踏み出した一歩(灯視点)
昨夜は、嬉しさと緊張が同時に押し寄せて、なかなか眠れなかった。
──家が近い。
ただそれだけのことが、こんなに心を揺らすなんて。
中学の頃からずっと気になっていた彼が、こんなに近くにいたなんて。
運命みたいなものを、少し信じてしまいそうになる。
でも浮かれすぎてもいけない。
水守くんの負担になってしまったら……。
そう思って、朝から何度も深呼吸した。
放課後、部室に行くとまだ誰も来ていない。
少し早く来すぎたかもしれない。
けれど、昨日のことが嬉しくて、落ちつけなくて……気づいたら部室に向かっていた。
パソコンを立ち上げて作業をしていると、ドアが開いた。
「おつかれさま、水守くん」
「お、おつかれ」
その“おつかれ”が、いつもより少し柔らかかった気がした。
それだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
部活が終わるころ、思い切って言ってみた。
「今日も……一緒に帰っていい?」
本当は「帰りたい」って言いたいけど、それは少し図々しい気がして。
彼は一瞬驚いたように目を瞬かせて──
「もちろん。俺でよければ……だけど」
“俺でよければ”
その言葉が、水守くんらしくて、切なくて、愛おしくなった。
「水守くんがいいの」
気づけば、自然とそう言っていた。
言った瞬間、胸がとくんと跳ねる。
部室を出て並んで歩くと、昨日より距離が近い気がした。
肩が触れるほどじゃないけれど、あと半歩近づいたら触れそう。
そんな曖昧な距離。
学校の最寄り駅に着くまでの間、少し勇気を出して声をかける。
「昨日ね……嬉しかったんだ。同じ駅だって分かって」
「俺も。まさか同じ駅だとは……」
そこで彼の声が小さくなる。
ふと横を見ると、少し緊張したような、それでいて嬉しそうな横顔があった。
電車に座って、昨日よりも自然に話せるような気がして。
気づけば胸の奥の言葉が勝手に溢れ出していた。
「昨日の帰り、すごく嬉しかった。
一緒に帰れて……。私、水守くんと話すの、好きだから」
言った瞬間、顔が熱くなる。
なんてこと言ってるんだろう、私。
水守くんは驚いたようにこちらを見て、それから視線を落とした。
拒まれたわけじゃない。
でも、何か言葉を探しているように見えた。
不安が胸をつつく。
“言いすぎたかな……?”
しばらくして、水守くんが口を開く。
「俺も……嬉しかったよ。白咲さんと話せて。
でも……俺、あんまり話すの得意じゃないし、迷惑だったらって……」
その言葉が、胸に強く刺さった。
どうしてそんなふうに思うんだろう。
どうして自分をそんなに低く見てしまうんだろう。
「迷惑なわけないよ。……そんなふうに思わないで」
気づけば、必死に伝えようとしていた。
電車が桜川駅に止まり、駅前の風に吹かれながら歩く。
同じ駅で降りる光景が、もうこんなに自然なのが少し不思議。
改札の前で立ち止まって、そっと手を振った。
「今日もありがとう。……また帰ろうね、水守くん」
言った瞬間、彼は一瞬驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「また」
その“また”の響きが嬉しくて、胸の奥で何かが灯る。
名前みたいに、小さな“灯り”が。
背中を向けて歩きながら、思った。
──もっと話したい。もっと知りたい。
いつか、ちゃんと想いが届くように。
そのための一歩は、もう昨日から始まっている。




