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薄壁越しの訳あり姉妹 ~彼女たちの部屋でGを退治したら、彼女たちに猛烈に愛され始めた件~  作者: 藍之介


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第1話 社畜おじさんと、新たな隣人

薄壁を隔てたアパートから始まる、年の差ラブコメです。

プシュッ。

 静まり返った六畳一間のアパートに、缶ビールを開ける炭酸の音だけが、やけに大きく響いた。

 その乾いた音は、部屋の隅々に染み付いた孤独をわざわざ確認させるかのように、虚しく反響してすっと消えていく。


「……ふぅ、疲れたな」


 独り言がつい口をついて出る。

 それは誰に聞かせるわけでもない、身体の芯から漏れ出した溜息のような言葉だった。

 一人寂しくビールを煽る俺は、佐藤さとう 健二けんじという。

 仕事に追われる日々を過ごし、気づいたときには三十路になり、今はもう32歳になってしまっていた。

 中堅商社の営業マンとして働く俺の一日は、今日もまた、理不尽なクレームへの謝罪と、終わりの見えないノルマとの泥仕合で幕を閉じる。

 家に帰っても着替えることすら面倒で、スーツのまま食事をするのに慣れてしまった。

 そんなスーツの1つ1つの皺には、目に見えない鉛のような疲労が滲んでいるようだ。

 息苦しさを楽にするように、首元のしまっていたネクタイを緩めると、コンビニで買ってきたプラスチックの容器を開ける。

 中身は焼き鳥の盛り合わせだ。

 帰り道で、冷たい夜風に晒されていたせいか、タレと脂が白く固まりかけている。

 電子レンジで温め直せばいいものを、それすら億劫で、俺は冷えたままのねぎまを口に運んだ。

 ざらりとした脂の感触と冷たい肉。

 それが今の俺の生活そのもののような気がして、苦笑いが浮かぶ。


 俺が住んでいるのは「ひだまり荘」という。

 名前だけは暖かそうだが、実態は築35年、木造モルタルの古びたアパートだ。  

 畳は日焼けして色褪せ、天井の隅には何のシミかわからない模様が地図のように広がっていた。

 その分家賃は破格だが、部屋には隙間風が通り抜け、壁なんかも相当薄く、防音性など期待するだけ野暮というもの。

隣人がくしゃみをすれば「お大事に」と心の中で呟き、テレビを見ればニュースの内容まで共有できる。

 ここは、そんなプライバシーの希薄な空間であった。

 だが、俺はここを気に入っている。

 壁の薄さが、皮肉にも「自分は社会の中にいる」という希薄な繋がりを感じさせてくれるからかもしれない。

 もっとも、ここ一ヶ月ほど隣は空室で、俺を迎えるのは完全なる静寂だけだったのだが――。


『あ、……お姉ちゃん、この段ボール、どこに置く?』

『んー……とりあえず、そこの隙間でいいよ。あとで私が片付けるから』


 壁一枚隔てた向こう側から、鈴を転がすような若い女性の声が聞こえてきた。

 少し掠れた、儚げな声と、弾むような明るい声。

 二つの音色が、古びたアパートには不釣り合いなほど鮮やかに聞こえた。

 そう、三日前に引っ越してきた新しい隣人だ。

 どうやら、二人暮らしの姉妹らしい。

 俺は冷えたビールを喉に流し込みながら、三日前の夕暮れ時を思い出していた。


 ***


 あの日は日曜日で、俺は溜まった洗濯物を片付けていた時、不意に鳴ったチャイムの音。

 古びたドアのチャイムは錆びていて、押すと「ピン……ポォ……」という悲しい音がする。

 モニターなんて勿論無いので、ドアののぞき穴から外を確認する。

 ドアの外には2人の若い女性が立っているようだった。

 古アパートに相応しくない来訪者を少し警戒しつつ、ドアを開けると、周りの風景を一変させるような二人組が立っていた。


「初めまして。突然の訪問で申し訳ありません。隣の203号室に越してきました、月本つきもと あおいと申します」


 深々と、丁寧すぎるほどに頭を下げたのは、20代と思わしき女性だった。

 彼女が顔を上げた瞬間、俺は息を呑む。

 艶やかな黒髪は腰まで届くほど長く、肌は陶磁器のように白い。

 大きな瞳はどこか伏し目がちで、どこか儚げな空気を纏っている。

 着ているブラウスは量販店の安物なのだろうが、彼女が着ると清楚なお嬢様の衣装にも見えた。

 俺のような疲れ切ったサラリーマンとは相容れない、きっと生きる世界が違う人間だろう。

 そして、その女性の陰からひょっこりと顔を出したのが、もう一人の女の子。


「こちらは、妹のあかねです……」

「よろしくお願いしまーす! 壁薄いって聞いたんで、うるさくしたらごめんなさいっ!」


 妹さんは対照的に、ショートカットが似合う活発な雰囲気の少女。

 大きな瞳がクリクリとしており、屈託のない笑顔を俺に向けてくる。

 学校の制服のスカートから伸びる足は健康的で、まさに青春そのものといった輝きを放っていた。

 こちらは高校生くらいだろうか。


「あ、これ! つまらないものですがー!」


 女の子が元気よく差し出したのは、熨斗のし紙が巻かれた薄いタオルだった。  

 俺はようやく、引っ越しのあいさつに来たのだと気づく。

 最近では、引越しの挨拶なんて廃れたと思っていたが。

 特に女性だと、防犯上からも気を付けなければならないだろうに。


「あ、はい。どうもご丁寧に……。202号室の佐藤です。私は男の一人暮らしなんで、何かあったら遠慮なく言ってください」


 内心ではそう思いつつも、できるだけ地面を見ながら、形式的に挨拶を返す。

「美人姉妹」そんな華やかな単語は、俺の枯れた辞書には載っていない。

 眩しすぎて、直視することさえ躊躇われたのだ。


 ***


 回想から戻り、俺はため息をついて天井を見上げた。

 壁の向こうからは、相変わらず生活音が漏れてくる。

 衣擦れの音や、何かを置くコトッという物音まで聞こえるほどだ。


『……はぁ、疲れたね、お姉ちゃん。腰痛くない?』

『うん……大丈夫。それより、なんとか引っ越し代と初期費用、足りてよかった』


 姉の声には、安堵と同時に深い疲労が滲んでいるように聞こえる。


『今月はもう、夕飯も”もやし炒め”で乗り切るしかないね! 私、駅前のスーパーで特売の卵見つけたから買ってくるよ』

『ごめんね、茜。私がもっと、ちゃんとした会社で稼げれば……』

『何言ってんの! お姉ちゃんは頑張ってるじゃん。二人で生きていくって決めたんでしょ! 私だってバイト増やすし、余裕だよ!』


(……なんか、聞いてはいけない話を聞いてしまった気がする)

 俺はビールの缶を握る手に力を込めた。

 聞き耳を立てる趣味はない。

 だが、この壁はあまりにも無力だった。

 彼女たちの会話からは、切迫した生活事情が嫌でも伝わってくる。

 それに、これまでに両親の話が一切出てこないことも気にかかった。

 若い姉妹二人だけで、こんな家賃の安い、セキュリティもザルのようなボロアパートに越してきたのだ。

 そして「”もやし炒め”で乗り切る」という、現代日本とは思えないリアルな台所事情。

 おそらく、相当な「訳あり」なのだろう。

 親を亡くしたのか、あるいは何らかの事情で家を出ざるを得なかったのか。

 どちらにせよ、姉の給料と妹のバイト代だけで、綱渡りのような生活をしていることが容易に想像できた。


「……聞かなかったことにしよう」


 俺は自分に言い聞かせるように呟き、テレビのリモコンを手に取り、音量を少しだけ上げた。

 隣から聞こえる音をかき消すためであった。

 俺はただの隣人だ。

 32歳、独身、彼女なし。

 自分の人生すら上手く操縦できていない疲れたおっさんが、若いお嬢さんたちの人生に関与する資格なんて全くない。

 優しくしたところで、下心だと思われるのがオチだ。

 適度な距離を保ち、挨拶だけを交わす関係。

 それが都会のアパート暮らしにおける鉄則であり、俺にとっても彼女たちにとっても最善の防衛線なのだ。

 そう、自分に言い訳をしながら、俺は二本目のビールに手を伸ばした。

 壁の向こうの健気な姉妹の姿が、脳裏に焼き付いて離れないことには気づかないふりをして。

 この時はまだ、知らなかったのだ。

 この薄い壁一枚隔てた距離が、モノクロームだった俺の日常を、鮮やかに塗り替えていくことになることを。

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