第10話 お帰りなさいと、二人のお風呂
ガチャリ。
ドアを開けた瞬間、漂ってきたのは出汁の香りと、ふわりとした温かい空気だった。
「おかえりなさい、佐藤さん」
「おかえりー! 健二さん、早かったね!」
玄関の先、リビングのドアから顔を出したのは、エプロン姿の葵さんと、漫画を片手に寝転がっていた茜ちゃんだった。
その光景を見た瞬間、今日一日の疲れが嘘のように吹き飛んだ。
誰もいない暗い部屋に帰る虚しさとは無縁の、圧倒的な「帰宅感」。
「……ただいま。なんか、いい匂いがするな」
「ふふ、今日は自信作ですよ」
葵さんが恥ずかしそうに、でも誇らしげに微笑む。
その姿を見て、俺は不覚にもドキリとした。
彼女はまだ仕事着のままのようだった。
淡い水色のブラウスに、体のラインに沿ったタイトスカート。その上から、俺の無骨な茶色いエプロンをつけている。
仕事感があるオフィスカジュアルと、家庭的なエプロン。
そのアンバランスな組み合わせが、妙に男心をくすぐった。
「私も佐藤さんが帰ってくる少し前に戻れたので、冷蔵庫をお借りして作らせていただきました。もう直ぐ出来ますので」
「ありがとう。楽しみだよ」
ジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけたところで、葵さんの「ご飯、出来ましたよ」と声がかかる。
ちゃぶ台に並べられたのは、豚肉とキャベツの味噌炒め、冷奴、そして大根と油揚げの味噌汁。
冷蔵庫の余り物だけで作ったとは思えない、立派な定食だ。
なにより、家に帰ってすぐに温かいご飯が食べれるなんて、何年ぶりだろうか。
「「「いただきます」」」
一口食べる。味噌のコクとキャベツの甘みが絶妙に絡み合い、白飯が進む味だ。
うまい。本当にうまい。
俺が夢中で箸を動かしていると、姉妹が嬉しそうに見つめてくる。
「佐藤さん、本当に美味しそうに食べますね」
「見てて気持ちいいよねー。作りがいあるでしょ、お姉ちゃん」
「こら茜、失礼でしょ」
そんな他愛のない会話も、今の俺には心地よいBGMだ。
前回もそうだったが、一人じゃない食事が、こんなにもおいしく感じるとは思わなかった。
完食し、洗い物は俺がやるからと、食器を洗っていたところに茜ちゃんがやってきた。
なぜか、俺を拝むようなポーズをして口を開く。
「あのさ、健二さん。……お願いがあるんだけど」
「ん? 何?」
「その……お風呂、借りてもいい?」
その言葉に、場の空気が一瞬止まった。
そうだった。
彼女たちの部屋はまだ電気が止まっている。つまり、給湯器も動かない。
この蒸し暑い時期、お風呂に入れないのは死活問題だ。昨日はまだ明るいうちに水シャワーで済ませたらしいが、今日はもう夜だ。
「あ、ああ。もちろん構わないよ」
俺は平然を装って答えたが、内心では少し動揺していた。
年頃の女の子が、おっさんの一人暮らしの風呂に入る。
それは彼女たちにとって、抵抗があることなんじゃないか?
「えーと。でも、俺の部屋のお風呂って……嫌じゃない?」
「そんなことないです!」
葵さんが食い気味に否定した。
「むしろ、貸していただけるなんて……本当にいいんですか? 図々しいお願いだとは分かっているんですが……」
「汗かいてベタベタで、もう限界なんだもん!」
茜ちゃんがTシャツの襟元をパタパタさせる。
そこから覗く白い肌に、俺は慌てて視線を逸らした。
「どうぞどうぞ。自由に使って」
「やったー! じゃあ私一番風呂いただきっ!」
茜ちゃんが着替えを持って、脱衣所へと駆け込んでいく。
残されたのは俺と葵さん。
シャワーの音が聞こえ始めると、妙な緊張感が漂い始めた。
壁一枚隔てた向こうで、女子高生がお風呂に入っている。
何も気にしていないように努めるが、あまりにも非日常すぎて、頭の中は混乱していた。
葵さんが俺の隣にきて、頭を下げる。
「……すみません、佐藤さん。何から何まで、ご無理を言ってしまって」
「そんな、気にしないでください。困った時はお互い様ですから」
洗い物も終わり、俺たちはテレビを見ながら、当たり障りのない会話をして茜ちゃんを待った。
だが、俺の神経は聴覚に全振りされていた。
水の音。桶を置く音。
妄想が暴走しそうになるのを、必死に理性の蓋で抑え込む。
30分くらい経った頃。
ガチャリとドアが開き、茜ちゃんが出てきた。
「ぷはーっ! 極楽極楽~!」
湯気と共に現れたその姿に、俺は吹き出しそうになった。
頭にタオルを巻き、身体にはバスタオル一枚。
真っ白な肌が蒸気で上気し、健康的な肢体が露わになっている。
「ちょ、茜!? なんで着替えてこないの!?」
「だってぇ、脱衣所暑いんだもん! こっちの方が涼しいし!」
「佐藤さんがいるのよ!? 早く服を着なさい!」
葵さんが顔を真っ赤にして怒るが、茜ちゃんは「えー」と不満そうだ。
俺はというと、目のやり場に困り、天井のシミを数えることに専念していた。
見てはいけない……。いや、見たら犯罪だぞ。
葛藤する俺の横で、葵さんが茜ちゃんを一旦、寝室へ押し込んでいく。
「もう……すみません、佐藤さん。あの子ったら、家での癖が抜けなくて……」
「い、いえ」
何を言っていいかわからず、とにかく取り繕う。
心臓に悪い。本当に悪い。
「じゃあ、私も……お借りしますね」
次は葵さんの番だ。
彼女は着替えの入ったトートバッグを持って、脱衣所へと消えていった。
鍵のかかる音。
そして、再び響くシャワーの音。
……落ち着け。素数を数えるんだ
俺は深呼吸を繰り返した。
茜ちゃんの時はまだ、「元気な子供」と考えることができたが、葵さんは違う。
まぎれもなく、大人の女性だ。
想像してしまう光景の艶やかさが段違いだ。
彼女が今、俺の家の風呂で、その白い肌を洗っている。
その事実だけで、缶ビール一気飲みしたくらい酔いが回りそうだった。
永遠にも感じる30分が過ぎた頃。
ようやくドアが開いた。
「……お待たせしました」
そこには、髪をタオルで拭きながら出てきた葵さんの姿があった。
服装は、持参したゆったりとしたTシャツとショートパンツ。
しかし、その雰囲気は先ほどの仕事モードとは一変していた。
濡れた黒髪が首筋に張り付き、石鹸の香りがふわりと漂う。
火照った頬と、どこか潤んだ瞳。
無防備で、圧倒的な色気がそこにあった。
「……あ、どうぞ。ドライヤー、そこにありますから」
「ありがとうございます」
俺が指差すと、彼女は小さく会釈してドライヤーを手に取った。
ブォォォ……という音と共に、彼女が髪を乾かし始める。
その指先の動き、首を傾ける仕草。
全てが美しく、俺は視線を外せなくなっていた。
「……佐藤さん?」
視線に気づいたのか、葵さんが不思議そうに振り返る。
「あ、いや、その……さっぱりしましたね」
「はい。おかげさまで生き返りました」
彼女はふわりと笑った。
その笑顔は、お風呂上がりの血色の良さも相まって、今まで見た中で一番破壊力があった。
いつも間にか着替えていた茜ちゃんと、髪を乾かした葵さんがリビングでくつろぎ始めた頃、俺はようやく自分の番だと気づいた。
「じゃあ、俺も入ってくるよ。……ゆっくりしてて」
そう言って、俺は脱衣所へと向かう。
ガチャリとドアを開けた瞬間――
……うわ。
湯気がまだモワッと残る浴室に、甘い、甘すぎる匂いが充満していた。
俺のいつもの男臭いボディソープの香りじゃない。
姉妹が使ったシャンプーとボディソープの、フルーティーで柔らかな、女の子らしい甘い香り。
それが湯気と混じって、浴室全体をピンク色に染めているような気がした。
あの二人が、この狭い空間で息づいていたなんて。
想像しただけで、頭がクラクラする。
俺は煩悩を振り払うように、急いでシャワーを浴び、体を洗い始めた。
でも、どれだけ体を洗っても、彼女たちの匂いが消えない。
むしろ、湯気が立ち上るたびに、その甘い香りが鼻腔をくすぐる。
……ダメだ、完全に頭がおかしくなる。
壁に手をついて、冷たい水をかぶってみるけど、無駄だった。
この匂いは、俺の風呂場を完全に「女の子の空間」に変えてしまっている。
彼女たちの体温が、まだここに残っているみたいだ。
俺は滝行のように、何も考えないよう必死にシャワーを浴び続け、ようやく上がる。
でも、体を拭いても、髪を乾かしても、あの甘い匂いが体にまとわりついている気がした。
まるで、彼女たちに包まれているみたいに。
脱衣所から出ると、リビングで待っていた姉妹が同時に顔を上げる。
「お風呂、気持ちよかったでしょ?」
茜ちゃんがニヤニヤしながら言う。
俺は苦し紛れに、「ああ、そうだね」と答えることしかできなかった。
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