第13話 あったかオムライスと、葵さんの夢
俺たちは葵さんを抱えるようにして立たせ、そのまま俺の部屋へと連れてきた。
電気もついていない暗い部屋に一人で置くには、彼女はあまりにも脆く見えたからだ。
「……とりあえず、お腹に何か入れましょう」
ソファに座らせ、ブランケットをかける。
茜ちゃんに温かいお茶を頼み、俺はキッチンに立った。
こんな時に何を作るべきか。
お粥やうどんのような消化の良いもの?
いや……、こんな時こそ、一番好きなものをお腹一杯だろ。
「茜ちゃん、葵さんの一番の好物って?」
「オムライスだよ! ケチャップたっぷりのやつ」
「了解!」
ケチャップの甘酸っぱい味は、子供の頃の幸せな記憶を呼び起こす。今の彼女に必要なのは、そういう根源的な安心感だと思った。
冷蔵庫から卵と鶏肉を取り出す。
チキンライスはケチャップをしっかり炒めて酸味を飛ばし、まろやかな甘みを引き出す。
卵は牛乳を少し加えて、ふわとろに。
手早く、しかし祈るように丁寧に。これはただの夜食ではない。彼女の壊れかけた心を繋ぎ止めるための処方箋だ。
「……できたっ!」
15分後。
湯気を立てる黄色い山が、ちゃぶ台の上に置かれた。
「どうぞ。葵さんの好物だって聞いたんで」
「お姉ちゃん、食べて? 私がケチャップ書いたんだよ」
葵さんは、ぼんやりとその皿を見つめていた。
鮮やかな黄色と、赤いケチャップのコントラスト。そして、妹からの不器用で温かいメッセージ。
それが、彼女の止まっていた時間に、少しだけ色を与えたようだった。
「……私、こんなことしてもらう資格なんて……」
「食べるのに資格はいりません。生きてるんですから、おなかは減ります。それだけです」
スプーンを持たせると、彼女の手は小さく震えていた。
一口、口に運ぶ。
ふわとろの卵と、濃厚なチキンライスの味が広がる。
「……っ」
咀嚼する葵さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ポタ、ポタと皿の縁に落ちる。
彼女は何度も涙を拭いながら、それでもスプーンを動かし続けた。
「おい、しい……。温かい……」
「お姉ちゃん……」
茜ちゃんが隣に寄り添い、背中をさする。
俺たちは何も言わず、彼女が泣きながらオムライスを平らげるのを見守った。
食べ終わる頃には、彼女の顔に少しだけ血色が戻っていた。
お茶を飲み、落ち着いたところで、俺は静かに切り出した。
「……会社で、何があったんですか?」
葵さんは俯き、膝の上で手を強く握りしめた。
白くなった関節が、彼女の葛藤を物語っている。
「……」
「大丈夫です。何があっても、俺たちは葵さんの味方ですから」
「そーだよ! お姉ちゃん。一人で抱え込まないで!」
茜ちゃんもかなり心配なようだ。
葵さんの、こんなにボロボロな姿を見たことがないのだろう。
「……私の、せいなんです……。私の仕事が遅いせいで……」
「あの、葵さんの仕事って?」
「……結婚相談所です。私はそこで、事務をしています」
結婚相談所だったのか。
意外だった。人の幸せを紡ぐ仕事。
優しくて気配りができる彼女には天職のように思えるが、今の彼女の姿からは「幸せ」など微塵も感じられない。
「私の、せいなんです。私が未熟だから……」
「本当にそうですか? 詳しく聞かせてくれませんか」
俺が問いかけると、葵さんは唇を噛み、ポツリポツリと語り始めた。
そこで語られた内容は、凄惨なものだった。
彼女の勤める相談所は、会員の幸せなど微塵も考えていない、利益至上主義のブラック企業だったのだ。
会員を「金づる」と呼び、高額なコースに入会させては放置する。
そして、その片棒を担がされるのが、葵さんたち事務員の仕事だという。
「私は……カウンセラーになりたかったんです。悩んでいる人の話を聞いて、その人に合ったパートナーを見つけて、幸せになるお手伝いがしたくて……。だから、資格も取って、この会社に入りました」
葵さんの声が震える。
「でも、やらせてもらえるのは、お茶汲みとクレーム処理、そして課長のご機嫌取りだけです。カウンセラー業務なんて、一度も……」
また、葵さんの目から大粒の涙がこぼれる。
「お前は顔だけが取り柄だとか、俺の愛人になれば優遇してやるとか……。断ると、『これだからゆとりは』って仕事を押し付けられて……」
「……」
俺は絶句した。
パワハラだけでなく、セクハラまで。
横で聞いていた茜ちゃんも、怒りに震えている。
怒りで視界が赤く染まりそうだった。
こんなに清楚で、真面目な女性を、欲望の捌け口にしようとするなんて。
俺は深く息を吐き出し、できるだけ冷静な声を出した。
「葵さん。……辞めましょう、そんな会社」
それは提案ではなく、懇願に近い言葉だった。
「これ以上、あなたが傷つく必要はありません。そんなクソみたいな会社、今すぐ辞表を叩きつけてやるべきです」
「……でも」
葵さんは、弱々しく首を横に振った。
「辞めたくないんです」
「どうしてですか!? こんな酷いことされて……」
「人の幸せに関わる仕事がしたいんです。それが、私の夢だったから……。ここで辞めたら、また一からやり直しになります。他の相談所に行っても、カウンセラー経験がない職員なんて雇ってもらえないかもしれません」
彼女の瞳には、諦めきれない光が宿っていた。
どれだけ泥水をすすらされようとも、夢を手放したくないという執念。
その純粋さが、今は彼女自身を縛り付ける鎖になっている。
沈黙が流れた。
茜ちゃんも、悔しそうに唇を噛んでいる。
辞めさせたい。でも、彼女の夢を奪う権利は俺にはない。
どうすればいい。どうすれば、彼女を救い出し、かつ夢を叶えさせてあげられる?
結婚相談所。
カウンセラーになりたい。
ブラックではない、まともな環境。
そのキーワードで、俺の脳裏にある人物が浮かぶ。
一人だけ、心当たりがいる。
俺が世界で一番苦手としており、ある意味で一番頼りになるあの人物が――。
「……葵さん」
俺は覚悟を決めて、顔を上げた。
「俺に、心当たりがあります」
「え……?」
「実は、俺の知り合いに……結婚相談所を経営している人間がいるんです」
知り合い、というか身内だが。
「そこは、少なくとも会員を金づるにするような場所じゃありません。むしろ、お節介すぎるくらい会員に尽くす、熱血な相談所です」
「そ、そんなところが……?」
「一度、その人に会ってみませんか? 葵さんの事情を話せば、きっと力になってくれるはずです」
俺の提案に、葵さんは戸惑いの表情を浮かべた。
「でも……私なんかが……」
「大丈夫です。あなたのことは俺が保証します」
俺は力強く頷いた。
あの人は、曲がったことが大嫌いだ。葵さんのような真面目な人間を見捨てるはずがない。
ただ、一番の問題は……あの人の性格なんだが。
「……わかりました。是非お願いします」
葵さんが、すがるような目で俺を見た。
その信頼に応えなければならない。
俺は懐からスマートフォンを取り出し、連絡先リストを開いた。
登録名は――『姉貴』。
発信ボタンを押す。
数回のコールの後、鼓膜を破らんばかりのハイテンションな声が響いた。
『あらあら、健二ぃ! あんたから連絡なんて珍しいわねぇ、どうしたのよ? 借金でもこさえちゃった? そ・れ・と・も、女絡みでドロドロのトラブルとか? ふふ、姉ちゃんがなんでも相談に乗ってあげるわよ』
電話口の姉貴は早口でまくしたてる。
これだから、この人は苦手なんだよな……。
俺は天を仰ぎ、覚悟を決めて口を開いた。
「……姉貴、実は頼みがあるんだ」
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