第六章「再生の朝」
この物語を開いてくださり、ありがとうございます。
ここに描かれるのは、ひとりの小さな選択が、やがて世界を変えるほどの軌跡へと繋がっていく物語です。
運命に抗う者。
信じる力を見失いかけた者。
そして、希望をもう一度見つけようとする者。
彼らが紡ぐ“想い”の行方を、どうか見届けてください。
ほんの少しでも、あなたの心に残る瞬間がありますように。
それでは、物語の扉を開きましょう――。
夜が明けた。
雪は止み、街を包む白は、やがて淡い光へと変わっていく。
病院の屋上で、俺はひとり立っていた。
胸ポケットには、焼け焦げたデータチップ。
あの夜の“すべて”が詰まった、小さな欠片。
下の階の病室では、彼女が眠っている。
凛でも、葵でもない——“彼女”が。
医師は言った。
「脳の活動は安定しています。ただ……過去の記憶は、すべて消えています」
“すべて”というその言葉が、心の奥で鈍く響いた。
あれほど苦しみ、愛し、失った記憶が——跡形もなく消えたのだ。
けれど、不思議と涙は出なかった。
彼女の顔を見たとき、確かに思ったのだ。
これは、罰ではなく、“救い”なのだと。
屋上のフェンス越しに、朝日が昇る。
雪を溶かし、世界を染めていく光の中で、
俺はあの声を思い出していた。
——“もしも私が、私じゃなかったとしても、それでもあなたは私を愛してくれる?”
あの問いの答えを、俺はようやく見つけた気がした。
扉の音。
振り向くと、白いコートの彼女が立っていた。
包帯が巻かれた腕。
けれど、その瞳は、澄んでいた。
「……ここに、いたんだね」
声は穏やかだった。
懐かしくも、新しい響き。
凛の声でも、葵の声でもない。
それは、“彼女自身”の声だった。
俺は微笑み、頷いた。
「調子はどうだ?」
「夢を見たの。知らない海辺で、誰かと笑ってる夢。
でも、誰だったのか思い出せないの」
「……そうか」
彼女は空を見上げ、目を細めた。
「でも、不思議なの。胸の奥が温かくて……懐かしいの」
朝日が、彼女の頬を照らした。
その光の中で、ふと風が吹き、
彼女の首元から、銀のペンダントが覗いた。
それは——
“R+Y”の刻印が入った金属タグ。
俺は息を呑んだ。
それは、二人が出会った証だった。
事故の夜、失われたはずの記憶の鍵。
彼女はそれを指でなぞり、微笑んだ。
「これ、気づいたら握ってたの。
どうしてかわからないけど、手放したくないの」
その笑顔は、凛でも葵でもなく——
彼女のものだった。
「なあ……」
俺はゆっくりと口を開いた。
「名前を、つけてもいいか?」
彼女は目を丸くして、少し考えるように首を傾げた。
「……うん」
朝の光の中で、彼女の髪がきらめいた。
新しい命が、ここから始まる。
「——“玲”。
凛と葵、二人の想いが残した、“零からの始まり”」
玲は、その名を口にしてみた。
「……れい……いい名前ね」
静かに笑いながら、彼女は俺の手を取った。
その手は温かく、確かな鼓動が伝わってきた。
沈黙の中で、俺たちは空を見上げた。
雪解けの光が、世界を優しく包む。
「ねえ……」
玲が囁いた。
「これから、どこへ行こうか」
俺は少し考え、微笑んだ。
「行きたい場所がある。
——海だ。葵が好きだった場所」
「海……」
玲は目を細め、朝日に照らされていた。
「行ってみたい。
その海を見たら、きっと何か思い出せる気がするの」
「きっとな」
そして、俺たちは歩き出した。
白い世界に、ふたつの足跡を残しながら。
過去を背負うことも、未来を恐れることもなく。
ただ、今という瞬間を生きるように。
凛が遺した“愛”。
葵が託した“記憶”。
そして——玲が生まれた“朝”。
そのすべてが、ひとつに溶けていく。
病院の屋上に、風が吹いた。
雪が舞い、光が差し込み、
どこか遠くで、優しい声が聞こえた気がした。
——「ありがとう」
俺は立ち止まり、空を見上げた。
雲の向こうに、光の粒がふたつ並んでいた。
それはまるで、凛と葵が見守っているように。
そして俺は、静かに呟いた。
「さようなら。
そして——はじめまして、玲」
朝の風が、すべてを包み込むように吹き抜けた。
世界は、ようやく、再生を始めたのだった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語の登場人物たちが、あなたの心に少しでも息づいてくれていたら嬉しいです。
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次回も心を込めて書きます。
またこの世界でお会いできるのを楽しみにしています。
――ありがとうございました。




