初夏、少しずつ動き出す心(灯視点)
パソコン部の活動が終わったころ、夕日の光が部室に差し込んでいた。
キーボードの音が止まった後の静けさが、どこか名残惜しい。
今日、水守くんはずっとパソコンと向き合っていた。
集中している横顔はとても整っていて、時々眉を寄せる仕草なんて、ずっと見てしまいそうになる。
「じゃ、今日はここまで!」
田島先輩の明るい声が響き、部室の空気が一気に緩んだ。
水守くんが鞄を持って立ち上がるのが見えた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
──今日こそ、一緒に帰りたい。
そう思ったのに、近づく足は少し震えていた。
「水守くん、帰るの?」
声をかけると、彼は驚いたようにこちらを見た。
その目が、一瞬だけ不安を孕んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「うん。白咲さんも?」
「うん。今日の作業、すごく集中してたよね」
本当にそう思ったから言っただけなのに──
「いや、俺なんか……全然だよ」
その“俺なんか”という言葉が胸の奥を刺す。
どうしてそんなふうに否定するんだろう。
褒めたかっただけなのに。
彼を少しでも認めてあげたかったのに。
でも、それ以上追及するのは怖くて、何も言えなかった。
二人で校門を出る。
いつもより少し近い距離なのに、なぜか手を伸ばすには遠く感じた。
歩くたびに、白いシャツの袖が風に揺れる。
その横顔はどこか固くて、心ここにあらずという感じで──
それでも、隣にいられるだけで嬉しかった。
思い切って口を開いた。
「ねえ、水守くん……駅まで、一緒に行ってもいい?」
返事が返ってくるまでの数秒が長くて、息が詰まりそうになる。
「いいよ。……白咲さんでよければ」
どうしてそんな言い方をするの。
“よければ”なんて、そんなの、こちらの気持ちを全部否定するみたいだ。
本当は胸が痛くなったけれど、顔には出さなかった。
嫌われたくないから。
電車に乗ると、少し間を置いてから思い切って尋ねる。
「水守くんの最寄り駅って、どこ?」
知りたい理由なんて、いくらでもあった。
でも本当は──
もっと近くにいたい、ただそれだけ。
「俺? 桜川駅だけど」
その瞬間、心の中で何かが弾けた。
「……えっ。私も桜川駅だよ」
言葉にしてしまった途端、頬が熱くなる。
嬉しすぎて、声が震えそうになる。
けれど、すぐに不安が胸に浮かぶ。
──迷惑じゃないかな。
──重いと思われないかな。
そんな考えがよぎったけれど、水守くんが小さくつぶやいた。
「そうだったんだ……近かったんだな」
その声はどこか戸惑っていて、でも少しだけ柔らかかった。
「ね。……嬉しいかも」
本音を言うと、彼はどんな顔をするだろうか。
そう思って横を見たのに、水守くんはほんの一瞬だけ視線を落とした。
まるで期待を押し殺すみたいに。
──どうして、そんなふうに自分を低く見るの。
降りた桜川駅のホームは夕焼けでオレンジ色に染まり、水守くんの影が長く伸びていた。
その背中を追い越す勇気は、まだ持てそうにない。
改札の前で振り返って、いつもの笑顔を作る。
「じゃあ、水守くん。また明日」
「……うん。また明日」
たったそれだけで心が満たされる自分が、どうしようもなく切なかった。
──近くに住んでいても、心の距離はまだ遠い。
そんな現実を噛みしめながら、家への道を歩いた。




