第15話 姉貴の襲来と、一つの決意
翌朝。午前8時。
いつもなら出勤している時間だが、今日の俺は部屋にいた。
理由は単純。
昨夜、電話を切った直後、姉貴から『あんたも有給取りなさい。逃がさないわよ』という、脅迫めいたメッセージが届いたからである。
葵さんが会社に休みの連絡を入れたのを確認した後、俺も会社に「身内の急用で」と連絡を入れた。
嘘ではない。姉貴の来訪は、家族における緊急事態だ。
葵さんと茜ちゃん(茜ちゃんは夏休み中の登校日なので、今日は制服姿だ)と一緒に、俺の部屋でその時を待つ。
ピン……ポォ……。
いつもの間の抜けたチャイム音が鳴った。
だが、その音色すら、今日はどこか緊張感を孕んでいるように聞こえる。
「……来たか」
俺はゴクリと唾を飲み込み、玄関へ向かう。
深呼吸を一つして、ドアを開けた。
「遅いわよ、健二」
開口一番、飛んできたのは文句だった。
そこに立っていたのは、築35年のボロアパートには似つかわしくない、鮮やかなロイヤルブルーのパンツスーツに身を包んだ美女――俺の姉貴、「神崎玲子」その人。
手入れの行き届いたボブカットが風に揺れ、足元のピンヒールがコツコツと木造の床を叩く。
「……おはよう、姉貴。相変わらず派手だな」
「地味よりマシでしょ。それにしても……」
姉貴はサングラスを外し、アパートの外壁を忌々しそうに見上げた。
「なによこの昭和の遺跡みたいなボロアパートは。まだこんな所に住んでるの? 湿気でアンタにもカビが生えるわよ」
「住めば都なんだよ。家賃も安いし」
「安物買いの銭失いって言葉、知ってる? 環境は人を作るのよ。こんな所にいたら、心まで湿っぽくなるわ」
マシンガントークは健在だ。
俺は苦笑いしながら、彼女を部屋に招き入れる。
***
「お邪魔するわね」
姉貴が部屋に入ると、空気が一変する。
狭い部屋に5人だと、かなり窮屈だ。
葵さんと茜ちゃんが、緊張した面持ちで立ち上がり、深々と頭を下げた。
「は、初めまして! 月本葵と申します。昨日はお電話で、ありがとうございました……!」
「妹の茜です! よろしくお願いします!」
姉貴は二人をじっと見つめる。その目は、獲物を品定めする猛禽類のように鋭い。
数秒の沈黙の後。
姉貴の表情が、パァァァッと輝いた。
「あらまぁ……!」
姉貴はツカツカと葵さんに歩み寄り、その手を取る。
「なんて可愛らしいの! 電話の声も素敵だったけど、実物はもっといいわ! 清楚で、品があって、でもどこか芯の強さを感じさせる瞳……。最高じゃない!」
「え、えぇっ!?」
葵さんが目を白黒させる。
「茜ちゃんも! ショートカットが似合ってて健康的で、とってもチャーミングだわ! あなたたち、原石よ! 磨けばとんでもない宝石になるわ!」
姉貴のテンションが、いきなりマックスに振りきれる。これは職業病とのことだ。
曰く、良い素材(会員や人材)を見つけると、どうしてもスイッチが入ってしまうらしい。
「改めまして。神崎玲子よ。この冴えない弟の姉やってるわ」
「さ、冴えないなんて……佐藤さんには、本当に良くしていただいて……」
「あら、謙遜しなくていいのよ。こいつの取り柄なんて、無駄に高い家事スキルと、無駄に人がいいところくらいなんだから」
姉貴は俺の方を向き、ニヤリと笑う。
「でもね……、葵さん。こいつ、物件としては『優良』よ。浮気はしないし、稼ぎもそこそこ安定してるし、何より料理が上手い。逃がしたら損よ?」
「ぶっ……!?」
俺は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
葵さんは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
「あ、あ、あの……そんなことっ……!」
「ふふ、冗談よ。……半分はね」
姉貴は意味深にウィンクをすると、すぐに真剣な表情に戻る。
この仕事モードへの切り替えの早さが、姉貴の武器。
「さて。茜ちゃんは学校よね? 行ってらっしゃい。大人の話は、帰ってきてからのお楽しみよ」
「はーい! 玲子さん、後でまたね!」
茜ちゃんは姉貴の雰囲気が変わったのを瞬時に読み取り、元気に登校していった。流石である。
その姿を見送った後、姉貴はちゃぶ台の前に座り、持参した革の鞄から分厚いファイルを取り出した。
「ここからは本題よ。葵さん、座って」
少し空気が張り詰める。
葵さんは居住まいを正し、正座をした。
「昨日聞いた話から、対策を練ってきたわ。……結論から言うと、その会社、潰す気でいくわよ」
姉貴の言葉は、冷徹な刃物のようである。
「昨日の話が本当だとすると。未払い残業代、パワハラ、セクハラ……役満ね」
姉貴は真剣な表情で続けた。
「で、証拠はあるの? 暴言の録音とか、セクハラのメールとか」
姉貴の問いに、葵さんは申し訳無さそうに首を横に振る。
「いえ……。ずっと怖くて、何も……。昨日の今日で会社も休んでしまったので、証拠は何もありません……」
「そう。まあ、そうよね」
姉貴は想定内といった様子で頷いた。
「普通は泣き寝入りするか、逃げるかだもの。証拠なんて残せてないのが普通よ。……でもね、それじゃあ勝てないの」
姉貴はそっとファイルを閉じた。
「相手はそのブラック体質で今までやってきてるのよ。『そんなこと言っていない』『指導の一環だ』ってしらばっくれるに決まってるわ。証拠がないまま乗り込んでも、水掛け論で終わるだけ」
「そ、そうですよね……」
葵さんが肩を落とす。
やはり、無理なのだろうか。諦めの色が浮かびかけた時、姉貴がニヤリと笑った。
「だから、明日。……証拠を取りにいくわよ」
「えっ?」
「ないなら、その場で吐かせればいいのよ。言質を取るの」
姉貴は鞄からペン型のICレコーダーを取り出し、テーブルに置く。
「……葵さん、あなたに囮になってもらうわ」
「お、囮……ですか?」
「ええ。明日、あなた一人で会社に行ってもらうの。そして、課長に『辞めさせていただきます』って伝えるのよ」
葵さんの顔色がサッと青ざめた。
「ひ、一人で……ですか? そんな、私……」
「大丈夫。一人じゃないわ」
姉貴は俺を見る。
「私と健二も一緒に行く。でも、最初は姿を見せないわ。会社の前か、あるいはオフィスの入り口で待機してる。葵さん、あなたは胸ポケットにこのレコーダー(ペン)を入れて、録音状態にしたまま課長のところへ行くの」
姉貴の目が鋭く光った。
「あなたが『辞める』と言えば、その課長はどういう反応をすると思う?」
「……きっと、怒ります。大声で怒鳴って……損害賠償だとか、脅してくると……」
「それが狙いよ。その暴言、脅迫、全て綺麗に録音させてもらうわ。それが決定的な証拠になる」
現行犯逮捕のようなものか。
確かに、過去のデータがないなら、今この瞬間の悪意を切り取るしかない。
「そして、相手が最高潮にヒートアップして、ボロを出したタイミングで……私たちが乗り込む。そこからは私のターンよ」
姉貴は自信満々に言い放つ。
完璧なシナリオだ。だが、最大の問題は――。
「……私が、耐えられるでしょうか」
葵さんが震える声で言った。
自分がボロボロになった元凶である課長と対峙し、わざと怒らせるようなことを言うのだ。
今の彼女にとって、それはあまりにも過酷なミッションである。
「怖い?」
「……はい。怖いです。また、あんな風に怒鳴られると思うと……足がすくんで……」
葵さんは、自分の腕を抱くようにして震えている。
細い肩が、小刻みに上下するたびに、長い黒髪がふるふると揺れていた。
「それに……」
おずおずと、もう一つの不安が漏れ出す。
「もし、本当に辞めたとして……私、どこにも行く当てがありません。転職なんて……今よりもっと悪い職場だったらどうしようとか……妹を養っていけるのかとか、考えれば考えるほど怖くなって……」
言葉がそこで途切れる。
ちゃぶ台の上の麦茶の氷が、カランと小さく鳴った。
その沈黙を破ったのは、姉貴の乾いた指の音であった。
パチン、と指を鳴らし、ニヤリと口角を上げる。
「――行く当てなら、もう目の前にあるわよ」
「え……?」
葵さんが、思わず顔を上げた。
「今日確信したわ。あなた、『カウンセラー』という仕事に、ものすごく向いてる」
姉貴は、真っ直ぐに葵さんを見る。
その視線は厳しくも温かく、獲物を見る猛禽類というより、宝石店の鑑定士のようであった。
「人の話をちゃんと聞ける耳。相手の感情に寄り添える目。それから、自分がどれだけ追い詰められてても、妹さんのことを一番に考えるその優しさ。全部、私のところに欲しい資質よ」
「わ、私の……?」
「ええ。――葵さん」
姉貴の口調がふっと柔らかくなる。
「その会社をきちんと辞めて、ケリをつけることができたら……その後は、私のところに来なさい」
一拍置いて、はっきりと言った。
「『マリアージュ・ガーデン』。うちなら、あなたのその真面目さも、優しさも、全部“武器”になるわ」
その言葉は、雷のように唐突で――けれど、どこかでずっと求めていた救命ロープのようでもあった。
葵さんの瞳が、驚愕と戸惑いで大きく揺れる。
「わ、私なんかが……玲子さんのところなんて、とても……。今の会社でも、全然評価されていなくて……足を引っ張ってばかりで……」
「それは“今の会社”の評価よ」
姉貴は、ぴしゃりと言葉を切る。
「人を見る目がない場所での評価なんて、参考にもならないわ。私が欲しいと言っているの。――それじゃ、足りない?」
自信満々に言い切るその姿に、俺は思わず感心した。
この人は今まで、こうやって人を引っ張ってきたんだろうな……。
「もちろん、いきなり正式採用って話じゃないわ。一度体験して、あなた自身が『ここで働きたい』と思ってくれたら――その時に改めて面接して、条件をすり合わせましょう」
そこで、姉貴は少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でも……“行く当てがないから辞められない”なんて理由で、自分を縛る必要は、もうないわよ」
葵さんは、胸の前で握りしめた手を、ゆっくりと見下ろした。
白くなっていた指先に、少しずつ血の気が戻っていく。
「……そんな、都合のいいお話、乗ってしまっても……いいんでしょうか」
恐る恐る漏らしたその言葉に、姉貴は即答した。
「もちろん。私が欲しくて言ってるんだから。ただし、私のところに来たら、ちゃんと“プロ”として頑張ってもらうけどね?」
その瞬間、葵さんの横顔に、かすかな光が灯った。
不安の闇に覆われていた心に、細いけれど確かな道が一本通ったような表情。
――行く当てがないから、今の地獄に縛られ続けるしかない。
その呪いが、音を立てて剝がれ落ちていくのを、俺は目の当たりにしていた。
姉貴は、そこでようやく少しだけ肩の力を抜き、今度は穏やかな声で問いかける。
「さあ、これで“辞めた後どうするか”の心配は一旦横に置けるわね。残るのは――“あなたがどうしたいか”だけ」
そう言ってから、ふと話題を変えるように微笑んだ。
「葵さん。有名な心理学者の話でね。『すべての悩みは対人関係の悩みである』。そして、『課題の分離』をしなさいって教えがあるの」
姉貴は優しく、諭すように話していく。
「課長が怒鳴るかどうか、不機嫌になるかどうか。それは『相手の課題』であって、あなたの課題じゃないわ。あなたがコントロールできることじゃないの」
「相手の、課題……」
「そう。あなたが考えるべきなのは、『あなたがどうしたいか』だけ。……あなたは、どうしたい? これからもずっと、その課長の顔色を伺って、ビクビクして生きていきたい?」
葵さんはハッとして顔を上げる。
今までずっと、相手の顔色と他人からの評価に自分の人生を委ねてきた。
その「当たり前」を、まるごとひっくり返されるような感覚だったのだろう。
「……いいえ。嫌です。……私は、もっと自分らしく働きたい。人の幸せを、心から喜べる仕事がしたいんです」
その言葉は、静かだけれど、はっきりとこの六畳一間に響く。
「だったら、戦いなさい。自分の誇りを守るために」
姉貴は、葵さんの目を真っ直ぐに見つめている。
「そのICレコーダーはただの機械じゃないわ。私と健二、そして茜ちゃん。あなたを応援している全員がそこにいると思って。……私たちがついてる。すぐ後ろにいるわ。だから、胸を張って行ってきなさい」
その言葉は、どんな魔法よりも強力な勇気を彼女に与えたようだった。
葵さんの瞳から、恐怖の色が少しずつ消え、代わりに強い光が宿り始める。
握りしめた拳が、膝の上で小さく震え、それでもほどけることはなかった。
「……はい。……私、やります」
葵さんが、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「よし!」
姉貴がパンと手を叩き、ニヤリと笑う。
それは、獲物を前にした肉食獣の、凶暴で美しい笑顔だった。
「決戦は明日。そのふざけた課長と会社に、本当の『地獄』を見せてあげましょう」
”魔女”の宣告。
それは、ブラック企業の終わりの始まりを告げる合図。
俺は、「これは、明日も有給確定かな……」と溜っているであろう仕事に思いを馳せつつ、少しワクワクしている自分もいるのに気づいていた。
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