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第四章「禁断のファイル」

 目を覚ますと、そこは見慣れた病室だった。

 白い壁。冷たい空気。

 心電計の規則的な音が、静寂の中で微かに響いている。


 だが、違っていた。


 窓の外には、雪が舞っていた。

 季節が変わっていた。

 俺が、どれほど眠っていたのかもわからなかった。


 手元の時計は止まり、カレンダーの日付は十二月のまま。

 病院の扉をノックする音がして、

 ドアの向こうから凛が現れた。


 白いコート。

 雪の粒を髪に散らしながら、彼女は微笑んだ。


 「おはよう、悠真」


 その声は、あの頃と何も変わらないはずなのに、

 どこか、遠くから聞こえるようだった。


 「……どれくらい、眠ってたんだ?」

 「二ヶ月よ」

 「二ヶ月……?」


 彼女は頷き、そっとベッドの脇に腰を下ろした。

 「身体は大丈夫? 少し記憶が混乱してるかもしれないけど……」

 「……葵、という女性を、覚えてるか?」


 その名を口にした瞬間、

 凛の手が止まった。

 空気が、張りつめる。


 「また……その名前」

 「“また”って、どういう意味だ?」


 凛は目を伏せ、

 静かに言った。


 「あなたは何度も、同じ夢を見てるの。

  葵という人に会った、と。

  でも……そんな人、現実には存在しないのよ」


 「違う……俺は見た。記録も見た。病院の地下で」


 凛はわずかに微笑み、

 その指を俺の唇にそっと当てた。


 「——もう、思い出さなくていいの」


 


 その夜、眠れなかった。

 病室の時計の針が、秒を刻むたびに心臓が痛んだ。

 凛の言葉の裏に、何かがある。

 それを確かめなければ、

 この“自分”が本当に自分なのかすら、わからなくなる。


 


 夜更け、凛が眠ったのを見計らい、

 俺はナースステーションを抜け出した。

 あの地下へ——。


 しかし、前に通った通路は封鎖されていた。

 鍵がかけられ、ドアの前には警備システムが設置されている。


 それでも諦められなかった。

 配線の隙間から覗くと、赤いランプがかすかに光っていた。

 そこにUSBポートのような差込口がある。


 俺はポケットから、小さな金属片を取り出した。

 事故前に身につけていたキーホルダー。

 金属製のタグの裏に、

 “R+Y”の刻印と、暗号のような数字列が刻まれていた。


 ——それが、鍵だった。


 ランプが一度点滅し、

 扉が静かに開いた。


 


 中は、研究室だった。

 無数のモニターと、並んだデータ端末。

 蛍光灯の光が白く冷たい。


 その一角に、見覚えのあるファイルがあった。

 「記憶転写実験」


 指先が震えながら、ファイルを開く。


 中には、

 被験者A:葵(死亡)

 被験者B:悠真(記憶消去)

 被験者C:凛(記憶融合)


 ——“融合”?


 背筋が凍った。

 読み進めると、そこには凛の脳画像と、葵の神経データが重ねられていた。

 まるで、二人の記憶をひとつに縫い合わせたような映像。


 > 『被験者C、転写成功。

 >   対象Bの記憶との共鳴反応を確認。

 >   以後、感情の不安定化が顕著。

 >   被験者Cは“葵”の人格を断片的に再現し始める』


 モニターの下に、もうひとつのデータファイルがあった。

 “凛・個人記録”


 再生ボタンを押す。


 映像の中で、白衣姿の凛が椅子に座っていた。

 顔はやつれ、目の下には深い影が落ちていた。


 > 「——彼は、葵を愛していた。

 >   でも、葵は事故で死んだ。

 >   あの人の心を壊さないために、私は選んだ。

 >   葵の記憶を、自分の中に移すことを。

 >   彼が、もう一度私を愛せるように」


 凛の声が震えていた。

 > 「でも……最近、葵の声が聞こえるの。

 >   私の中で、何かがもう一人の私を呼んでる。

 >   “彼を返して”って」


 映像がノイズに包まれ、途切れた。


 


 俺は膝の力が抜け、床に崩れ落ちた。

 凛の微笑みが、頭の中で何度も再生される。

 あの優しさは、

 葵のものだったのか。

 それとも、凛自身の愛だったのか。


 


 背後で、静かにドアが開いた。


 「……見てしまったのね」


 振り返ると、そこに凛が立っていた。

 白衣のまま、静かに。


 「あなたには、知らない方が幸せだったのに」


 「どうして、そんなことを——」


 凛はゆっくりと歩み寄り、

 頬に手を伸ばした。

 その手は冷たく、震えていた。


 「あなたを失うくらいなら、私が壊れてもいいと思った。

  でも、あの子は……まだ、私の中で泣いてるの」


 「葵が……?」


 凛は微笑んだ。

 涙が頬を伝いながら。


 「ねえ、悠真。

  もしも私が“私じゃなかった”としても——

  それでも、あなたは私を愛してくれる?」


 その言葉が空気を震わせ、

 部屋のモニターが一斉に点滅した。


 > 【記憶同期プログラム:最終段階へ移行】


 凛の身体が、ふらりと揺れる。

 脳波モニターが警告音を鳴らす中、

 彼女は静かに呟いた。


 「……これで、ようやく全部、ひとつになれる」


 


 モニターの光が強くなり、

 俺の視界が白く塗り潰された。


 次の瞬間、

 聞こえてきたのは——

 凛の声ではなく、

 葵の声だった。


 ——「お願い、止めて。

   私たちは、もう“同じ人間”になっちゃいけない……」


 


 そして、全ての光が消えた。

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