第21話 歪な悪夢と、壁越しの不協和音
金曜日の朝。
起きた瞬間から、世界がぐるぐると回っている感覚。
身体が鉛のように重く、関節の節々が軋むように痛い。
喉が張り付き、唾を飲み込むだけで激痛が走る。
(……やばいな、これは)
溜まっていた疲れに、季節の変わり目と、半期決算の激務が重なった結果、重めの風邪を引いてしまったようだ。
それでも、俺は這うようにして出社する。
今日中に終わらせなければならない書類があったからだ……。
案の定、昼過ぎには体が限界を迎える。
パソコンの画面が歪んで見え、文字が認識できない。
冷や汗が止まらず、デスクに突っ伏しているところを、同僚の田中に見つかる。
「おい佐藤、顔が真っ赤だぞ。熱があるんじゃないか?」
「……いや、大丈夫だ。これだけ終わらせたら……」
「バカ言え。そんな顔で仕事されても迷惑だ。さっさと帰れ帰れ」
結局、上司にも促され、俺は昼過ぎに早退することになった。
ふらつく足取りで電車に乗り、なんとかアパートにたどり着く。
体温計の表示は38.4度。
こんなに高熱を出したのは久しぶりだ。
買い置きしていたスポーツドリンクを無理やり流し込み、解熱剤を飲んで布団に潜り込む。
ふと、静けさに違和感を覚える。平日の真昼間なので当然だ。
しかし、以前は一人でいるのが当たり前だった部屋が、今はひどく広く、寒々しく感じる。
姉妹との賑やかな時間。美味しいご飯の匂い。
「おかえりなさい」という声。
それらがまるで幻想だったかのように、部屋はシンと静まり返っていた。
誰も看病なんてしてくれない。水一杯飲むのも自分で無理に体を動かす必要がある。
一人で何とかしなければいけない。
その事実が、高熱で弱った心を蝕んでいくように感じた。
熱に浮かされながら、俺は夢を見る。
それは、とても嫌な夢だった。
***
場所はどこか分からない、薄暗い霧の中。
霧の向こうに、葵さんと茜ちゃんが見える。
茜ちゃんは、似合わない豪華なドレスを着せられ、手足には黒い鎖が繋がれている。
その鎖の先には、顔のない黒い影たちが群がり、彼女をどこかへ引きずっていこうとしていた。
『お姉ちゃん……健二さん……。助けてぇ!』
茜ちゃんが泣いている。助けを求めている。
葵さんは茜ちゃんに必死に手を伸ばしているが、彼女もまた真っ黒な泥沼に足を取られ、動けずにいるようだ。
『待ってくれ! 茜ちゃん!』
俺は叫んで茜ちゃんに手を伸ばす。
だが、なぜか声が出ない。足も動かない。
二人の姿はどんどん小さくなり、暗い霧の向こう、黒い影の中へと飲み込まれていく。
大切なものが、指の隙間からこぼれ落ちていくような、どうしようもない喪失感――。
***
「……はっ!」
ガバッと跳ね起きた。
全身びっしょりと汗をかいている。
心臓が早鐘を打っていた。
「……夢、か」
ただの夢。高熱が見せた悪夢。
そう自分に言い聞かせるが、胸に残るざらりとした不安感は消えなかった。
まるで、何かの予兆のような、不吉な粘り気が心にこびりついている。
気がつくと、窓の外はすでに茜色に染まりかけていた。
数時間は眠っていたらしい。
熱は下がっていないようだ。むしろ、昼よりも上がっている気がする。
「……水」
尋常じゃない汗の量。喉もカラカラだ。
ゆっくりと、重くなった身体を起こそうとした時。
壁の向こう――203号室から、微かな物音と声が聞こえてきた。
『あの、もしもし……』
茜ちゃんの声だ。
学校から帰ってきたのだろうか。
いつもの元気な弾むような声とは違う、どこか緊張したような、少し背伸びをした余所行きの声色。
『予約をお願いしたいんですけど……はい。日にちは……明日の18時で……』
予約? 美容院か何かだろうか。
俺はぼんやりとした頭で、聞き流そうとした。
だが、次の言葉が、俺の意識を。
『あの、確認ですけど……店名って、イル・ルーチェって名前ですよね?』
――え?
俺は耳を疑った。
『イル・ルーチェ』。
それは、グルメ雑誌にも載るような、都内でも指折りの高級イタリアンレストランの名前。
姉貴から行ってきたことを、自慢されたことがあったので覚えている。
確か、ディナーコースなら、確か一人数万円は下らないはず。
予約を取るだけでも、一苦労な超有名店だ。
もちろん、高校生が行くような店ではない。いや、普通のサラリーマンだっておいそれとは行けないような場所だ。
『あ、すみません! 英語だとわからなくて。……はい、ディナーコースで。2名です。……名前は、月本です……』
間違いなく、茜ちゃんの声だ。
予約しているようだ。あの高級店を。2名分。
熱で朦朧とする頭の中で、思考が空回りする。
2名分……誰と行くんだ?
友達?
いや、高校生だけで行くような店じゃない。割り勘だとしても数万円だ。
もしかして、彼氏だろうか?
茜ちゃんに彼氏がいるとは聞いたことがないが、仮にいたとしても、同年代の彼氏とそんな店行くか?
ふと、一つの可能性に行き当たった。
葵さんは最近、仕事で疲れているようだ。新しい環境に慣れるため、毎日遅くまで働いている。
そんな葵さんに、茜ちゃんがサプライズを計画した。
そういえば、以前言っていた。「平日のバイトを増やした」と。
あの子のことだ。無理をしてバイト代を貯めて、葵さんのために……。
(優しい子だな……。でも、無理しすぎじゃないか……?)
健気な理由に納得しようとする自分と、なぜか胸の奥で警鐘を鳴らす自分がいた。
さっきの悪夢が脳裏をよぎる。暗い霧の中に消えていく、茜ちゃんと葵さんの姿。
本当に、大丈夫なのだろうか?
あの店は、高校生がバイト代を貯めたとしても、背伸びして行けるような場所じゃない。
何かが心に引っかかる。
考えようとしても、頭が割れるように痛い。
俺は壁に手をつき、立ち上がろうとした。
お節介でもいい。
「無理するな」って、一言声をかけるだけでも。
「うっ……」
手に力を入れ、立ち上がった瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
高熱によるめまいと、水分を取っていなかったことによる脱水症状。
天井がぐるりと回り、床が迫ってくる。
ガクン、と膝が折れた。
「……くそっ……」
ドサリと床に倒れ込む。
体を起こそうとするが、うまく力が入らない。
意識が暗転していく。
――プツン。
俺の意識は、そこで途切れた。
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