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薄壁越しの訳あり姉妹 ~彼女たちの部屋でGを退治したら、彼女たちに猛烈に愛され始めた件~  作者: 藍之介


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第14話 最強の魔女と、本当の仕事

 畳の上に正座気味に座る俺の左右には、月本姉妹が緊張した面持ちで固まっている。

 冷房の効いた俺の部屋でも、夜の湿度はじわじわと肌にまとわりつく。

 窓の外では、じめっとした初夏の風がカーテンを少しだけ揺らしていた。


 ……言うしかない。


 「仕事のことで相談がある」と口にした瞬間。

 電話の向こうで、姉貴の声の色が一段階、いや二段階ぐらい落ちる。


『……はぁ? 何それ。詳しく話しなさいよ』


 スマホのスピーカーから響いたのは、いつもの間延びした甘え声ではなかった。

 低く、よく通るのに、耳の奥をじりっと焼くようなトーン。


 姉貴――神崎玲子の、本気モードの声だ。


 この声は子供頃の記憶を呼び起こす。

 俺は情けないくらいに手のひらに汗をかく。

 いつものふざけた様なテンションではなく、結婚相談所『マリアージュ・ガーデン』を率いる経営者――プロの顔になった時の声。


 俺は一度息を飲み込み、胸の中で言葉の順番を整える。


「……わかった。じゃあ、スピーカーにするから」


 スマホをちゃぶ台の真ん中に置き直し、葵さんと茜ちゃんにも聞こえるように角度を調整する。

 二人の視線が、不安と期待が入り混じった色で、俺とスマホを行き来した。


「えっと……まず、隣に住んでる月本さんの話なんだけど」


 俺は、できるだけ感情を抑えた声で事情を説明し始めた。


 隣に住む葵さんが勤めている結婚相談所の実態。

 会員を金づるとしか見ていない、露骨で下品な経営方針。

 成婚料が高いコースの会員には、無理やり成婚させるやり方。

 通常に会員には「成婚」よりも、「延長」「追加プラン」ばかりを勧めるシステム。

 そして、葵さんに対するパワハラと、セクハラまがいの言葉や仕草の数々――。


 葵さんは、両膝の上でぎゅっと両手を握りしめていた。

 細い指先が、白くなるほど力がこもっている。

 茜ちゃんは、そんな姉の手をそっと握り返していた。

 二人の間に敷いた小さな座布団が、頼りない防波堤のように見える。


 俺が話している間、電話の向こうの姉貴は、珍しく静かだった。

 いつものように茶々を入れることもなく、相槌すら打たない。


 ただ、嵐の前の静けさのような、重苦しい沈黙だけが続く。


 エアコンの送風音と、冷蔵庫の低い唸り。

 遠くで走る車のタイヤが雨上がりのアスファルトを擦る音。

 そんな日常の雑音が、逆にこの部屋の緊張を際立たせていた。


『……なるほどね。大体わかったわ』


 ようやく姉貴が口を開いた。

 スピーカーから響く声は、氷のように冷たく、だが内側には煮えたぎるような怒りを孕んでいる。


 それは、怒りを極限まで押し殺した時に出る声だった。


『その会社の名前は?』

「えっと……『ドリーム・マリッジ・エージェンシー』だって」

『あー、あそこね。聞いたことあるわ。悪い評判の掃き溜めみたいなとこよ』


 姉貴が鼻で笑った。


『いい? 結婚相談所っていうのはね、人の人生の『幸せ』を預かる場所なのよ』


 一語一語を噛みしめるように、姉貴は続ける。


『それを金儲けの道具にするなんて……業界の面汚しもいいところだわ。反吐が出る』


 電話越しなのに、思わず背筋が伸びた。

 同じ業界の人間だからこそわかる、心底からの侮蔑。

 その瞬間、スマホの向こうで――バキッ、と何かが折れるような音がした気がした。

 ボールペンか何かだろうか。


 あ……完全にブチ切れてるな、これ


 俺は心の中で小さく合掌した。

 葵さんは、姉貴のあまりの迫力に圧倒されて、肩をすくめて小さくなっている。

 まるで、雷鳴を待つ前の子猫のように。


『で? その被害者のお嬢さんは、そこにいるの?』

「あ、ああ。隣にいるよ」

『代わりなさい』


 有無を言わせぬ命令口調。

 短い言葉なのに、ぐっと胸ぐらを掴まれたような圧がある。

 俺は「大丈夫だから」という視線を送りながら、そっとスマホを葵さんに向ける。


 葵さんは一瞬だけ俺を見上げる。

 大きな瞳が揺れているようだった。

 何かを決意したようにスマホに向き直る。


「あ、あの……はじめまして、月本と申します……」


 か細い自己紹介。

 だが、その声は確かに姉貴の耳に届いたようだった。


『こんばんは、月本さん。……辛かったわね』


 さっきまでのドスの効いた声とは打って変わって、

 慈愛に満ちた、驚くほど優しい声だった。


『あなたは悪くない。何も悪くないわ』

「で、でも……私は、仕事ができなくて……要領も悪くて……」


 葵さんの細い肩が、申し訳なさそうにすぼまる。

 畳の上に落ちた影が、さらに小さく見えた。


『違うわ』


 姉貴の声が、すっと食い込むように割り込む。


『あなたができないんじゃない。その会社が、あなたに本当の仕事をさせていないだけよ』


 少しの迷いもない断定。

 プロとして、いくつもの現場を見てきたからこその確信に満ちた言葉だ。


『結婚相談所の仕事はね、会員を幸せにすること。上司の機嫌を取ることじゃないわ』


 その一言に、部屋の空気がかすかに震えた気がした。

 姉貴の言葉は、まっすぐに葵さんの胸の奥へ届いていく。

 ずっと、誰かに否定され続けてきた場所に、初めて差し込む光のように。


 葵さんの目から、また静かに涙が滲み始めた。

 ぽつり、と畳の上に落ちた涙の跡が、丸いシミとなって広がる。


『よく頑張ったわね。もう、我慢しなくていいのよ』


 優しい、けれど甘やかしすぎない声。

 大人として、同じ女性として、彼女の努力をちゃんと見てくれている声だ。


「ううっ……ぐすっ……ありがとうございます……」


 葵さんは顔を伏せた。

 長い黒髪がカーテンのように彼女の表情を隠す。

 その横で、茜ちゃんも目に涙を浮かべていた。

 姉の肩にそっと額を寄せる仕草が、痛いほど健気だ。


『明日、会社に行きなさい』

「え……?」


 俺も「え?」と素っ頓狂な声を出してしまい、思わずスマホを見つめる。

 まさか、戦えと言うのか?

 完全に逃げ場を断って、正面からぶつかれと?


『行って、有給届を叩きつけてきなさい』


 なるほど。姉貴らしいやり方であった。


『理由は……体調不良でも親の危篤でも何でもいいわ。とにかく、会社は休みなさい。これはプロからの命令よ』

「は、はい……!」


 力強く、しかし少しだけ震えた返事。

 だがその声には、さっきまでの自分を責める響きはなかった。


 葵さんの背筋が、ほんの少しだけ伸びたように見えた。

 「休む」という選択肢にさえ罪悪感を覚えてきた彼女にとって、

 誰かからの「休んでいい」という命令は、救いの言葉なのだろう。


『健二! 代わんなさい!』


 突然、姉貴の声がこちらに矛先を向けてきた。

 反射的に、葵さんが慌てて俺にスマホを戻してくる。


「も、もしもし」

『明日の朝イチで、あんたのアパートに行くわよ。住所送りなさい』

「えっ、来るの!? 姉貴が?」


 思わず素で叫んでしまった。

 目の前の姉妹も、同時にビクッと肩を跳ねさせる。


『当たり前でしょ! こんな面白い……じゃなくて、許せない話聞いて、じっとしてられるわけないじゃない!』


 一瞬、危ない本音が混ざった気がしたが、聞かなかったことにする。


『そのお嬢さんのこと、私が直接見てあげるわ』


 姉貴は一方的にそうまくし立てる。

 脳裏に、派手なスーツとハイヒールでオフィスを闊歩する姉貴の姿が浮かんだ。

 あの台風みたいな存在感が、このボロアパートの廊下に現れる光景を想像するだけで、

 ひだまり荘の古い柱がミシミシと悲鳴を上げる音が聞こえてきそうだ。


「ちょ、ちょっと待てよ。明日って平日だろ? 仕事は?」

『バカねあんた。私は社長よ。自分の仕事の管理くらい簡単なの。なんか文句ある?』

「……ないです」


 反射的にサラリーマンの返事をしてしまう自分が悲しい。


『その会社、覚悟しておきなさいよ。私のシマでふざけた真似したこと、後悔させてやるんだから』


 最後の一言は、地の底から響く呪詛のようだった。

 「シマ」という単語のチョイスのせいで、完全に任侠映画の世界だ。


 プチッ。ツーツーツー……。

 通話が切れた。


 突然、部屋から声が消える。

 さっきまでスマホから溢れていた圧倒的な存在感が、すとんと抜け落ちる。


「……すごい、人ですね」


 しばらくして、葵さんが、呆然と天井を見上げたまま呟いた。

 泣き腫らした目元は赤く、その頬にはまだ涙の跡が光っている。

 茜ちゃんも「なんか、ラスボス出てきた感じ……」と目を白黒させている。


「ああ……うちは、昔から姉貴が一番強いんだ」


 俺は力なく笑った。

 あの人が動くと言った以上、事態は間違いなく動く。

 良くも悪くも、派手に。


「……でも、なんだか、少し安心しました」


 ぽつりと葵さんが言った。

 両手で胸の前を押さえるようにして、ふうっと息を吐く。


「私、ずっと……あの会社でダメだって言われ続けてきて……。でも、さっき『悪くない』って言ってもらえて……なんだか、救われた気がして……」


 その横顔は、まだ不安を抱えながらも、確かに少しだけ軽くなっているように見えた。


「お姉ちゃん、明日有給だよ! やったね!」


 茜ちゃんが、いつもの調子で場を和ませる。


「た、確かにそうだけど……それはそれで怖いのよ……」


 葵さんは苦笑しつつも、頬にほんのりと血色が戻っていた。

 俺たちは顔を見合わせ、そして小さく笑い合った。

 ブラック企業という魔物に対抗するには、これくらいの”魔女”を味方につけるのがちょうどいいのかもしれない。

 

 明日の朝、このアパートに最強の援軍がやってくる。

 俺の平穏な日常は、さらに遠のいていく予感がした――。

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