第二章「壊れた写真」
退院の日、窓の外にはうす曇りの空が広がっていた。
病院の白い廊下を抜けるたび、靴底の音が小さく反響する。
凛は手続きを終えると、微笑みながら振り向いた。
「これで、やっと帰れるね」
その声に、安心よりも、なぜか淡い緊張が走った。
“帰る”——その言葉が、どこか異物のように胸にひっかかる。
どこへ? 誰の家へ?
自分の家の間取りすら思い出せない。
病院を出ると、車の中には静かな音楽が流れていた。
ピアノの旋律。
そのメロディに触れた瞬間、背筋を走るような既視感があった。
——潮の匂い。
——夕焼けの浜辺。
そして、誰かが笑っていた。
音が遠ざかり、現実が揺らぐ。
「悠真?」
ハンドルを握る凛の声で我に返る。
「ごめん、ちょっと……」
「無理しないで。まだ、完全に治ってないんだから」
凛はやわらかく笑いながら、信号の青に目を向けた。
その横顔を見た瞬間、胸の奥に、説明のつかない違和感が芽生えた。
“この距離、この空気、すべてが……どこか違う”
アパートの玄関を開けると、柔らかい花の香りが漂った。
白い壁、整えられた家具。
けれど、その空間はまるで、誰かの“記憶の中の部屋”を再現したように整いすぎていた。
リビングの隅、飾り棚の上に写真立てが並んでいる。
凛が荷物を片づけている間に、俺は無意識にそのひとつを手に取った。
——ガラスが、割れていた。
フレームの中には、笑顔の自分と、もうひとりの女性。
それは凛ではなかった。
髪は短く、瞳は凛よりも淡く澄んでいた。
指先が震える。
名前が喉まで出かかって、消えた。
「それ……どうしたの?」
背後から凛の声がした。
振り向くと、彼女の顔が一瞬だけ固まった。
「この人……誰?」
問いかけると、凛は目を伏せ、淡く微笑んだ。
「職場の同僚よ。あなたが撮ってくれた写真なの。
たぶん、落としたときに割れちゃったのね」
同僚——。
そう言う声が少しだけ掠れていた。
俺はそれ以上、何も聞けなかった。
彼女の手が、そっと写真立てを取り上げる。
割れたガラスの破片が、光の粒のように床に散った。
夜。
寝室の隣で、水の流れる音が聞こえた。
浴室の扉の隙間から、微かに凛の歌声が漏れてくる。
それは、あのピアノの旋律と同じ旋律だった。
——波間に消えるような声。
——海の風に似た優しさ。
胸の奥で、誰かの笑顔が浮かぶ。
“また、この歌を歌ってね”
そう囁く声が、夢と現実の境をぼやかしていく。
眠れぬまま、ふと立ち上がり、リビングへ向かう。
照明をつけず、月明かりだけを頼りに棚の前に立つ。
さっき凛が片づけたはずの割れた写真立て。
それが、戻っていた。
しかも——中の写真が、消えていた。
空のフレーム。
その背面に、小さく書かれた文字があった。
> “Aoi + Yuma, 9.14 海辺の約束”
指先でなぞった瞬間、脳裏に映像が弾けた。
波打ち際、夕暮れ、彼女が微笑んでいる。
その手には、青いブレスレットが光っていた。
——“必ず、迎えに来てね”
胸の奥が痛む。息が詰まる。
記憶の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
浴室の扉が開く音がして、我に返った。
凛がタオルで髪を拭きながら、こちらを見る。
「どうしたの? こんな時間に」
「……この部屋、俺たちの家なんだよね?」
彼女は数秒、沈黙した。
そして、微笑みながら答えた。
「そうよ。
あなたと、私の“はじまりの場所”」
その言葉の“はじまり”が、
まるで“終わり”のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
その夜、眠りの底で、再び誰かが呼ぶ。
——「悠真、逃げて」
凛の声ではなかった。
知らないはずの女性の声が、確かに俺の名前を呼んでいた。




