第33話 昨日の記憶と、二人の気持ち
翌朝。早めに出勤した私は、パソコンの画面に向かいながらも、心ここにあらずといった状態でキーボードを叩いていた。
指先はデータ入力の作業をしているけれど、頭の中は昨晩の出来事で占領されている。
昨夜、佐藤さんの部屋で行われた食事会。そこで見た、私の教育係であり、職場の『王子様』でもある星野さんの姿は、あまりにも衝撃的であった。
ビールで顔を真っ赤にして、佐藤さんに甘えて、最後には『ボクが、女性として魅力的だってこと。……君が、証明して』なんて……。思い出して、私の方が顔から火が出そうになる。
普段は凛としていて、男性顔負けにかっこいい星野さん。
そんな彼女が、あんなに乱れた姿を見せるなんて……。
しかも、相手は佐藤さんだ。私の大切な……人。
……ううん。佐藤さんに限って、変なことにはならないはず。
そう自分に言い聞かせる。
佐藤さんは誠実な人だ。簡単に女性に手を出すような人じゃない。
昨夜も、星野さんをタクシーに乗せるまで、紳士的に介抱していたし。
でも……もし、星野さんが本気で迫られたら?
あんな綺麗な人に迫られたら、佐藤さんだって……。
「――おはよう、葵ちゃん」
あれこれ考えていると、背後からかけられた涼やかな声に、私の心臓が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこにはいつものパンツスーツを完璧に着こなした、星野さんが立っていた。
「あ……! お、おはようございます! 星野さん!」
私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がる。
星野さんは、きょとんとした顔で私を見た後、ふわりと爽やかに微笑んだ。
「ふふ、そんなに驚かなくても。……昨日は、ありがとうね。迷惑をかけて、大変申し訳ない」
その笑顔は、昨夜の乱れが嘘のように涼しげで、完璧な『王子様』の仮面を被っていた。
二日酔いの様子も見せない。整ったショートヘアには寝癖一つなく、肌も陶磁器のように滑らかだ。
「い、いえ! その、大丈夫でしたか? だいぶ、飲まれていたみたいでしたけど……」
「ん? ああ、全然平気だよ。家帰って水飲んで寝たらスッキリ。……葵ちゃんたちの介抱のおかげかな」
星野さんはサラリと言ってのける。その堂々とした態度に、私は拍子抜けしてしまった。
もしかして、昨日のこと……覚えてないのだろうか?
それとも、あんな大胆な発言も、星野さんにとってはただの酒の席の冗談だったんだろうか。
「そ、そうですか……よかったです。佐藤さんも、心配されてましたよ」
探りを入れるように、佐藤さんの名前を出してみる。
すると、星野さんの手がピクリと止まった。書類を整理していた長い指先が、ほんの少しだけ震えたように見えた。
「……そっか。彼にも、悪いことしちゃったな。……後で、お礼言わなきゃね」
星野さんは背中を向けたまま、ポツリと呟く。
その声色が、さっきまでのビジネスライクなトーンとは違って、微かに熱を帯びているように聞こえたのは、私の考えすぎだろうか。
……やっぱり、何かある。
私の胸の奥で、黒いモヤモヤが渦を巻く。
星野さんは何もなかったかのように自分のデスクへ向かっていく。
その颯爽とした後ろ姿を見つめながら、私はスカートの裾をギュッと握りしめた。
***
オフィスの喧騒から逃れるように、非常階段の踊り場に来ていた。
ここなら誰も来ない。ビル同士の間なので景色はあまりよくないが、ここはお気に入りの場所だ。
冷たい手すりに背中を預け、「ふぅーっ」と長く深い息を吐き出す。
「心臓が、痛い……」
胸元を抑える。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇った。佐藤さんの腕の感触。彼の匂い。
そして、あんなに恥ずかしい台詞を口走ってしまった自分の姿。
「うあぁぁぁ……! バカバカ! ボクのバカ!」
手すりに頭をゴンゴンと打ち付けた。酔っていたとはいえ、あんなことを言うなんて……。
佐藤さん、引いてなかったかな。
「軽い女だな」とか「面倒くさい酔っ払いだな」とか思われてないだろうか。
ポケットからスマホを取り出す。画面には、昨日交換したばかりの『佐藤健二』という名前。
指先が震える。メッセージを送ろうとしているが、もう何分も画面と睨めっこをしている。
……なんて送ればいいのだろうか?
『昨日はごめん?』
それじゃあ、ただの謝罪で終わってしまう……。
違う。これで終わりにしたくない。
昨日の言葉は、お酒の力を借りたけれど、間違いなく全部本音だった。
彼のこと、まだあまり知らないけれど。色々質問したときも、とても誠実に答えていて、実直な人だと感じた。
それに、葵ちゃんとも恋人同士ではないと言っていたし……。
震える指を動かす。何度も打っては消し、打っては消す。
『王子様』の仮面の下にある、臆病な自分の素顔が顔を出す。
もし断られたら……。もし、「迷惑です」って言われたら……。
そんな不安が頭をよぎるけれど、ここでウジウジしていてもしょうがない。
ええい、ままよ!
勢いで送信ボタンを押す。
『昨日はありがとう。二日酔いだけど、ちゃんと記憶はあるよ。それで、早速だけど今週末はどうかな?』
送信完了の文字が出た瞬間、スマホを放り投げそうになった。
送ってしまった。もう後戻りはできない。
『記憶はあるよ』なんて、挑発的すぎたかな。
『今週末はどうかな?』なんて、唐突すぎたかな。
「吐きそうだ……」
ボクはその場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。
クールな王子様? 笑わせる。
今のボクは、気になる人にメッセージ一つ送るだけでキャパオーバーしている、ただの女だ。
ピロン
通知音が鳴る。ビクッとして顔を上げ、恐る恐る画面を見る。
佐藤さんからの返信かと思いきや、それは仕事のチャットツールだった。
紛らわしい! 一度深呼吸をして、立ち上がる。
パンパン、と頬を叩く。そろそろ仕事に戻らなきゃ。
その後も、ポケットの中のスマホが熱を持っているように感じて、心臓の鼓動は午後になっても収まりそうになかった。
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