第18話 夏の終わりと、苦しい現実
翌朝。
祝勝会や模擬カウンセリングの一件で、体はかなり疲れているはずが、朝はいつもと同じ時間に起きられるから不思議なものだ。
眠い目をこすりながら、ゴミ出しのために玄関を出ると、ちょうど隣の203号室のドアが開く。
出てきたのは、葵さんだった。
だが、いつもの穏やかな「おはようございます」ではなく、彼女は顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で口を開く。
「……さ、佐藤さん……」
「あ、葵さん、おはようございます」
「さ、昨日は……その、酔っていたとはいえ、大変失礼なことをしてしまい……申し訳ありませんでした……!」
葵さんは深々と頭を下げた。
耳まで真っ赤だ。どうやら、昨夜の記憶が鮮明に残っているらしい。
『私じゃ……不満ですか?』
『一生、美味しいご飯作りますよ?』
昨日の大胆なセリフが脳裏をよぎり、俺もまた、顔が熱くなるのを感じた。
「い、いや、あれは模擬カウンセリングでしたし……俺も、その、変なこと言ってしまって……」
「忘れてくださいっ!」
葵さんが俺を遮るように言い放つ。
「穴があったら入りたい気分なんです……。うぅ、私、なんであんな……」
「ま、まあ、お互い酔っていましたし、一旦忘れましょう」
いたたまれなくなり、俺は話題を強引に変える。
「葵さん……今日も仕事ですよね? 行ってらっしゃい」
「は、はい……! 行ってきます……!」
葵さんは逃げるように階段を駆け下りていく。
その背中を見送りながら、俺は苦笑いするしかなかった。
なんだか、一気に距離が縮まったような、逆に意識しすぎて気まずくなったような。
ふと視線を感じて振り返ると、203号室のドアの隙間から、茜ちゃんがニヤニヤしながらこちらを観察していた。
「……おはよう、茜ちゃん。覗きなんて趣味が悪いぞ?」
「おはよー健二さん。いやー、青春だねぇ」
「茶化すな。ほら、今日はバイトか? 遅刻するぞ」
「はーい! いってきまーす」
こうして、俺たちの騒がしくも新しい日常が始まった。
***
それから数週間。
葵さんは正式に『マリアージュ・ガーデン』に入社し、怒涛の日々を送っているようであった。
姉貴の会社は少数精鋭で、以前言っていた通り、新人も即戦力として扱われる。
葵さんは毎日覚えることに追われ、帰宅も遅くなりがちのようだ。
だが、その表情は以前とは比べ物にならないほど明るく、晴れやかだった。
「昨日は初めて会員様とお見合いのプロフィール写真撮影に行ってきたんです! すごく緊張しましたけど、会員様が『月本さんのおかげで自然に笑えました』って言ってくださって……」
週末、俺の部屋で夕飯を作ってくれながら、葵さんは目を輝かせて報告してくれる。
彼女は今、水を得た魚のように生き生きとしていた。
自分の仕事に誇りを持ち、人の役に立っている実感があるのだろう。
俺はビールを飲みながら、そんな彼女の話を聞くのが楽しみになっている。
一方、茜ちゃんは夏休みなこともあり、俺の部屋に入り浸る時間が増えていた。
葵さんが仕事でいない昼間から、「自分の家の方が暑いから」という理由で涼みに来る。
漫画を読んだり、ゲーム機を勝手に起動して遊んだりしているらしい。
俺が帰ってくると、「おかえりー」と言いながら、茜ちゃんが部屋くつろいでいるのも見慣れた光景である。
まるで、年の離れた妹ができたようで、それはそれで悪くない時間だった。
だが、そんな穏やかな時間は、季節の移ろいと共に少しずつ変化の兆しを見せ始める。
***
楽しかった夏休みもあっという間に終わり、9月になった。
今日から新学期が始まる。
私もいつもの学校生活へと戻っていく。
ある日の放課後。
私は教室で、仲の良い友人グループと机を囲んでいた。
「ねえねえ、修学旅行の班決め、どうするー?」
「私、絶対ミナミと同じ班がいい!」
「アタシも茜と一緒の班がいいなー。班で部屋割りも一緒だったよね?」
教室中が、浮き足立った空気に包まれている。
高校2年生の秋。最大のイベントである修学旅行が近づいていたのだ。
行き先は沖縄。3泊4日の旅。
例に漏れず、私も友人たちとガイドブックを見ながら盛り上がる。
「楽しみだよねー! 私、新しい水着買っちゃおうかな」
「いいねぇ! あ、寝る前に恋バナとかしよーよ!」
チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
担任の先生が、プリントの束を配り始めた。
「今から大事な用紙を配るぞー! 修学旅行の最終案内と、費用の振込用紙な。全員、来週の金曜までに親御さんに渡して、確認印もらってくるように」
回ってきたプリントを受け取る。
私は、何気なくその「費用」の欄に目を落とした。
そして、息がとまる。
『修学旅行積立金不足分および追加費用:85,000円』
……えっ?
思わず目をこすって二度見した。
8万5千円。
確か積立金があったはずだ……。プリントを凝視する。
そこには、積立の残額の他に、物価高や燃料費高騰の影響で、追加徴収が発生していると書いてあった。
周りのクラスメイトたちは「えー、高くない?」「親に文句言われそう」と軽くぼやいている程度。
だが、私にとってその数字は鉛のように重くのしかかった。
(8万……。私のバイト代、2ヶ月分……)
お姉ちゃんは転職したばかりだ。
前のブラック企業より待遇は良いと聞いているが、まだ試用期間中だし、貯金も底をついているはず。
そんな状況で、「8万円ください」なんて、口が裂けても言えない。
***
重い足取りでアパートに帰ってきた。
階段を上がり、203号室のドアを開ける。
当然、お姉ちゃんはまだ帰っていない。部屋は薄暗く、静まり返っている。
「……はぁ」
私は鞄を置き、テーブルの上に視線を落とす。
そこには、未開封の郵便物が数通、散らばっていた。
お姉ちゃんも忙しくて、確認する暇がないのだろう。
何気なく手に取って整理しようとした時、一通の封筒に目が止まった。
差出人は、私が通う高校の名前。
宛名は『保護者様』。
嫌な予感がした。心臓がドクンと嫌な音を立てる。
震える手で封筒を開ける。
中から出てきたのは、『後期授業料納付のお知らせ』という一枚の紙切れだった。
『納付金額:216,000円』
『納付期限:10月末日』
目の前が真っ暗になる。
修学旅行費の8万円どころではない。
お姉ちゃんの一ヶ月分のお給料で足りるかどうか。
それに、修学旅行費と合わせて約30万円。
今の月本家にとって、それは天文学的な数字だった。
(……どうしよう)
私は、その場にへたり込んだ。
お姉ちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
ようやくブラック企業から解放され、夢だった仕事に就き、毎日生き生きと働いている姿。
「茜、夕飯何がいい?」と聞いてくる優しい声。
その姉に、この紙を突きつけることができるだろうか。
「お金が必要だ」と言えば、お姉ちゃんはきっと無理をしてでも用意するだろう。自分の食事を削り、睡眠を削り、ボロボロになってでも。
――そんなの、嫌だ。
茜ちゃんは、修学旅行のプリントと、授業料の振込用紙を重ねて、ギュッと握りしめた。
そして、自分の通学鞄の奥底に押し込む。
こんなの、お姉ちゃんには見せられない。
私がなんとかしなきゃ。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がする。
「ただいまー! ごめん茜、遅くなっちゃって」
お姉ちゃんが帰ってきた。
少し疲れているようだが、声は明るい。
「あ、おかえり、お姉ちゃん」
慌てて鞄のチャックを閉め、いつものように明るい声で振り返る。
だが、その笑顔は引きつっていたかもしれない。
お姉ちゃんは気づかずに、「今日ね、玲子さんに褒められたの!」と嬉しそうに話し始めた。
その楽しげな横顔を見ながら、私の胸の奥には、黒く重い憂鬱が渦巻く。
誰にも相談できない。
健二さんに頼るわけにもいかない。彼は他人だ。これ以上甘えるわけにはいかない。
しかも、お金のことなんて……。
私が、大人にならなきゃいけないんだ。
窓の外では、秋の虫が鳴き始めている。
私にとって、長く、苦しい秋を予感させる音であった。
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