第34話 女の勘と、すき焼きの約束
金曜日の夜。それは一週間の労働を終えたサラリーマンにとって、それは至福の時間であるはずだ。
泥のような疲労感と共にネクタイを緩め、明日の休みに思いを馳せながら缶ビールをプシュッと開ける。それが俺のささやかな幸せだった。
だが、今の俺の足取りは、鉛を詰め込まれたように重かった。
駅からの帰り道、アスファルトを踏みしめる革靴の音が空しく響く。
「……はぁ」
今日何度目かわからない溜息が、夜の虚空に溶けていく。原因は、ポケットの中のスマホに届いた一通のメッセージ。
『今週末はどうかな?』
葵さんの職場の先輩である、星野さんにデートに誘われたのは先日のこと。
酔った勢いの発言であったため、半信半疑であったのだが、彼女はどうも本気らしい。
しかし、相手はあの星野さんだ。俺みたいな冴えないおっさんを恋愛対象として見ているわけがない。住む世界が違うのだ。
これはあくまで、介抱のお礼。社会人としての儀礼的なお誘いだ。そう自分に言い聞かせる。
言い聞かせないと、心臓が口から飛び出しそうだったからだ。
しかし、最大の問題はそこではない。
俺は、この件を葵さんと茜ちゃんに伝えられずにいた。
……言えるわけがないよなぁ。
もし言ったらどうなるか。茜ちゃんは面白がって冷やかすだろうし、葵さんは……どう思うだろう。
最近、彼女たちの俺を見る目が、以前とは少し違っているような気がしてならないのだ。
俺の自意識過剰かもしれないが、変に心配させたり、誤解されたりするのは避けたかった。
だから、明日は「ちょっとした用事」で押し通す。
誰にもバレずに、星野さんと食事をして、何事もなく帰ってくる。
どうせ、今回限りのお誘いなんだろうし……。
それが、平和な日常を守るための最善策だと信じて、俺はアパートの階段を上った。
202号室。俺の城。ドアノブに手をかけ、鍵を開ける。
「ただいまー……」
できるだけ普段通りに努めるようにしよう。
そう心に決めて、家に入る。
「「おかえりなさい」」
リビングから、二つの声が同時に飛んできた。エプロン姿でお玉を持った葵さんと、ソファでゴロゴロしていた茜ちゃん。
いつもの光景だ。最近は週末になると、ほぼ間違いなく二人が俺の部屋にいる。合鍵を渡しているから当然なのだが、以前の俺の日常では考えられない光景である。
「ああ、ただいま。二人とも、早かったんだね」
「はい。今日は定時で上がれましたから」
「私もバイトないし! 暇人だよー」
二人はニコニコと笑っている。平和だ。いつもの温かい空気が流れている。
俺はホッと胸を撫で下ろし、靴を脱いでリビングへと入った。
そして普段通りにスーツの上着を脱ごうとした瞬間、茜ちゃんが妙なことを言い出した。
「……なんか怪しい……」
「……ん?」
茜ちゃんが、探偵のような鋭い目つきで俺を見る。
「な、何がだ?」
「健二さん。……なんか、いつもと雰囲気が違う」
「えっ!?」
ドキリと心臓が跳ねる。
今帰ってきたばかりで、ほとんど会話してないじゃないか。
何かおかしいところがあったか……!?
「金曜日はいつも『疲れ果てたサラリーマン』って感じなのに……今日はなんか、『浮足立った男がソワソワしてる感じ』がする!」
「いやいや! 何を言ってるんだ!?」
「なんか焦ってない? もしかして……図星だった?」
茜ちゃんがニヤリと笑う。その笑顔の裏に、底知れぬ勘の鋭さを感じて、俺は冷や汗を流した。
「そ、そんなことないって。ただ、今週もやっと終わったなーって、ホッとしてるだけだよ」
「ふーん……。ホッとしてる、ねぇ」
茜ちゃんは納得していない様子で、ジロジロと俺を観察する。
すると今度は、キッチンから葵さんが顔を出した。
「佐藤さん、お疲れ様です。……あの、明日のことなんですけど」
「明日」という言葉に心臓が止まるかと思った。
まさか、バレているのか? 星野さんから何か聞いたのか?
「あ、明日のことって……?」
「はい。実は、明日スーパーでお肉が半額セールみたいなんです。すき焼き用のお肉なんですけど……もしよかったら、明日のお昼とか、一緒にどうかなって」
葵さんが魅力的な提案をする。
すき焼き。
その単語の破壊力は凄まじい。しかも葵さんの手料理だ。普段なら二つ返事で「喜んで!」と叫ぶところだが……明日は、正午から星野さんと待ち合わせている。
「あ……ご、ごめん。明日は……ちょっと、用事があって……」
俺が言葉を濁すと、「そうですか……残念です」と言った、葵さんの表情がふっと曇る。
それと同時に、茜ちゃんの目が光ったのを俺は見逃さなかった。
「用事?」
「あ、ああ。ちょっと、な」
「へえー。健二さんが休日に用事なんて、珍しいね。いつもは死んだように寝てるか、私とゲームしてるかしかないのに」
痛いところを突く。俺の休日はそんなに空虚だったか。
「ま、まあ、たまには俺にも予定くらいあるさ」
「ふーん。……何の用事なのかなぁ?」
茜ちゃんがゆっくりと一歩ずつ詰めてくる。その瞳は笑っているが、奥が全く笑っていない。
「えっと……ちょっと、買い物とか、銀行の手続きとか……」
「銀行? 土日は休みじゃないの?」
「あ、いや、ATMはやってるし! あと、ほら、アレとか!」
「アレって何?」
茜ちゃんの追及は鋭利な刃物のように俺の逃げ道を塞いでいく。
葵さんも、お玉を持ったまま心配そうな顔でこちらを見ているが、俺の「用事」が何なのか、気になっているようだ。
「ま、まあ、色々あるんだよ大人は! ……とりあえず、着替えてくる!」
俺は逃げるように風呂場の脱衣所へと駆け込んだ。ドアを閉め、背中を預けて大きく息を吐く。
危なかった……。
まだ何も言っていないのに、「女の勘」ってやつはとても恐ろしい。
***
着替えを済ませてリビングに戻ると、すでに夕食の準備が整っていた。
食欲をそそる匂いが部屋に充満している。ちゃぶ台を囲んで三人で座る。
「「「いただきます」」」
手を合わせて食べ始める。うむ、とても美味しい。美味しいのだが……。
箸を進める俺に、左右から痛いほどの視線が突き刺さる。
「佐藤さん。……今日のおかず、お口に合いますか?」
葵さんが、上目遣いで聞いてくる。なぜか普段より距離が近い感じがする。
「えっ? あ、ああ。すごく美味しいですよ。最高です」
「よかったです。……前に言ってた、佐藤さんの好みの味付けにしてみたんですよ?」
「そ、そうなんですか。ありがとうございます……」
「ふふ。……明日のすき焼きのお肉は、これよりもっと美味しいと思いますけど……」
葵さんがポツリと呟く。うっ。罪悪感が胸を刺す。
そんなつもりで言っていないのはわかっているが、遠回しに「明日の予定をキャンセルしてくれないか」と言われている気がする。
その健気で寂しげな表情が、俺の精神をゴリゴリと削ってくる。
「ねえねえ、健二さん!」
今度は反対側から茜ちゃんだった。彼女は自分の茶碗を持ったまま、ズルズルと俺の方へ寄ってきた。 肩が触れる距離だ。
「あーんしてあげよっか?」
「ブッ!」
俺は味噌汁を吹き出しそうになった。
「な、何言ってるんだ茜ちゃん!」
「えー? だって健二さん、疲れてるんでしょ? 私が食べさせてあげたら、元気出るかなーって」
茜ちゃんは箸でおかずをつまみ、俺の口元に突き出してくる。
ニヤニヤしているが、その目は俺の反応をじっと観察しているようだった。
これは俺を”試している”な? 俺が動揺してボロを出すのを待っていに違いない。
「い、いいって! 自分で食べられるから!」
「ちぇーっ。健二さんのいけずぅー。……もしかして、他の女の人に食べさせてもらう予定でもあるのかなー?」
ギクリ。 図星すぎる。
いや、星野さんに食べさせてもらう予定はないのだが。明日の予定のことを言われているようで、冷や汗が出る。
「な、ないよそんな予定!」
「ほんとぉ? 怪しいなぁ。……健二さん、目が泳いでるよ?」
茜ちゃんが顔を近づけてくる。少女特有の甘い香りがふわりと漂い、俺の思考回路を乱してくる。
その向こうでは、葵さんが静かに、しかしジッと俺を見つめていた。
「佐藤さん。……もし、言いにくいご用事なら、無理にお聞きしませんが……」
葵さんが静かに口を開く。
「私たち、佐藤さんの家族……みたいなものだと思ってましたから。隠し事をされると、その……少し、寂しいです」
ああ、その言い方は卑怯だ!
「寂しい」なんて言われたら、全部白状して土下座したくなるじゃないか。
俺は箸を握りしめ、必死に耐える。
ここで星野さんのことを話せば、二人は絶対に気にするだろう。
葵さんは職場の先輩だし、茜ちゃんも星野さんに憧れている節があった。
変な誤解を生んで、星野さんとの関係性を壊したくない。
「……ごめん。本当に、大した用事じゃないんだ。ただ、昔の友人に会うだけで……男の、な」
俺は嘘をついた。
最低だ。大切な家族同然の二人に、嘘をついてしまった。
心がチクリと痛む。
「……男性の、友人ですか」
葵さんがオウム返しに呟く。
信じてくれただろうか?
いや、葵さんの目は、まだ疑念の色を宿している気がする。茜ちゃんに至っては、「へぇ」と棒読みだ。
「男友達ねぇ。……ふーん。じゃあさ、その人との約束、何時に終わるの?」
「え? えっと……たぶん、夕方には終わるかな」
「じゃあ、夕飯は一緒に食べれるね!」
茜ちゃんがパァッと笑顔になる。
「え、あ、うん。まあ……」
「約束だよ! 明日の夜は、すき焼きパーティー! 絶対帰ってきてね!」
「わ、わかったよ……」
とりあえず、その場はそれで収まった……ように見えた。
食後に俺が洗い物をしようとキッチンに立つと、葵さんが「私がやりますから」と代わってくれた。
そして、リビングに戻ると。
「健二さん! こっち来てー」
茜ちゃんが、ソファに座って、自分の隣ををポンポンと叩いている。言われるがままに隣に座ると、彼女はいきなり俺の肩を揉み始めた。
「いつもお疲れ様ですー。肩、凝ってるねぇ」
「えっ……茜ちゃん、どうしたの急に」
「べっつにー? 日頃の感謝とか? ……ところでさ健二さん」
茜ちゃんが、耳元で囁く。
「明日さ、本当は何があるの?」
「ッ!?」
「男友達なんて嘘でしょ? 健二さん、嘘つくとき鼻の頭かく癖あるもん」
見抜かれていた。俺は戦慄した。この子は俺のことを観察しすぎだ。
「……言えないこと、なの?」
「……悪いことじゃないんだ。ただ、ちょっと……今は言えないだけで」
「ふーん。……女の人?」
それと同時に、茜ちゃんの手が、ググッと肩のツボに入る。痛い。
「……もし、私たち以外の女の人と遊ぶなら……私、拗ねるからね」
「い、痛い痛い! 茜ちゃん、力強いって!」
「健二さんは、私たちの”監視役”なんだから。……浮気なんかしたら、許さないよ?」
監視役で浮気なんて概念があるのか……。
その声は、冗談めかしていたけれど、どこか本気の響きが感じられた。
彼女の指先から伝わる熱に、俺は更に冷や汗をかきながら、「わ、わかってるよ」と答えるのが精一杯だった。
洗い物を終えた葵さんが戻ってくると、今度は彼女がデザートのリンゴを剥いてくれる。
シャリシャリとリンゴを食べる俺を見ながら、葵さんは優しく微笑んでいる。
そんな中、ふいに彼女が口を開いた。
「そういえば、佐藤さん。明日のお洋服、決まってますか?」
「えっ? 服ですか?」
「はい。ご友人とお会いになるにしても、ヨレヨレのシャツじゃ失礼ですし。……もしよろしければ、私がアイロンかけましょうか?」
「い、いや! 大丈夫です! そんな手間はかけさせられませんよ!」
「そうですか……。お手伝いできることがあれば、いつでも言ってくださいね」
葵さんがシュンとする。
その姿に罪悪感を覚えつつも、これ以上のボロを出さないために、さっさと寝ることにした。
「あ、明日も早いし、今日は風呂に入って、早く寝ることにするよ」
俺は風呂に入る準備をするために立ち上がる。
「えー、もう寝ちゃうの? まだ21時だよ?」
「疲れたサラリーマンは寝る時間なんだよ」
俺は逃げるように脱衣所に駆け込んだ。
***
「……健二さん、逃げちゃったね」
「明らかに動揺していましたね……」
小声で話す二人。どうも佐藤さんの行動が怪しく見える。
茜もそう感じているようだった。
「男友達、って言ってたけど……絶対嘘だよね」
「ええ。あの慌てよう……きっと、女性の方でしょうね」
「だよねー。でも誰なんだろ? もしかして……」
茜の声が、少し低くなる。
「……まさか、星野さんとか?」
私も頭の隅で考えていた可能性のひとつだ。
この前、星野さんをタクシーで送って行ったあと、彼はどこかおかしかった。
もし、明日会うのが星野さんなら、私は……。
「佐藤さん……。信じてますからね……」
その言葉は、シャワーを浴びている彼には届くはずもなかった。
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