第22話 天使の看病と、茜ちゃんの嘘
……ん……。
俺は重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた俺部屋の天井だった。
背中に感じる柔らかい感触。フローリングの床ではないことがわかる。
どうやら、俺はベッドに寝かされているようだった。
頭を動かすと、窓の外は明るいようだった。
鳥のさえずりが聞こえる。朝……いや、日差しの方角からすると、昼は過ぎているだろうか。
俺はどれくらいの間、気絶していたのだろう……。
コトッ、トントントン。
キッチンの方から、微かな物音と、何かを煮込むような良い匂いが漂ってくる。
安心するような、出汁の香り。
重くなった身体を起こそうとすると、額から何かが滑り落ちた。
拾い上げてみると、それはよく冷えた濡れタオルであった。
「あ、佐藤さん! 気がつきましたか!?」
物音に気づいたのか、キッチンからエプロン姿の葵さんが小走りで駆け寄ってくる。
心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「あれ? 葵さん……? どうして……」
「もう、びっくりしましたよ。昨日、仕事から帰ってきたら、茜が血相変えて……。『健二さんが倒れてる!』って」
「えっ……」
「茜が部屋に入ったときには、佐藤さんが玄関で倒れてて……。すごい熱だったので、とりあえずベッドまで運んだらしくて」
そうか。茜ちゃんが気づいてくれたのか。
壁が薄いおかげで、俺が倒れた音に気づいたのだろう。
大の大人を一人をベッドまで運ぶなんて、相当大変だったはずだ。
「すみません……ご心配おかけして……。休日なのに」
「謝らないでください! 私たちの方が、いつも助けられてばかりなんですから。こういう時くらい、頼ってください」
葵さんは優しく言った。
「それに……私よりも、茜にお礼を言ってあげてください。佐藤さんをベッドに運んでから、昨日の夜はずっと付きっきりで佐藤さんの看病をしてたんですよ。氷枕替えたり、汗拭いたりして……」
茜ちゃんが……。
朦朧とする意識の中で感じていた安心感は、彼女のおかげだったのか。
胸の奥が熱くなる。
グゥゥゥ~~~。
不意に、俺の腹の虫が盛大な音を立てた。
しんみりした空気が一瞬で霧散する。
「ふふっ」
「あ……いや、これは……」
「お腹、空きましたよね。丸一日何も食べてないんですから」
葵さんは口元を押さえてクスクスと笑うと、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょうど、お粥ができたところなんです。少し待っていてくださいね」
葵さんはキッチンへ戻り、湯気を立てる土鍋と茶碗をお盆に乗せて戻ってきた。
梅干しと、刻んだネギが添えられた、白く輝くお粥。
弱った胃袋には、どんなご馳走よりも魅力的に映る。
葵さんはベッドの脇に座り、土鍋をお茶碗によそう。
そのお粥を大きめのスプーンで掬うと、ふーふーと息を吹きかけて冷まし始めた。
そして、さも当たり前のように、自然な動作で俺の口元へ差し出す。
「はい、あーん」
……え?
俺は思考停止した。
目の前にはスプーン。その向こうには、慈愛に満ちた葵さんの笑顔。
いわゆる「あーん」である。
いやいやいや。
高校生カップルか新婚さんならまだしも、アラサーの男がやってもらうにはハードルが高すぎる。
「あ、あの……葵さん?」
「はい? どうしました? もしかして、熱いの苦手ですか?」
葵さんは不思議そうに首を傾げている。
その仕草で、綺麗な黒髪がさらりと揺れる。
どうやら無自覚らしい。天然なのか、看病モードに入って周りが見えていないのか。
だが、差し出されたスプーンを拒否するのも失礼だよな……。
俺は覚悟を決め、震える声で言った。
「い、いただきます……」
パクッ。
口の中に、優しい出汁の味と、お米の甘みが広がる。
……はずなのだが、緊張で味なんて分からなかった。
「どうですか? お口に合いますか?」
その声が、耳元で優しく響く。
彼女の瞳が俺を真っ直ぐに見つめ、少し潤んだような視線が向けられている。
「は、はい……すごく、美味しいです……」
「よかった! じゃあ、もう一口……」
葵さんは嬉しそうに笑い、また例の「ふーふー」をしてスプーンを差し出す。
その笑顔があまりにも無邪気で、俺の胸を締めつける。
このままでは俺の心臓が持たない。
それに、こんな至近距離で葵さんの顔を見続けるのは、理性の維持に多大なエネルギーを消費してしまう。
「あ、あの! 葵さん!」
「はい?」
「じ、自分で食べられますので! だいぶ回復しましたし……」
俺はお茶碗とスプーンを受け取ろうと手を伸ばす。
葵さんの動きが一瞬止まった。
彼女は自分の手にあるスプーンと、俺の顔を交互に見て、ようやく状況を理解したらしい。
「あ、あっ……!」
ボッ!という音が聞こえそうなくらい、葵さんの顔が瞬時に真っ赤になった。
「す、すみません! 私ったら……! 茜が風邪引いた時は、いつもこうして食べさせてたもので、つい癖で……!」
「い、いえ! その……ありがとうございました」
気まずい沈黙が流れる。
俺は咳払いを一つして、話題を変えようと口を開く。
「と、ところで、今日はお休みですよね。葵さんも予定があるでしょうに、俺の看病なんてさせてしまってすみません」
「いえ、今日はお休みですし、予定もありませんから。佐藤さんにはいつもお世話になっていますので、気にしないでください」
予定はない。
その言葉に、ふと昨日の「予約電話」のことが頭をよぎった。
「でも……今日は茜ちゃんとお出かけするんじゃなかったんですか?」
言ってしまってから、しまったと思った。
もしサプライズだとしたら、俺がネタバレしてしまったことになってしまう。
「え? 茜と、ですか?」
予想した反応と違い、葵さんはキョトンとしていた。
「特に、そんな予定はありませんけど……?」
「あれ? そうなんですか?」
「はい。それに茜は、今日は朝からバイトだって出かけて行きましたよ。『今日は人が足りなくて、閉店まで帰れないかも』って」
――え?
俺の手が止まった。
夜までバイト?
確か昨日の電話では、今日の18時にレストランを予約していたはずだ。
「……そう、ですか」
俺は平静を装って答えたが、嫌な予感が全身を駆け巡っていた。
頭の中では情報の断片が、最悪の考えへと組みあがっていく。
超高級イタリアン。
葵さんではない、誰かとの予約。
金銭的な事情。
唐突に昨日の悪夢がフラッシュバックする。
嫌な予感は、確信へと変わりつつあった。
「……葵さん、今、何時ですか?」
「えっと……もう16時になりますね」
16時。
記憶が確かなら、予約は18時だ。
まだ間に合う。もし、杞憂ならそれでもいい。
俺は食べ終わった茶碗を置き、一呼吸する。
身体はまだ重い。熱もまだあるだろう。
だが、このまま寝ているわけにはいかない。
大切な「家族」が、道を踏み外そうとしているかもしれないのだから。
面白い、続きが読みたいと思っていただけましたら、ブックマークと評価をお願いします!




