第25話 変わっていく日常と、デートの約束
「……佐藤さん、運がいいですねぇ」
回診に来た医師は、レントゲン写真を見ながら感心したように言った。
「あれだけ派手に暴行を受けた形跡があるのに、脳へのダメージは脳震盪程度。一番酷い右腕も、骨折じゃなくてヒビが入っているだけですよ。まさに不幸中の幸いです」
「はあ……そうですか」
不幸中の幸い。
俺としては、あんな修羅場は二度と御免だが、茜ちゃんが無事だったことを考えれば、この程度の怪我で済んだのは奇跡と言っていいのだろう。
ちなみに、俺が倒れた最大の原因は、暴行のダメージよりも、40度近くまで上がっていた高熱による脱水症状だったらしい。
点滴を打って一晩眠ったおかげで、熱もすっかり下がっていた。
「熱も引きましたし、骨も固定しておけば自然に治るでしょう。今日一日様子を見て、問題なければ明日には退院していいですよ」
医師の言葉に、俺はホッと胸を撫で下ろす。
明日退院なら、有給休暇は月曜日の午前中だけで済みそうだ。
社畜の悲しい性で、真っ先に仕事の段取りを考えてしまう自分が恨めしい。
医師が出ていくと、ベッドの両脇から二つの影が迫ってきた。
「よかったぁ……! 健二さん、大ケガしてなくて!」
「本当に……。大事に至らなくて安心しました」
右に茜ちゃん、左に葵さん。
二人とも、まだ少し目の周りが赤いけれど、その表情は明るかった。
何はともあれ、大事に至らなかったことを良しとしよう。
気づけばもう昼時。ホッとしたら、自分の腹が鳴る音がした。
昨日から、葵さんが作ってくれたお粥以外口に入れていないので、かなりお腹はペコペコだ。
病院食はすでに部屋に運ばれているようであった。
そのことに気がついたのか、茜ちゃんが満面の笑みを浮かべて俺に迫ってきた。
「さて、お昼ご飯の時間だよ! 健二さん、右手が使えないでしょ? 私が食べさせてあげる!」
茜ちゃんが、病院食の乗ったトレイを自分の膝に乗せ、スプーンを構える。
「いや、自分で食べられるから……」
ここは病院だ。こんな公衆の面前で、若い女の子にご飯を食べさせてもらうなんて出来るわけない。
俺は茜ちゃんから、トレイを取ろうとした。
しかし、横から葵さんも入ってくる。
「いえ、利き腕を失っているんですから、私たちがお手伝いするのは当然です。佐藤さん、口を開けてください。はい、あーん」
葵さんが流れるような動作で、箸で摘んだ煮物を俺の口元に運んでくる。
その顔はさながら慈愛に満ちた聖母のようだ。
「ちょ、お姉ちゃんズルい! 健二さん、こっち! このヨーグルト、美味しいよ! あーん!」
「いけません茜。まずは、おかずからです。ちゃんと順番を考えなくちゃ」
「関係ないよ! 美味しいものから食べるのが一番元気になるの!」
右から煮物、左からヨーグルト。ダブルあーんの波状攻撃。
俺の口は一つしかないのだが、二人ともお構いなしにどんどん迫ってくる。
利き腕にギプスをはめられているは、まな板の上の鯉状態だ。
「あ、あの……二人とも、ちょっと落ち着いて……」
「「早くして(ください)」」
二人の声がハモる。
その状況に、俺がタジタジになっていると――
ガララッ。
「失礼しまーす。点滴の確認に……って、あらあら……」
入ってきたベテランの看護師さんが、その様子を見て呆れたようにため息をつく。
「佐藤さん、ここは病室ですよ。仲良しなのは結構ですが、他の患者さんの迷惑になりますからね」
「「す、すみません……!」」
茜ちゃんは真っ赤になって直立不動になったが、葵さんは一つため息をつき、「ご迷惑をおかけしました」と看護師に頭を下げる。
俺も気恥ずかしさで布団を頭まで被りたい気分だった。
こうして、騒がしくも温かい入院生活(一日限定)は幕を閉じる。
***
翌日。月曜日。
俺は午前中に退院手続きを済ませ、一度「ひだまり荘」に戻ってスーツに着替えると、午後から出社した。
右腕は三角巾で吊り、ギプスでガチガチに固められた状態だ。
当然、オフィスに入った瞬間、注目を浴びる。
「おい佐藤! お前、風邪で休んでたんじゃなかったのかよ!?」
隣の席の田中が、ギョッとした顔で叫んだ。
「ああ、うん……。熱でフラついてさ、ちょっとな……」
「階段から!? お前、どんだけドジなんだよ。……でもまぁ、頭じゃなくてよかったな」
「全くだよ」
俺は苦笑いで誤魔化しながら、左手一本でキーボードを叩き始めた。
不自由極まりないが、溜まった仕事を片付けなければならない。
不思議と、仕事に向かう気力は充実していた。
これも、二人のおかげなのかもしれない。
定時を少し過ぎた頃、俺は仕事を切り上げて帰路につく。
夕闇が迫る街並みを歩くと、見慣れたアパートが見えてくる。
俺の部屋――202号室の窓から、温かな光が漏れているのが見えた。
彼女たちが、先に待っているのだ。
それだけで、心が温かくなるのがわかる。
俺は階段を上がり、ドアを開けた。
「ただいまー」
ドアを開けると、そこにはエプロン姿の葵さんと、制服姿の茜ちゃんが並んで立っていた。
二人とも、満面の笑みで俺を迎える。
「おかえりなさい、佐藤さん」
「おかえりー! 健二さん!」
二人の声を聞いた瞬間、仕事の疲れも、腕の痛みも、すべてが溶けていくように感じる。
久々に感じる、家族の暖かさが身に染みるようであった。
「ご飯、できてますよ。今日は佐藤さんの退院祝いですから」
葵さんに促され、リビングへ入る。
ちゃぶ台の上には、色とりどりの料理が並んでいた。
ハンバーグにポテトサラダ、具沢山のスープ。
食材は特売品ばかりとのことだが、どれもこれも気持ちがこもった「ご馳走」だ。
「「「いただきます!」」」
三人で食卓を囲む。
右手が使えない俺のために、葵さんがハンバーグを一口サイズに切ってくれていた。
その気遣いがとてもありがたい。
一方で茜ちゃんは、また俺に「あーん」をしようとして葵さんに止められたりしている。
そんな騒がしい夕食の時間が、何よりも愛おしかった。
食後のお茶を飲んでいる時、茜ちゃんが改まった様子で口を開いた。
「あのね、健二さん。……今日、学校帰りに払ってきたよ」
「ん?」
「修学旅行の追加費用と、授業料」
茜ちゃんは少し照れくさそうに、でも晴れやかな顔で言った。
姉貴から借りたお金で、無事に支払いを済ませたのだ。
「そうか。これで一安心だな」
「うん! 本当に……ありがとうございます! このご恩は、出世払いでお返しするから!」
茜ちゃんのキラキラした瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「うん、期待して待ってるよ。そういえば、修学旅行はどこに行くんだっけ?」
俺が聞くと、茜ちゃんの目がパァッと輝いた。
「沖縄だよ! 10月の頭から、3泊4日で!」
「へえ、沖縄か。いいなぁ」
「でしょでしょ! 美ら海水族館行って、国際通りで買い物して、夜はみんなで恋バナして……あーっ、楽しみすぎるよっ!」
茜ちゃんが、ガイドブックを広げて見せてくる。
その無邪気な笑顔を見て、俺は心の底から「よかった」と思った。
彼女が普通の高校生として、修学旅行を楽しみにできる。
その当たり前の日常を守れたことが、俺にとっては何よりの勲章だった。
「……茜」
洗い物を終えた葵さんが、こちらに戻ってきた。
「はい、これ」
葵さんが茜ちゃんに手渡したのは、小さな封筒だった。
「え、なにこれ?」
「あなたが倉庫のアルバイトで頑張って稼いだ、お給料よ」
それは、茜ちゃんが修学旅行費のためにと、無理をして稼いだお金だった。
「え? でも、このお金は生活費にしてって渡したじゃん」
「いえ……。そのお金は、茜が頑張って稼いだ大切なお金です。……だから、ちゃんと自分のために使いなさい」
「えっ、でも……」
「沖縄に行くんでしょう? せっかくだから、新しい水着でも買ってきたら?」
葵さんが優しく微笑む。
その言葉に、茜ちゃんは目を丸くし、それから飛び上がらんばかりに喜んだ。
「えっ! いいの!? 本当に!?」
「ええ。茜のお金だもの。誰も文句なんて言わないわよ」
俺も頷いて同調する。
「そうだな。頑張ったご褒美だ。パーッと使っちゃえばいいんじゃないか」
「やったぁぁぁ!! お姉ちゃん大好き! 健二さんも大好き!」
茜ちゃんは封筒を握りしめ、リビングをくるくると回る。
そして、ピタリと俺の前で止まり、俺の顔を覗き込むようにニヤリと笑みを浮かべた。
「じゃあさ、健二さん」
「ん? どうしたんだ?」
何か嫌な予感がするぞ……。
明らかに何か企んでいる顔だ。
茜ちゃんは、名案を思いついたように言った。
「今度の週末、水着選ぶの付き合ってよ! 男の人の意見も聞きたいし!」
ズイッと顔を近づけてくる。
俺は耳を疑った。
「えっ、俺が? 水着の買い物に?」
「うん! だって、健二さんは私の『監視役』なんでしょ? 私の水着姿、一番最初に見せてあげるから、責任持って付き合ってよ!」
女子高生の水着選びに、アラサー男が同行する。
非常に興味深い……って、いやいや、流石にダメだろ……。
下手すれば、捕まらないか?
「……茜」
その時、葵さんの声が、先ほどまでの明るいトーンから、一瞬にして低くなっていた。
葵さんは目元に微かな影を落とし、わずかに唇を引き結んでいる。
「二人でなんていけません。……私も行きます」
葵さんは一つ呼吸を置く。
そして俺の方を向き、ふわりと笑う。
しかし、その笑顔はどこか強張っているように見えた。
「佐藤さん? もちろん、いいですよね?」
「あ、はい。喜んで……」
気が付けば今週末の予定が決まっていた。
ギプスで固められた右腕が疼くのを感じながら、俺は嬉しさと少しの恐怖が入り混じった溜息をついたのだった。
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