第12話 真夏の抱き枕と、不穏な夜
……苦しい。
金縛りだろうか?
朝方の浅い眠りの中で、俺は何かに強く締め付けられる感覚に襲われていた。
温かくて、重い何かが、俺の身体に絡みついている。
その感触は、まるで甘い罠のように心地よく、でもどこか危険な匂いがする。
重い瞼を、ゆっくりと持ち上げてみる。
視界いっぱいに広がっていたのは――茜ちゃんの、穏やかで無防備な寝顔だった。
それも、至近距離どころではない。
彼女は俺の腕を抱き枕のように抱え込み、足を俺の腰に絡め、まるでコアラのようにしがみついているのだ。
柔らかな胸の膨らみが、俺の胸板にふにゅっと押しつけられ、彼女の甘い息が首筋にかかる。
シャンプーの残り香が、ふわりと鼻をくすぐり、少女らしい甘酸っぱい匂いが、俺の理性をじわじわと溶かしていく。
(……ま、マジか)
動けない。
少しでも動けば彼女を起こしてしまうし、何よりこの体勢は非常にまずい。
俺の理性が朝から試されている。
「ん~……むにゃ……け、けんじさぁん……」
寝言で俺の名前を呼びながら、茜ちゃんがさらに強く抱きついてくる。
柔らかい感触がさらに強く体に押し当てられ、俺の思考回路は完全にショートした。
「……佐・藤・さ・ん?」
その時、地獄の底から響くような、低く冷たい声がした。
恐る恐る視線を巡らせると、ベッドの端から身を起こした葵さんが、般若のような形相でこちらを見下ろしていた。
逆光で表情は見えないが、背後には確実にどす黒いオーラが立ち上っている。
なんで今日に限って、葵さんの目覚めがいいんだ……。
「あ、葵さん、ち、違うんです! これは不可抗力で……!」
「茜ェェェェェッ!!!!! 起きなさいッ!!!!!」
葵さんの怒号が、朝の静寂を木っ端微塵に粉砕した。
茜ちゃんが「ひゃっ!?」と飛び起き、俺はベッドの端まで吹っ飛んだ。
こうして、俺たちの甘く危険な避難所生活は、葵さんの大激怒という幕切れで終了したのだった。
***
あれから一ヶ月が過ぎた。
電気は無事に復旧し、姉妹は元の203号室での生活に戻った。
だが、以前のように「ただの隣人」に戻ったわけではなかった。
壁という物理的な境界線は復活したが、心の壁は完全に取り払われていたのだ。
夕食のお裾分けは日常茶飯事になり、週に何回かは茜ちゃんが「暇ー!」と言って俺の部屋に遊びに来るようになった。
俺の部屋にある漫画を読破したり、ゲームをして遊んだり。
時には葵さんも顔を出し、三人でお茶を飲むこともある。
俺のアパートは、完全に彼女たちの「第二のリビング」と化していた。
そして、季節は巡り、7月下旬。
うだるような暑さと共に、茜ちゃん待望の夏休みがやってきた。
***
ある平日の夜。
俺は営業強化月間という謎の会社方針のせいで、終わらないノルマと事務処理の激務に追われ、22時過ぎにようやく帰宅した。
心身ともにヘトヘトだ。
自室の前につくと、部屋に電気が付いているのに気付く。
茜ちゃんでも来てるのかな?
鍵を開け、ドアを開ける。
「おかえりー、健二さん! 遅かったね!」
思った通り、リビングから茜ちゃんが顔を出した。
彼女は俺の部屋のソファ(最近買った安物だ)で、アイスを片手にくつろいでいる。
合鍵を使って先に入っていたようだ。
この「おかえり」があるだけで、残業の疲れが少し癒える。
「ただいま。茜ちゃん、今日も来てたのか」
「うん! だってあっちはエアコンの効き悪いんだもん」
茜ちゃんは笑っているが、その瞳の奥にいつもの輝きがないことに、俺は気づいた。
どこか落ち着きがなく、視線が泳いでいる。
茜ちゃんがいること自体は、最近ではよくあることなのでそこまで驚きはない。
しかし、時間は22時過ぎ。この時間に部屋に来るのは、あの避難所の時以来だと思う。
「……葵さんは?」
俺が尋ねると、茜ちゃんの表情がさらに曇った。
「まだ、帰ってきてないの……」
「まだ? もう22時過ぎだぞ」
「うん……。ここ一週間くらい、ずっとこんな感じで……」
茜ちゃんが俯きながら膝を抱える。
そういえば、と思い出した。
昨日の夜中、日付が変わる頃にベッドに入ろうとした時、隣のドアが開閉する音が聞こえた気がする。
あれは葵さんの帰宅音だったのか。
「お姉ちゃん、最近すごく疲れてるみたいで……朝もギリギリまで寝てるし、顔色も悪いし……」
「……確か、先週の土日も会社に行ってたよな?」
「うん。休日出勤だって言ってた」
ブラック企業という文字が脳裏をよぎる。
俺の中に、じわりと嫌な予感が広がっていく。
真面目で責任感の強い葵さんのことだ。無理を重ねて、一人で抱え込んでいるんじゃないか。
まだ彼女は社会人二年目だったはず。
ある程度会社に慣れた人間なら、長時間労働もたまには仕方がないと思うが、まだ二年目の女の子に強いることなのだろうか。
そういえば、俺は彼女がどんな仕事をしているか聞いたことがなかった。
「……仕事だから忙しい時もあるさ。とりあえず待つしかないよ。ところで、茜ちゃんはご飯食べたのか?」
「……うん」
「そうか」
その言葉が嘘か本当かはわからなかったが、俺は言葉を飲み込んだ。
茜ちゃんはまだ高校生だ。唯一の家族が毎日ボロボロになるまで働いて、深夜に帰ってくる生活をしていれば不安にもなるだろう。
夜も遅くであったが、俺は茜ちゃんを家に帰すことはしなかった。
それからしばらくして、バタン、と隣のドアが閉まる音。
既に日付は変わっている。
「あっ、帰ってきた!」
茜ちゃんが弾かれたように立ち上がる。
俺も、彼女の後を追った。
「行こう」
「うん!」
俺たちは廊下に出て、203号室の前に立った。
ピン……ポォ……
インターホンを鳴らすが、返事がない。
だが、鍵が開く音も、電気がつく気配もしない。
ただ、静寂だけがある。
「お姉ちゃん? 開けるよ?」
茜ちゃんが持っていた鍵でドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
玄関の靴脱ぎ場に、葵さんのパンプスが無造作に脱ぎ捨てられている。
「……葵さん?」
俺がスマホのライトで奥を照らすと、リビングの隅でうずくまる影が見えた。
電気もつけず、着替えもせず、ただ床に座り込んでいる。
「お姉ちゃん! どうしたの!?」
茜ちゃんが駆け寄り、部屋の明かりをつける。
照らし出された葵さんの姿に、俺は息を呑んだ。
髪は乱れ、目の下には濃いクマがあり、頬は少しこけているように見えた。
何より、その瞳が虚ろで、涙で濡れていた。泣きはらした後なのだろう、目は赤く充血している。
「……あ……茜……。あれ、佐藤、さん……?」
葵さんが、焦点の合わない目で俺たちを見る。
その声は、枯れ果てていた。
「どうしたんですか、一体」
俺が膝をつき、目線を合わせて尋ねると、葵さんは力なく首を振った。
「……ごめんなさい……私、ダメなんです……」
「ダメって、何が……」
「仕事が……終わらなくて……ミスばっかりして……みんなに迷惑かけて……」
それは会話というより、壊れたレコードのような独白だった。
「課長に……怒られて……お前は役立たずだって……給料泥棒だって……」
「……」
「私が悪いんです……もっと頑張らなきゃいけないのに……できない私が、悪いんです……」
うわごとのように繰り返される謝罪と自己否定。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツンと切れる音がした。
それは、G退治の時のような正義感でも、お節介な親切心でもない。
もっと熱く、激しい怒りだった。
こんなに健気で、妹思いで、優しい彼女を。
ここまで追い詰めて、心を壊そうとしている「何か」に対する、許しがたい怒り。
俺は拳を握りしめ、震える葵さんの肩にそっと手を置いた。
その震える肩は、あまりにも小さく感じた。
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