第32話 一通のメッセージと、複雑な心
翌朝。俺はいつものように出勤し、パソコンのモニターに向かいながら、今日何度目かわからない溜息を吐いた。
「……はぁ」
指先はキーボードの上を滑っているが、頭の中身は昨晩の出来事で埋め尽くされている。
PC画面のスプレッドシートに、昨日の夜の光景がちらついている。
……昨日は、大変だったな。
葵さんの職場の先輩であり、その麗しい容姿から『王子様』と呼ばれる女性、星野樹さん。
彼女が、あんなにも酒に飲まれるタイプだとは思わなかった。
『ボクが、女性として魅力的だってこと。……君が、証明して』
あの衝撃的な発言の後、星野さんは酔いつぶれてしまった。
顔を真っ赤にし、普段の凛とした口調がとろりと甘くなり、俺に絡んでいた星野さん。
なぜか、少し不機嫌そうな葵さんと茜ちゃんが見守る中、俺は彼女の介抱に追われることになった。
そして、宴がお開きになった帰り際のことだ。
時刻は既に23時を回っていた。俺は、足元のおぼつかない星野さんを支えながら、アパートの下まで降りる。
彼女の身体は意外なほど軽く、そして柔らかかった。支える腕に伝わる体温と、甘いコロンの香り、そしてアルコールの匂い。
ふと、星野さんが口を開く。
「……んぅ……ごめんね、佐藤くん。重いよね……?」
「いえ、全然大丈夫ですよ。タクシー、もうすぐ来ますから」
星野さんは、俺のシャツの袖をギュッと掴んだまま、とろんとした瞳で見上げてくる。
街灯に照らされたその顔は、オフィスの王子様とはかけ離れた、無防備な一人の女性のものだった。
「……ねえ、佐藤くん」
「はい?」
「……さっきの、覚えてる?」
さっきの……。
『ボクと、デートしてくれない?』という言葉のことだろうか。
「ええ、まあ……」
「……ボク、酔っ払ってるけど……本気だからね?」
星野さんが、ふらりと身体を寄せてくる。
吐息がかかるほどの至近距離。整った顔立ちが目の前に迫り、俺は思わず息を呑んだ。
「だ、だから……そのために、これ……交換して」
彼女がおずおずと差し出したのは、メッセージアプリのQRコードが表示されたスマホ画面だった。
「……連絡先、ですか?」
「……うん。……ダメ、かな?」
上目遣い。 頬を染め、恥ずかしそうに唇を噛むその仕草。
普段のクールな立ち居振る舞いとのギャップが凄まじすぎて、俺の心臓は警鐘を鳴らすどころか、爆発寸前だった。
「いえ、もちろん……喜んで」
俺が自分のスマホを取り出し、コードを読み取ると、星野さんはパァッと花が咲いたように笑った。
「……よかった。……ふふ、佐藤くんの連絡先、ゲットしちゃった」
まるで宝物を手に入れた子供のように、スマホを胸に抱きしめる星野さん。
その直後、予約したタクシーが到着した。
「じゃあね、佐藤くん。……連絡、待ってるから」
最後にそう言葉を残し、彼女はタクシーに乗り込んでいった。
タクシーのテールランプが見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていたのだった。
***
……思い出すだけで、顔から火が出そうだ。
俺はガシガシと頭をかきむしる。
いや、落ち着け俺。相手は酔っ払ってたんだぞ。
所詮、酒の席での戯言だ。 『証明して』とか『本気だから』とか言っていたが、一夜明けて酔いが覚めれば、「なんて恥ずかしいことを言ってしまったんだ」と星野さんも頭を抱えているに違いない。
あるいは、記憶そのものが飛んでいる可能性もある。
32歳の冴えないおっさんが、真に受けてデートに誘ったりしたら、それこそセクハラ事案になりかねない。
無かったことにするべき……だよな、普通は。
そう自分に言い聞かせる。
星野さんは、それこそ住む世界が違う人だ。
昨日はたまたま、場の空気に流されただけ。そう結論づけて、仕事に戻ろうとした、その時だった。
ブブッ。
デスクの上に置いていたスマホが短く震える。メッセージの通知だった。
画面に表示された差出人の名前を見て、俺の心臓が跳ね上がる。
『星野 樹』
恐る恐る、ロックを解除してメッセージを開く。そこには、短い一文だけが表示されていた。
『昨日はありがとう。二日酔いだけど、ちゃんと記憶はあるよ。それで、早速だけど今週末はどうかな?』
「えぇぇぇぇっ!?」
静かなオフィスに、俺の素っ頓狂な声が響き渡った。周りの社員が一斉にこちらを見る。
隣の席の田中が、驚いた顔で椅子を回転させた。
「おいおい、どうしたんだ佐藤。急に大声出して。……なんかクレームでもあったか?」
「あ、いや……違う、なんでもない……!」
俺は慌てて口元を手で覆い、スマホを伏せた。心臓のバクバクが止まらない。
『記憶はあるよ』
『今週末はどうかな?』
これは、つまり……。
昨日の言葉は、全部本気だったということなのか?
つまり、本当にデートの誘いだったということ……?
「お前、顔赤いぞ? まだ、熱でもあるのか?」
「……いや、熱はない。ただ、ちょっと……予想外の事態が起きててな」
「まぁ、無理はすんなよー」
単価はそう言うと、自分の仕事に戻った。
俺は震える指でスマホを握りしめるのだった。
***
一方その頃。
茜は、学校の教室で頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。真っ青な空、グラウンドではほかのクラスが体育の授業をしていた。
5時間目の古文の授業。先生の声が子守唄のように聞こえるが、眠気は全くなかった。
頭の中を占めているのは、昨日の夜の光景だ。
……お姉ちゃんの会社の星野さん、かぁ。
昨日の出来事を思い返す。ビックリするぐらい美人で、スタイルも良くて、王子様みたいにかっこいい女性。
でも、酔った時のあの甘えたような顔。
そして何より、健二さんに向けるあの熱っぽい視線。
『私と、デートしてくれない?』
あの言葉を聞いた時、茜の胸の中で警報が鳴り響いたのだ。
茜の直感は告げていた。これは、ヤバイと。
「……はぁ」
今日何度目かの大きなため息が漏れる。
健二さんは鈍感だから、昨日のことも「酔っ払ってたから」で済ませようとしているかもしれない。
でも、もし本当にデートに行くことになったら?
あんな美人に迫られたら、健二さんは断れるわけがないだろうな。
もし二人が付き合うことになったら、私たちのこの関係はどうなるんだろう。
一緒にご飯を食べて、笑い合って、たまにお泊まりして……そんな「家族」みたいな時間は、終わってしまうのだろうか。
……なんか、モヤモヤする。
胸の奥に、黒いインクを垂らしたような不快感が広がる。
これが何なのか、茜自身もまだはっきりと認めたくはなかった。
ただ、健二さんが他の女性と一緒になるのが、猛烈に嫌だということだけは確かだった。
「――ねえ、茜」
休み時間のチャイムが鳴った直後、横から声をかけられた。
顔を上げると、そこにはクラスメイトであり、親友の天川 美南が立っていた。
長い髪をポニーテルにまとめており、猫のような大きな瞳。
学年でも目立つ美少女だが、剣道部の主将であり、男子からは恐れられている。
「あ、ミナミ。どしたの?」
「どしたのじゃないよ。授業中、茜……すっごい怖い顔してたよ? ノートも真っ白だし」
美南は茜の机の上を指差してクスクスと笑う。
「うっ……ちょっと考え事してただけだよ……」
「ふーん? 茜が考え事なんて、珍しいね。……もしかして、男関係とか?」
「ぶっ!?」
図星を突かれて、茜はむせ返る。
美南の目は楽しそうに細められている。
「あはは、反応わかりやすすぎ。……で、やっぱり”あの人”のこと?」
「”あの人”……?」
美南が、何のことを言っているのかがわからなかった。
次の言葉でハッとする。
「この前、茜をショッピングモールで見かけたんだよね。……年上の男の人と楽しそうに歩いてるところ!」
「あ、あれは……! ただの近所の人というか、保護者みたいなもので……!」
「ふーん。近所の人……ねぇ。ただの近所の人相手に、あんな顔するかなぁ?」
美南は意味深にニヤリと笑う。
彼女には、あの日私がどんな顔で健二さんと歩いていたのか、知られているようだ。
「……ねえ、茜。その人のこと、詳しく聞かせ――」
美南がさらに追求しようとしたその時。
「月本ー! ちょっと職員室に来い! 進路調査票のことで話がある!」
教室の入り口から、担任の先生が大きな声で私を呼んだ。
「あ、やば! そういえば、出し忘れてた!」
慌てたように、ガタッと席を立つ。
「ごめんミナミ! ちょっと行ってくる!」
「あ、うん。行ってらっしゃ……」
私は逃げるように教室を飛び出した。
これ以上追求されないように。
同居同然の生活のことも、この気持ちも、まだ誰にも言えない秘密なのだから。
***
教室に残された美南は、閉まったドアを見つめながら、頬杖をついた。
「……逃げられちゃったか」
小さく呟く。親友の茜が、最近変わったことは気づいていた。
以前よりも明るくなったし、何より、時折見せる表情が妙に大人びている気がする。
その理由が、あのショッピングモールで見かけた「おじさん」が関係しているのだろう。
冴えないけれど、優しそうな背中。
茜が見せていた表情。それは、とてもただの近所の人に向ける表情ではなかったと思う。
アタシは、ポケットからスマホを取り出し、カレンダーアプリを開く。
来週には、修学旅行が控えている。沖縄の夜……女子同士の秘密の恋バナには、うってつけの舞台だ。
「修学旅行の夜にでも、ゆっくり聞かせてもらおうかな」
修学旅行にまた一つ楽しみが増えたアタシは、いそいそと次の授業の準備を始めるのだった。
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