踏み出した一歩(蒼太視点)
桜川駅で白咲さんと別れた夜、なかなか寝つけなかった。
家が近い──ただそれだけの事実なのに、どうしようもなく胸がざわついた。
嬉しくて、でも、それ以上に怖かった。
“期待するなよ、俺”
何度言い聞かせても、白咲さんが見せたあの微笑みが頭に浮かんで、消えてくれなかった。
翌日の部活。
部室に入ると、いつもより少し早く白咲さんが来ていた。
窓際のパソコンの前で、メモを取りながら黙々と作業している。
その横顔を見ただけで胸が跳ねた自分が情けない。
俺なんかが期待していい相手じゃないのは分かってるのに。
「み、水守くん、おつかれさま」
「あ、うん……おつかれ」
昨日より少しだけ自然に話せた気がしたが、それが逆に怖かった。
部活が終わるころ、白咲さんがゆっくり立ち上がって振り返る。
「今日も……一緒に帰っていい?」
声が震えていた。
そのわずかな揺れに心臓が掴まれる。
「もちろん。俺でよければ……だけど」
言った瞬間、しまったと思った。
“俺でよければ”なんて、また余計なことを。
けれど白咲さんは、ふっと柔らかく笑った。
「水守くんがいいの。……だめかな?」
胸の奥が、きゅっと痛くなる。
そんな言葉を向けられる資格なんて、俺にはないはずなのに。
「だめじゃないよ。……ありがとう」
二人で部室を出る。
昨日よりも自然な歩幅で並べている気がした。
学校の最寄り駅までの道、白咲さんがぽつりと話し始める。
「昨日、びっくりしちゃった。家、近かったんだなって」
「俺も。まさか同じ駅だとは思わなかったから」
そこまで言って沈黙が落ちる。
でもそれは、決して嫌な沈黙じゃなかった。
電車に乗り、昨日と同じ並びで座る。
向かいの窓に映る俺の顔は、どこかぎこちなく緊張している。
桜川駅が近づいてきたころ、白咲さんが小さな声で話し始めた。
「ねえ、水守くん。……昨日の帰り、すごく嬉しかった」
心臓が跳ねる。
「え? なんで……?」
「なんでって……同じ駅だって分かって、一緒に帰れて……。私、水守くんと話すの、好きだから」
息が止まった。
何か返さなきゃいけないのに、喉が動かない。
嬉しすぎて、怖すぎて、何も言えなかった。
沈黙が落ちる。
でも白咲さんは、責めるような表情を浮かべたりしない。
ただ、少し不安そうに俺の言葉を待っているだけで。
──ここで黙ったままだと、きっと後悔する。
勇気を振り絞るように、言葉を押し出した。
「俺も……嬉しかったよ。白咲さんと話せて。
でも……俺、あんまり話すの得意じゃないし、迷惑だったらって……」
途切れ途切れの言葉。
それでも、今の俺には精一杯だった。
すると白咲さんは、少しだけ目を見開き──
「迷惑なわけないよ。……そんなふうに思わないで」
その言い方が優しすぎて、胸がさらに苦しくなる。
電車が止まり、桜川駅のホームに降りる。
夕方の風が心地よくて、それすら白咲さんと共有できている気がした。
改札手前で立ち止まって、白咲さんが小さく手を振る。
「今日もありがとう。……また帰ろうね、水守くん」
「あ……うん。また」
その“また”にどれほど救われたか、きっと彼女は知らない。
白咲さんの背中が人混みに消えていくのを見送りながら、胸の奥に温かいものが残った。
期待しちゃいけないと思っても、抑えようとしても──
気持ちは、もう言うことを聞いてくれそうになかった。
明日が来るのが少し楽しみだと思ったのは、いつぶりだろう。




