第29話 王子様の襲来と、波乱の予感
夕闇が迫る商店街を、私はうつむき加減で歩いていた。
隣を歩くのは、職場の頼れる先輩である、星野さん。
そのモデルのような姿に目を奪われ、すれ違う買い物客や学生たちが振り返っていくのがわかる。
その視線が、私の胃をさらにキリキリと締め上げるのであった。
「……ここかな?」
足を止めた視線の先には、築35年の木造アパート「ひだまり荘」が佇んでいる。
夕日に照らされたその姿は、いつも以上に哀愁を漂わせていた。
錆びついた手すり、所々塗装が剥げた外壁、そして風が吹くたびにギシギシと鳴る階段。
スタイリッシュな雰囲気の星野さんには、あまりに場違いな光景だろう。
私は身構えた。きっと、「こんな所に住んでいるのか」と驚かれるに違いなかった。
あるいは、同情の眼差しを向けられるかもしれない。
けれど――。
「うん、いい雰囲気だね」
星野さんは、アパートを見上げ、穏やかな声で言った。
「え……?」
思わず、拍子抜けしたような声を出してしまった。
「確かに古そうだけど、きちんと手入れされている。それに、なんだか懐かしい匂いがするよ。僕の実家の近くにも、こういうアパートが多かったからね」
「そ、そうなんですか……?」
「ああ。住まいは、その人の生活そのものだよ。このアパートからは、温かい生活の音が聞こえてきそうだ」
星野さんは優しく微笑むと、躊躇なく錆びた階段に足をかけた。
カツ、カツ、と階段を上る音が響く。
階段の前に立ち竦んでいた私に声をかけてくる。
「さあ、案内してくれるかな? まずは君たちの部屋へ」
「あ、はい……こちらです」
私は慌てて後を追う。
目指すは203号室。私たち姉妹の部屋だ。
星野さんの計画では、いきなり佐藤さんの部屋(202号室)に乗り込むつもりだったようだが、まずは私の部屋で一息ついてもらうことにした。
帰ってきて部屋に見知らぬ人がいたら、佐藤さんが卒倒してしまうかもしれないから……。
ガチャリ。
鍵を開け、ドアノブを回す。
「ただいまー……」
ゆっくりとドアを開ける。
リビングに入ると、そこにはソファに深々と体を預け、スマホを片手にくつろいでいる茜の姿があった。
部屋着のTシャツにショートパンツ姿である。
「あ、お姉ちゃんおかえりー。今日は早かったねー」
茜はスマホから目を離さず、気だるげに言った。
そして、私の後ろに立つ人物の気配に気づき――ふと顔を上げた。
「……えっ?」
茜の動きが止まった。
見慣れた姉の後ろに、見知らぬ人が立っているのだから。
「あ、えっ、どなたですか……?」
茜が慌てて起き上がり、Tシャツの裾を直す。
星野さんはそんな茜を見て、ふわりと柔らかな笑みを向けた。
「初めまして。葵ちゃんの会社の同僚の、星野です。……君が茜ちゃんだね?話は聞いているよ」
「えっ、あ、どうも……初めまして、月本茜です」
茜は少し頬を赤らめてモジモジしている。
無理もない。星野さんのキラキラオーラを至近距離で浴びれば、どんな女性もそうなるだろう。
「突然お邪魔してごめんね。少し用事があって」
「い、いえ! 全然大丈夫です! どうぞ座ってください!」
茜が急いでクッションを整え、場所を空ける。
星野さんは「ありがとう」と茜の隣に座る。
すると、数分もしないうちに、二人は打ち解けていた。
星野さんの聞き上手さもあるが、茜の相手の懐に入る上手さにも舌を巻く。
私はその光景を微笑ましく見つつ、キッチンでお茶の準備を進める。
すると、茜がトタトタと寄ってきて、私の耳元で囁いた。
「ねえ、お姉ちゃんっ!」
「な、なに?」
「誰あの人!? 超イケメンじゃん! モデル? 俳優?」
「会社の先輩だって言ったでしょ」
「へぇー……で?」
茜がニヤニヤしながら、私とリビングの星野さんを交互に見る。
「もしかして……お姉ちゃんの彼氏とか?」
「ぶっ……!?」
私は思わず吹き出しそうになった。
確かに、何も知らない茜から見ればそう見えるかもしれない。
平日の夜にわざわざ家まで来る先輩。しかも超美形ときている。
「ち、違うわよ! そんなんじゃないから!」
「えー? でも、わざわざ家に来るなんて怪しいよー。お姉ちゃん、健二さんだけじゃなくて、あんな王子様みたいな人まで……」
「人聞きの悪いこと言わないで! そ、それに、星野さんは……」
ガチャリ。バタン。
その時。壁の向こう――隣の202号室から、ドアが開閉する音が響く。
薄い壁を隔てたこのアパートでは、隣人の帰宅音は自分の部屋のように聞こえる。
「……!」
リビングでくつろいでいたはずの星野さんが、ピクリと反応した。
その瞳が鋭く光り、視線が隣の部屋の方向へと向く。
茜との和やかな会話の空気から一変、仕事モードのような真剣な眼差しだ。
「……帰ってきたみたいだね」
星野さんが静かに呟く。私は背筋が凍るのを感じる。
佐藤さんが、帰ってきた。
しかも、佐藤さんには「星野さんが来る」と伝えていない。
どう伝えればいいかわからなかったからだ。
何の心の準備もないまま、いきなりこの状況に放り込まれることになる。
「行こうか、葵ちゃん」
星野さんが立ち上がる。私は覚悟を決めて頷いた。
***
月曜日の残業を終え、俺は重い足取りでひだまり荘に帰り着いた。
右腕のギプスは相変わらず邪魔くさいし、痛みもまだ引いていない。
会社では「無理はするなよ」と言われつつも、容赦なく山積みの書類を回された。
心身ともにヘトヘトである。
「ふぅ……」
鍵を開け、ドアを閉める。ネクタイを緩めながら、俺は大きく息を吐いた。
今日はもう何もしたくない。
買ってきたコンビニ弁当を食べて、シャワーを浴びて、泥のように眠ろう。
そう思って、ジャケットをハンガーにかけようとした時だった。
ピン……ポォ……。
間抜けなチャイム音が鳴った。
こんな時間に誰だろうか? 葵さんたちか?
俺は「はーい」と声を出し、無防備にドアを開けた。
「こんばんは、佐藤さん」
そこに立っていたのは、葵さんではなかった。
いや、そこには葵さんもいた。後ろに茜ちゃんもいた。
だが、一番手前に立っていたのは、俺の知らない人物だった。
すらりとした長身。整えられたショートヘア。
涼しげな目元と、通った鼻筋。
雑誌から出てきたモデルのような人が、俺をじっと見つめている。
(……え? 誰?)
俺は思考が停止した。
不思議と見覚えがある気がする。どこで見たんだっけ……。
困惑している俺をよそに、スッと名刺を差し出した。
「初めまして。葵ちゃんの会社の同僚の星野と申します。突然の訪問、失礼するよ」
「あ、はあ……ご丁寧にどうも、佐藤といいます」
俺は慌てて左手で名刺を受け取る。
星野……たしか姉貴の会社の先輩だと、葵さんが話していた人だ。
「少し、話をさせてもらってもいいかな?」
「え? あ、はい……どうぞ」
とても断れる雰囲気ではなかった。
星野さんの後ろで、葵さんが「ごめんなさい」という顔をして手を合わせている。
どうやら何か事情があるらしい。
俺は三人を部屋に招き入れるのであった。
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