第16話(後編) ブラック企業と、魔女の戦い
姉貴は懐から名刺を取り出し、課長の手の中に滑り込ませる。
「株式会社マリアージュ・ガーデン、代表取締役の神崎です」
「マリアージュ……? 聞いたこともねえな。そんな弱小の女社長が、何の用だってんだ」
課長は名刺を一瞥し、鼻で笑う。
だが、姉貴の笑みは深まるばかりだ。
「弱小……ふふ、そうね。でも、法律も知らない裸の王様よりは、マシなつもりよ」
「あぁ!?」
「さっき言ってたわよね。『俺が払えと言ったら払う』って。それ、どこの国の法律かしら? 労働基準法第16条、賠償予定の禁止。民法第90条、公序良俗違反。……あんたの発言、全部違法よ。録音もしっかり取らせてもらったわ」
姉貴が指を鳴らすと、俺はポケットからスマホを取り出し、先ほどの暴言の録音データを再生する。
『うるせぇ! 俺が払えと言ったら払うんだよ!』という汚い声が、オフィスに響き渡った。
「き、貴様ら……盗み聞きしやがって……!」
「盗み聞き? 身を守るための正当な防衛よ」
姉貴は一歩前に出た。課長がたじろぐ。
「葵さん。言ってやりなさい。あなたがずっと言いたかったことを」
姉貴に促され、葵さんが顔を上げた。
その瞳に、もう迷いはない。
「……私は、会員様を金づるだなんて思いません」
凛とした声が響く。
「彼らは、幸せになりたいと願う、一人の人間です。それを踏みにじるようなあなたのやり方は……間違っています!」
「なっ……生意気な口を……!」
課長が手を振り上げたその時。
「何事だ!!」
奥の社長室のドアが開き、小太りの初老の男が現れる。
この会社の社長だ。騒ぎを聞きつけて出てきたのだろう。
「しゃ、社長! も、申し訳ございません。こいつらが営業妨害を……!」
課長が助けを求めるように駆け寄る。
だが、社長の視線は、課長ではなく姉貴に釘付けになっていた。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……か、神崎……玲子……!?」
「あら、お久しぶりね。社長さん」
姉貴がにっこりと微笑むと、社長は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「しゃ、社長? お知り合いですか?」
「バカヤロウ! お前、相手が誰だかわかってんのか!?」
社長が震える声で怒鳴る。
「この業界にいて、神崎玲子の名前を知らない奴はいない!」
課長はなぜ怒鳴られたかわからず、「す、すみません」と謝る。
社長は言葉を続けた。
「俺がまだ大手の相談所にいた頃、彼女はカウンセラーの一人だった……。とある相談所からの会員の斡旋があったとき、その相談所のやり方に腹を立て、文字通りその事務所を潰しやがったんだ!」
どうやら、姉貴の武勇伝は本物だったらしい。
この業界で悪どい商売をしている人間にとって、神崎玲子の名は魔女というよりも死神らしい。
「人聞きの悪いこと言わないでくださる? 私はただ、業界の害虫駆除をお手伝いしただけよ」
姉貴は氷のような冷笑を浮かべ、社長と課長を交互に見やる。
「私はね、害虫は一匹たりとも逃がさない主義なの。巣ごと焼き払うのが、一番衛生的でしょう?」
その言葉に、社長の膝がガクガクと震え出す。
姉貴からあふれ出る、人を圧倒する威圧感。
「も、もちろん、すぐに対処させていただきます……! 退職も、未払い分も、すべて!」
社長は額の汗を拭うのも忘れ、必死である。
その姿は命乞いにしか見えなかった。
課長は状況が飲み込めず、口をパクパクさせている。
「おい、お前! 月本くんに謝れ! 土下座だ!」
「え、えぇ……!?」
「土下座しろと言ってるんだ!!」
社長に怒鳴られ、課長は屈辱に顔を歪ませながら、膝をつく。
だが、最後に悪あがきのように、捨て台詞を吐いた。
「くそっ……覚えてろよ。お前みたいな無能、どこ行ったって通用しねえぞ……!」
その言葉を聞いて、葵さんはふっと息を吐いた。
恐怖でも、怒りでもない。
それは、心の底からの「憐れみ」であった。
「……可哀想な人ですね」
葵さんの言葉に、課長が顔を上げる。
「人を不幸にすることでしか、自分の価値を確認できないなんて。……私は、あなたのような『偽物』にはなりません。人の心を大切にする、本物のプロになってみせます」
葵さんの言葉は、どんな罵倒よりも深く、課長のプライドをえぐったようだった。
彼は顔を真っ赤にして、言葉を失い、ただわなわなと震えることしかできない。
「お世話になりました。……さようなら」
葵さんは深く一礼し、踵を返す。
俺と姉貴もそれに続く。
去り際、姉貴は振り返り、凍りつくような笑顔で言い放った。
「あ、そうそう。社長さん」
「は、はい……!」
「この業界、横のつながりが大事よね? 次の定例会、楽しみにしててね。……今回の件、たーっぷりと報告させてもらうから」
社長がその場に崩れ落ちる音が聞こえた。
それは、この会社が業界的に抹殺される未来を告げる音でもあったようだ。
ビルを出ると、外は雲ひとつない快晴。
葵さんが、空を見上げて大きく息を吸い込む。
「……終わった……」
「お疲れ様。かっこよかったよ」
俺が声をかけると、彼女は涙ぐんだ笑顔で振り返った。
「ありがとうございます。佐藤さん、玲子さん……本当に、ありがとうございました!」
彼女の頬を伝う涙は、陽の光を受けてキラキラと輝いている。
それは、シンデレラが灰被りのドレスを脱ぎ捨て、新しい一歩を踏み出した瞬間だった。
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