第4話 偽りの残り物と、本物の笑顔
「じゃあ、すぐ温め直しますから、30分くらいしたら俺の部屋に来てください」
そう言い残して、俺は逃げるように自室に戻った。
ドアを閉めた瞬間、背中を預けて大きく息を吐く。
心臓が、G退治の時よりも激しくバクバクと鳴っていた。
「……言っちまった」
額に浮かんだ冷や汗を拭う。
”トロトロになるまで煮込んだカレー”
そんなものは、この部屋のどこにも存在しない。
あるのは生の食材と、開けてもない箱に入ったカレールーだけだ。
許された時間は30分。
その間に、あたかも数時間煮込んだかのような深いコクと、ホロホロの肉を作り出さなければならない。
先ほどの、姉妹の期待に満ちた表情が脳裏に浮かぶ。
「やるしかない……!」
俺はジャージの袖をまくり上げ、洗面所の冷たい水で顔をバシャバシャと洗った。
一気にスイッチが入る。
仕事のノルマに追われている時の、あのヒリつくような感覚が蘇ってくる。
冷蔵庫から豚バラブロック、玉ねぎ、人参、じゃがいもを取り出す。
まな板の上に食材を並べると、俺は深呼吸をして包丁を握った。
トントントントン!
静かな部屋に、小気味よい音が響き渡る。
一人暮らし歴10年、節約のために自炊を心掛けてきた俺は、料理が数少ない特技の1つであり、ストレス解消法でもあった。
玉ねぎは繊維を断ち切るように極薄にスライスする。これが時短で飴色にするコツだ。
フライパンに油を引き、強火にかける。
ジューッ!
玉ねぎが悲鳴を上げ、香ばしい匂いが立ち上る。
少し塩を振って水分を出し、一気に炒める。
その横で、別のフライパンを使い、一口大に切った豚バラ肉の表面を焼き付ける。
旨味を閉じ込めるための、重要な儀式だ。
脂が跳ねて腕に当たるが、熱さを感じる暇もない。
炒めた野菜と肉を、俺の秘密兵器に放り込む。
『電気圧力鍋』。
独身男の強い味方だ。
これさえあれば、固い肉も短時間でホロホロになる。
水とカレールー、そして隠し味のインスタントコーヒーとハチミツを少々。
蓋を閉め、加圧スタート。
「よし、あとは頼んだぞ」
だが、戦いはまだ終わらない。
次は部屋の片付けだ。
そこらに脱ぎ散らかした靴下、読みかけの週刊誌、テーブルの上に置きっぱなしの郵便物。
とても若い女の子に見せられる部屋の状態ではなかった。
男の一人暮らしの生活感あふれるアイテムたちを、目にも留まらぬ速さでクローゼットに押し込んでいく。
掃除機をかける時間はない。粘着カーペットクリーナー(別名:コロコロ)を両手に持ち、〇谷顔負けの二刀流で床を駆け巡る。
「……間に合ったか?」
圧力鍋のピンが下がり、調理完了を告げる電子音が鳴ったのが、ちょうど約束の30分後だった。
蓋を開けてみる。
むわり、と立ち上る白い湯気。
その中から現れたのは、飴色の玉ねぎが溶け込み、豚肉が崩れんばかりに柔らかくなった、奇跡のカレーだった。
スパイシーな香りが部屋中に充満し、孤独だった六畳一間が、一瞬で「家庭」の匂いに変わる。
ピン……ポォ……
絶妙なタイミングで、チャイムが鳴った。
俺はエプロンを外し、一回呼吸を整えてからドアを開ける。
「お、お邪魔します……」
「お邪魔しまーす!」
そこには、さっきより少しだけ身なりを整えた姉妹が立っていた。
葵さんは白いニットにロングスカート、茜ちゃんはパーカーにショートパンツ。
質素だが、清潔感のある服装だ。
髪もとかしたのか、艶やかに整えられている。
殺風景な俺の玄関が、パッと華やいだように見えた。
「どうぞ。狭いし、何もないところですが」
俺が招き入れると、二人はおずおずと部屋に入ってきた。
そして、キッチンから漂う香りを感じ取った瞬間、二人の目が大きく見開かれた。
「……っ! すごい、いい匂い……」
「やばい! これ絶対美味しいやつだ!」
茜ちゃんが鼻をクンクンさせて、小動物のように目を輝かせる。
葵さんのお腹が、また小さく「きゅぅ」と鳴った。彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
小さなちゃぶ台にカレーをよそった皿を並べる。
福神漬けの赤が、茶色い海に彩りを添える。
冷蔵庫にあったレタスとトマトで、急造のサラダも添えた。
今まで使う機会がなかった、来客用のグラスに麦茶を注ぐ。
「じゃあ、冷めないうちにどうぞ」
「「いただきます!」」
二人の声が重なり、小さな部屋に響いた。
まずは茜ちゃんが、スプーンいっぱいにカレーとご飯を掬い、大きな口でパクリと頬張る。
「んーーーっ!!!」
彼女は目を見開き、両手で頬を押さえて身悶えした。
「おいしーーい! なにこれ!? お肉柔らかっ! 噛まなくても溶けるよ!?」
「……本当? ……私も」
葵さんも、上品に一口運ぶ。
咀嚼した瞬間、その整った眉がハの字に下がり、陶器のような白い頬が、幸せそうなピンク色に染まっていった。
瞳が潤み、長い睫毛が震える。
「……すごく美味しい。とても、深い味がします」
「圧力……じゃなくて、じっくり煮込んだ甲斐がありました」
おっと危ない、自白するところだった。
葵さんはスプーンを握りしめ、しみじみと呟く。
「こんなに温かいご飯、久しぶりです……。いつも、冷めたお弁当か、自分たちで作った簡単なものばかりだったので……」
その言葉には、彼女が背負ってきた苦労が滲んでいた。
温かい食事というのは、ただ栄養を摂るだけでなく、心を温める行為なのだと、俺は改めて思い知らされた。
二人のスプーンは止まらなかった。
豚バラ肉の脂身の甘さが、スパイスの刺激を包み込み、ご飯が進む。
特に茜ちゃんの食べっぷりは見ていて気持ちがいいほどで、一皿分のカレーをあっという間に平らげてしまった。
「あの……お兄さん! じゃなくて、佐藤さん! おかわり、あったりしますか……?」
「えっ?」
「あ、名前……そういえば聞いてなかった!」
「ああ、佐藤健二といいます……」
「じゃあ健二さん! おかわりください!」
差し出された皿を受け取りながら、俺は思わず笑ってしまった。
こんなに真っ直ぐな欲望と感謝を向けられたのは、いつぶりだろうか。
これは、食べられがいがあるというものだ。
「はい、どうぞ。鍋ごと持ってきたから、好きなだけ食べていいよ」
「やったぁ! 健二さん大好き!」
無邪気すぎる「大好き」という言葉。
ただの食欲の爆発だと分かっていても、俺の心臓は不自然に跳ねた。
女性に免疫がなさすぎる自分に辟易とする。
葵さんも、恥ずかしそうにしながら「私も…おかわりを…」と二杯目に手をつけてくれた。
食べるペースは早いが、仕草の一つ一つは丁寧で育ちの良さを感じさせる。
長い髪を片手で押さえながら食べる姿は、この古いアパートの部屋には不釣り合いなほど美しいと思えた。
「ふぅ……本当に生き返りました」
やがて、きれいに空になった皿を前に、葵さんが深く息を吐いた。
その顔には、G退治の時の怯えも、生活の疲れも見当たらない。
ただ純粋な、満たされた幸福感だけが浮かんでいた。
その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥にあった鉛のような重りが、すっと軽くなった気がした。
誰かのために料理を作り、それを「美味しい」と食べてもらう。
たったそれだけのことが、こんなにも俺自身を救ってくれるなんて。
俺は開けていたビールを一口飲み、テレビの音ではなく、二人の楽しげな声を聞きながら。
――悪くない。
静寂に包まれた孤独な夜も嫌いじゃなかったが、こういう騒がしい夜もいいなと純粋に思っていた。
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