第2話 "G"襲来と、救世主
それは、彼女たちの引っ越しから、一週間が経った頃のある夜のことだった。
俺はその日も遅くまでの残業で、ヘトヘトなった体を引きずって帰宅。
なんとか自分の部屋に戻り、スーツを脱ぎ捨てる。
デスクワークでガチガチに凝り固まった、肩と首をポキポキ鳴らしながら、家着のジャージに袖を通そうとしたその瞬間であった――
『きゃああああああああああああああっ!!!』
薄い壁がびりびりと震えるほどの、魂の叫びが隣から響き渡った。
「っ!?」
思わずジャージを着る手が止まり、心臓がドクンと跳ね上がった。
なんだ!? 強盗か!? DVか!? 殺人事件か!?
いや、待て。この声の主は――あの元気な妹さん、たしか茜ちゃんだったか。
その声に間違いなかった。
『いやあああ! お姉ちゃん無理無理無理無理! 飛んだ! 今めっちゃ飛んだよ!? 羽音がブンブン言ってるよ!?』
『ひぃっ……! こ、こっち来ないでぇ……! 茜、殺虫剤どこ!? 早くぅ!』
『まだ段ボールの中だよぉぉ! どれだかわかんないよぉぉ! あーもう! こっちにこないでぇぇぇぇ!』
……ああ。
俺は全身の力が抜けて、ベッドにドサッと腰を落とした。
そういうことか。
この古い木造アパートの、夏の風物詩。
黒光りする悪魔――Gである。
ドタバタドタバタ! バタン! ガシャン!
壁一枚隔てた向こう側で、まるでプロレスみたいな大乱闘が繰り広げられている気配がする。
床を走る音、飛び跳ねる音、何かが倒れる音。そして――
『お姉ちゃん! 雑誌! とりあえず雑誌で叩いて!』
『無理無理無理無理! 潰れた時のあのプチッて感触とか絶対無理! 茜がやってよぉ!』
『私だって嫌だよ! あっ、今エアコンの上に乗った! 見下ろしてる……! あいつ、完全に私たちを見下ろしてるよぉぉぉ!!』
絶望の合唱。涙声と震える声が交互に重なる。
……まあ、そりゃそうだよな。
若い女の子の二人きりの生活。
俺だって得意なわけじゃない。
でも、かれこれ一人暮らし歴も10周年になる。
奴らとは何度も死闘を繰り広げてきた。
もう「見慣れた」ってレベルじゃない。「同居人」くらいの認識だ。
それに――このアパート、壁薄すぎるんだよなぁ。
放っておいたら、どこかの隙間から普通にこっちに来る。
実際、去年は風呂に入るときに、奴が浴槽で溺死してるのを発見して心底泣きそうになった。
……助けてやるか。
でも、夜の10時過ぎに、独身男が隣の女子部屋を訪ねるって……完全に不審者だよなぁ。
最悪、通報されるレベルだろう。
でも、このままじゃ今夜は一睡もできない。
このまま、大音量の悲鳴がBGMで流れ続けるのだ。
それに――
『もうダメ……この家、住めない……』
『お姉ちゃんしっかりして! 私たち、他に行くところなんてないんだよ!? ほんとにないんだからね!?』
……うわ。
なんか、急に声の色が変わった。冗談抜きで、絶望の底みたいな響き。
俺はため息をついて立ち上がった。
棚の奥から、俺の最強の相棒を取り出す。
――ゴキジェット。
業務スーパーで箱買いしてるやつだ。
そして、とどめ用の古新聞を丸めて握りしめた。
よし、行くか。
俺は決意を固め、部屋を飛び出す。
廊下に出て――203号室のチャイムを、覚悟を決めて押した。
ピン……ポォ……
例の物悲しいチャイムが鳴る。
『『ひっ!?』』
中から小さな悲鳴が漏れる。
続いて、ガチャガチャとチェーンを外す音。
ゆっくりとドアがほんの10センチほど開いて、涙でぐしゃぐしゃの茜ちゃんの顔がちらりと覗く。
ショートカットの髪は乱れまくり、頬に涙の跡。
いつもの快活な面影はなく、完全なパニック状態と見て取れた。
「あ、あのっ……! 本当にごめんなさい! うるさくて……! 今すぐ静かにしますから……!」
「いや、騒音のクレームとかじゃなくて……」
俺は苦笑いしながら、右手のゴキジェットを軽く振ってみせた。
「……出ましたよね? ゴキブリ」
その瞬間。
茜ちゃんの瞳が、ぱっと輝いた。
まるで、絶望の淵に現れた救世主を見たように。
「――っ!」
チェーンがガチャリと外される。
次の瞬間、ドアが勢いよく全開に――
「神様ぁぁぁぁ!!!」
いきなり、茜ちゃんが俺の腕に飛びついてきた。
「お願いします! 助けてください! ほんとに! もう私たちダメなんです! あいつ絶対私たちを殺す気です!!」
勢い余って俺の胸に顔を埋めながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら懇願してくる。
甘いシャンプーの香りと、少女の体温が――って、今はそんな場合じゃない!
「わ、分かりましたから! ちょっと落ち着いて!」
俺は靴を脱ぎ、慌てて部屋に踏み込んだ。
部屋の中は最早戦場だった。
段ボールが散乱し、クッションは床に落ち、小さな棚は倒れている。
姉の「葵さん」は部屋の隅で体育座りして、両手で耳を塞ぎながらブルブル震えていた。
黒髪ロングの美しい髪はくしゃくしゃに乱れ、普段は儚げで整った顔が、今は恐怖で真っ青だ。
誰か来たことに気づき、涙で潤んだ瞳がゆっくりと俺を捉えて――
コク、コク、コク、コク……
必死に頷いている。
無言であるが「助けて」と、全身で訴えていた。
その姿があまりにも可哀想で、俺の胸がきゅっと締めつけられた。
……よし、任せろ。
俺は静かに息を吐いて、相棒を構えた。
「奴の場所は?」
「え、エアコンの上です……!」
茜ちゃんが震える指で天井付近を指す。
視線を上げると――
いた。
黒光りするボディを輝かせながら、エアコンの上で仁王立ち。
完全にこっちを見下ろしてる。まるで「来いよ」と挑発してるみたいに。
「……お前か」
俺は静かに呟いて、一歩踏み出した。
戦いは、静かに始まった。
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