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第三章「記憶の断片」

 窓の外に、鈍い光の朝が滲んでいた。

 雨上がりのアスファルトが光を反射し、

 世界がどこか、現実と夢の中間のようにぼやけて見えた。


 寝室のドアを開けると、凛がキッチンでコーヒーを淹れていた。

 湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いが漂う。


 「おはよう」

 「……ああ」


 声を出した瞬間、自分の声がどこか他人のもののように感じた。

 テーブルの上には、黒い手帳が置かれている。

 俺の名前が印字されたタグ。

 退院の際に病院から渡されたものだ。


 「それ、見た?」

 凛の声。

 俺は首を横に振る。

 「あなたの日記よ。事故の前に持ってたもの。

  何か、思い出す手がかりになるかもしれない」


 ページを開くと、

 黒いインクの文字が並んでいた。


 > 『9月12日 約束の準備はできた。

 >   彼女を連れて、あの場所へ行く』


 “彼女”——誰のことだ?

 凛は、静かにこちらを見つめている。

 その瞳の奥に、読み取れない影があった。


 


 午後。

 俺は一人、病院を再訪していた。

 佐久間医師に頼まれた定期検診のはずだったが、

 受付を抜けた足は、無意識に地下の方へ向かっていた。


 “何かが、そこにある”

 そんな感覚が、ずっと消えなかった。


 薄暗い階段を降りる。

 壁の蛍光灯が一瞬だけ点滅し、静寂の中に小さな電気音が響く。


 ——そして、見つけた。


 「研究資料室・立入禁止」


 半開きの扉の隙間から、冷気が漏れている。

 その奥に、白いモニターの光が見えた。


 机の上には、データディスクが数枚散らばっている。

 ひとつのファイルに、視線が止まった。


 > 【記憶転写実験:被験者 R・Y】


 “R・Y”——凛・悠真。

 胸の鼓動が速くなる。

 クリックすると、映像データが開いた。


 ——そこには、俺がいた。

 白衣の男たちに囲まれ、頭に電極をつけられた自分。

 隣のベッドには、眠る女性。

 その横顔を見た瞬間、息が詰まった。


 葵。


 夢で見た、あの海辺の女。

 確かに、そこにいた。


 映像の中で、医師の声が響く。

 > 「被験者A・葵、脳活動停止。

 >   記憶データを対象R・Yへ転送開始」


 次の瞬間、モニターのノイズの中で葵の唇が微かに動いた。

 > 「……ごめんね、悠真」


 世界が、崩れ落ちた。


 


 「何をしているの?」


 背後から声がして、全身が凍る。

 振り返ると、そこに凛が立っていた。

 冷たい目をしていた。


 「どうして、ここがわかったの」

 「説明してくれ。これは何なんだ? 俺と……彼女は——」

 「彼女?」


 凛がゆっくりと歩み寄る。

 蛍光灯の光が、その頬を白く照らす。

 「あなたの記憶は、まだ完全じゃないの。

  混乱してるだけよ」


 「嘘だ……! 俺は見た。葵という女性を!」


 凛は一瞬だけ目を細め、

 そして、微笑んだ。


 その笑顔は、まるで仮面のようだった。


 「——葵なんて、最初からいないのよ」


 


 彼女の声が、静かに響いた。

 だがその直後、

 モニターのスピーカーから微かな音が漏れた。


 > 『……逃げて、悠真』


 女性の声。

 確かに“凛ではない”誰かの声。


 凛の目が一瞬だけ見開かれた。

 その表情に、確かな恐れが宿っていた。


 


 そして俺は、理解した。

 “記憶を失った”のではなく、

 “書き換えられていた”のだ。


 


 頭の奥で、誰かの泣き声がした。

 葵の声。

 彼女は叫んでいる。

 凛の中から、俺に向かって。


 ——「思い出して。あの日、私を選んだのはあなた」


 


 視界が霞む。

 耳鳴りが激しくなり、世界が遠ざかっていく。


 倒れ込む俺を見下ろしながら、

 凛は何かを呟いた。


 「……ごめんなさい。あなたには、まだ早いの」


 最後に見たのは、

 モニターの隅で点滅する文字だった。


 > 【記憶同期プログラム:再起動中】


 


 暗闇の中、

 俺の心だけが、誰かの名前を叫び続けていた。


 ——葵。

 ——俺は、君を忘れたのか。

 それとも……奪われたのか。


 


 そして次に目を覚ましたとき、

 病室の窓からは、もう冬の光が差し込んでいた。

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