていただけませんか?」

「えっ、いやいや! そんなのいいですよ。招いたのは俺だし、片付けなんてさせられません」

「ダメです。ゴ……退治までしていただいて、こんなに美味しいご飯までご馳走になって……これ以上甘えたら、バチが当たります!」


 葵さんの瞳には、揺るがない意志が宿っていた。

 儚げで、少しの風でも折れてしまいそうな印象の彼女だが、こういう律儀なところに妙な頑固さを感じる。


「そうだよ健二さん! お姉ちゃん、家事は得意なんだから! 任せてよ!」

「もう……茜ったら、あなたも手伝うのよ」


 横から茜ちゃんも加勢する。

 二人に迫られたら、折れるしかなさそうだ。


「……じゃあ、お言葉に甘えて、お願いしようかな」


 姉妹はパァッと顔を輝かせてキッチンへと向かった。

 

『あ、茜、スポンジはそっちじゃないって言ってたでしょ』

『えへへ、ごめん。お姉ちゃん、お皿拭く布巾ってどこかな?』

『そこの棚にあるって佐藤さん言ってたよ』


 狭いキッチンに二人が並ぶと、それだけでギュウギュウだ。

 水の流れる音。カチャカチャと食器が触れ合う音。

 そして、姉妹の囁くような会話。

 俺はちゃぶ台の前に座り、その光景をぼんやりと眺めていた。

 

 葵さんの華奢な背中と、揺れる黒髪。

 エプロンこそ着けていないが、その姿はあまりにも日常的で、家庭的だった。

 なんだろう、この既視感のあるような、でも絶対に俺の人生には存在しなかった光景は。

 新婚生活? いや、茜ちゃんもいるし、俺の年齢を考えれば娘がいてもおかしくないのか。

 いや、流石にこんなに大きい娘はいないよな……。

 

 そんなことをぼんやり考えながら、その光景を目に焼き付ける。

 32歳の独身男には眩しすぎる幻影なのだろう。

 胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。


 やがて、片付けを終えた二人が戻ってきた。

 葵さんが、丁寧に畳んだ布巾をちゃぶ台に置いて、改めて俺に向き直った。


「佐藤さん。改めて、今日は本当にありがとうございました。……少しだけ、私たちのことを話してもいいですか?」


 俺は、なんとなく背筋を伸ばした。

 彼女たちの「事情」に触れる時が来たのだ。

 茜ちゃんも、姉の隣で神妙な顔をしている。


「実は私たち、両親がいません。二年前に交通事故で……」

「…………そうでしたか」

「はい。それからは、父が残してくれた家で二人で暮らしていたんですけど……親戚の人たちと色々あって、家を出ることになってしまって」


 多くは語らなかったが、「色々あって」という言葉の裏に、ドロドロとした大人の事情が詰まっていることは容易に想像できた。

 遺産争いか、厄介払いか。

 世の中、綺麗な話ばかりではない。


「私もすでに働いていましたので、このアパートに2人で引っ越してきました。私のお給料と、茜のバイト代でなんとかやっていこうって。でも、引っ越しの初期費用とか、家具を揃えたりしたら、貯金が底をついてしまって……」

「だから今月はピンチなんです! でも、来月のお給料が入ればなんとかなりますから!」


 茜ちゃんが明るく補足するが、その明るさが逆に切ない。

 社会人2年目の給料と、高校生のバイト代。

 二人で生活するには、あまりにも心許ないだろう。


「なんと言えばいいか……大変でしたね」

「いえ、自分たちで決めたことですから。でも……今日は本当に救われました。お腹いっぱい食べたら、なんだか『なんとかなるかも』って思えてきて」


 葵さんがふわりと笑った。

 それは、最初に会った時の儚げな笑顔とは違う、心からの安らぎを含んだ笑顔だった。

 その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが音を立てて決壊した。

 それは「他人との境界線」という名の防壁だったかもしれない。


「……あの」


 気づいたら、口を開いていた。

 考えるよりも先に、言葉が滑り出る。


「はい?」

「作りすぎたカレー以外にも、実は……実家から野菜とか大量に送られてきてて、結構余ってるんだ。一人じゃ絶対食べきれなくて腐らせちゃうから、よかったらまたご飯食べに来てくれないかな?」


 俺はまた嘘をついた。

 実家からの仕送りなんて、もう何年も来ていない。

 だが、この嘘をつくことに、一片の迷いもなかった。


「えっ、でも……」

「俺もさ、一人で食べるより、誰かと食べた方が美味しいから。もちろん、迷惑じゃなければだけど……」


 俺の言葉に、葵さんは目を丸くし、そしてゆっくりと瞳を潤ませた。

 今までの会話でわかったが、きっと彼女は聡明だ。

 もしかしたら、俺の嘘に気づいているのかもしれない。

 それでも、彼女は俺の提案を受け入れてくれた。


「迷惑なんて、そんな……! 嬉しいです。すごく、嬉しいです……。本当にいいんでしょうか?」

「やったー! 健二さんのご飯また食べれる! 約束だからね!」


 茜ちゃんが飛び跳ねる。

 こうして、俺と隣人姉妹との間に、細く、でも温かい繋がりが結ばれたのだ。

 それはまだ「親切な隣人」という枠組みの中だったけれど、確かに何かが変わり始めていた。


 その夜のこと。

 姉妹が帰った後の静かな部屋で、俺はいつものようにベッドに入った。

 薄い壁の向こうから、2人の話し声が聞こえてくる。


『健二さん、優しかったね』

『うん……カレー、美味しかったなぁ。また食べたいなぁ』

『お姉ちゃん、なんか顔赤くない? もしかして……』

『ちょ、ちょっと茜! 何言ってるの……!』


 やっぱり、柄にもないことをしてしまった。

 俺は、赤面する顔を隠すように枕に顔を埋めた。

 32歳のおっさんが、学生みたいな会話でドキドキしてどうする。

 それでも、胸の奥がポカポカして、今夜は久しぶりによく眠れそうだった。

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