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薄壁越しの訳あり姉妹 ~彼女たちの部屋でGを退治したら、彼女たちに猛烈に愛され始めた件~  作者: 藍之介


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2/15

第2話 "G"襲来と、救世主

 それは、彼女たちの引っ越しから、一週間が経った頃のある夜のことだった。

 

 俺はその日も遅くまでの残業で、ヘトヘトなった体を引きずって帰宅。

 なんとか自分の部屋に戻り、スーツを脱ぎ捨てる。

 デスクワークでガチガチに凝り固まった、肩と首をポキポキ鳴らしながら、家着のジャージに袖を通そうとしたその瞬間であった――


『きゃああああああああああああああっ!!!』


 薄い壁がびりびりと震えるほどの、魂の叫びが隣から響き渡った。


「っ!?」


 思わずジャージを着る手が止まり、心臓がドクンと跳ね上がった。

 なんだ!? 強盗か!? DVか!? 殺人事件か!?


 いや、待て。この声の主は――あの元気な妹さん、たしか茜ちゃんだったか。

 その声に間違いなかった。


『いやあああ! お姉ちゃん無理無理無理無理! 飛んだ! 今めっちゃ飛んだよ!? 羽音がブンブン言ってるよ!?』

『ひぃっ……! こ、こっち来ないでぇ……! 茜、殺虫剤どこ!? 早くぅ!』

『まだ段ボールの中だよぉぉ! どれだかわかんないよぉぉ! あーもう! こっちにこないでぇぇぇぇ!』


 ……ああ。

 俺は全身の力が抜けて、ベッドにドサッと腰を落とした。

 そういうことか。


 この古い木造アパートの、夏の風物詩。

 黒光りする悪魔――Gゴキブリである。


 ドタバタドタバタ! バタン! ガシャン!


 壁一枚隔てた向こう側で、まるでプロレスみたいな大乱闘が繰り広げられている気配がする。

 床を走る音、飛び跳ねる音、何かが倒れる音。そして――


『お姉ちゃん! 雑誌! とりあえず雑誌で叩いて!』

『無理無理無理無理! 潰れた時のあのプチッて感触とか絶対無理! 茜がやってよぉ!』

『私だって嫌だよ! あっ、今エアコンの上に乗った! 見下ろしてる……! あいつ、完全に私たちを見下ろしてるよぉぉぉ!!』


 絶望の合唱。涙声と震える声が交互に重なる。

 ……まあ、そりゃそうだよな。

 若い女の子の二人きりの生活。

 俺だって得意なわけじゃない。

 でも、かれこれ一人暮らし歴も10周年になる。

 奴らとは何度も死闘を繰り広げてきた。

 もう「見慣れた」ってレベルじゃない。「同居人」くらいの認識だ。


 それに――このアパート、壁薄すぎるんだよなぁ。

 放っておいたら、どこかの隙間から普通にこっちに来る。

 実際、去年は風呂に入るときに、奴が浴槽で溺死してるのを発見して心底泣きそうになった。


 ……助けてやるか。


 でも、夜の10時過ぎに、独身男が隣の女子部屋を訪ねるって……完全に不審者だよなぁ。

 最悪、通報されるレベルだろう。

 でも、このままじゃ今夜は一睡もできない。

 このまま、大音量の悲鳴がBGMで流れ続けるのだ。

 それに――


『もうダメ……この家、住めない……』

『お姉ちゃんしっかりして! 私たち、他に行くところなんてないんだよ!? ほんとにないんだからね!?』


 ……うわ。

 なんか、急に声の色が変わった。冗談抜きで、絶望の底みたいな響き。

 俺はため息をついて立ち上がった。

 棚の奥から、俺の最強の相棒を取り出す。

 ――ゴキジェット。

 業務スーパーで箱買いしてるやつだ。

 そして、とどめ用の古新聞を丸めて握りしめた。


 よし、行くか。

 俺は決意を固め、部屋を飛び出す。

 廊下に出て――203号室のチャイムを、覚悟を決めて押した。


 ピン……ポォ……

 例の物悲しいチャイムが鳴る。


『『ひっ!?』』


 中から小さな悲鳴が漏れる。

 続いて、ガチャガチャとチェーンを外す音。

 ゆっくりとドアがほんの10センチほど開いて、涙でぐしゃぐしゃの茜ちゃんの顔がちらりと覗く。

 ショートカットの髪は乱れまくり、頬に涙の跡。

 いつもの快活な面影はなく、完全なパニック状態と見て取れた。


「あ、あのっ……! 本当にごめんなさい! うるさくて……! 今すぐ静かにしますから……!」

「いや、騒音のクレームとかじゃなくて……」


 俺は苦笑いしながら、右手のゴキジェットを軽く振ってみせた。


「……出ましたよね? ゴキブリ」


 その瞬間。

 茜ちゃんの瞳が、ぱっと輝いた。

 まるで、絶望の淵に現れた救世主を見たように。


「――っ!」


 チェーンがガチャリと外される。

 次の瞬間、ドアが勢いよく全開に――


「神様ぁぁぁぁ!!!」


 いきなり、茜ちゃんが俺の腕に飛びついてきた。


「お願いします! 助けてください! ほんとに! もう私たちダメなんです! あいつ絶対私たちを殺す気です!!」


 勢い余って俺の胸に顔を埋めながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら懇願してくる。

 甘いシャンプーの香りと、少女の体温が――って、今はそんな場合じゃない!


「わ、分かりましたから! ちょっと落ち着いて!」


 俺は靴を脱ぎ、慌てて部屋に踏み込んだ。

 部屋の中は最早戦場だった。

 段ボールが散乱し、クッションは床に落ち、小さな棚は倒れている。

 姉の「葵さん」は部屋の隅で体育座りして、両手で耳を塞ぎながらブルブル震えていた。

 黒髪ロングの美しい髪はくしゃくしゃに乱れ、普段は儚げで整った顔が、今は恐怖で真っ青だ。

 誰か来たことに気づき、涙で潤んだ瞳がゆっくりと俺を捉えて――


 コク、コク、コク、コク……


 必死に頷いている。

 無言であるが「助けて」と、全身で訴えていた。

 その姿があまりにも可哀想で、俺の胸がきゅっと締めつけられた。


 ……よし、任せろ。


 俺は静かに息を吐いて、相棒ゴキジェットを構えた。


「奴の場所は?」

「え、エアコンの上です……!」


 茜ちゃんが震える指で天井付近を指す。

 視線を上げると――

 

 いた。

 

 黒光りするボディを輝かせながら、エアコンの上で仁王立ち。

 完全にこっちを見下ろしてる。まるで「来いよ」と挑発してるみたいに。


「……お前か」


 俺は静かに呟いて、一歩踏み出した。

 戦いは、静かに始まった。

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