第三話・声の主
あんなに遠かった岩場を目の前にして、由衣はため息をついた。
振り返ると飛び石が続いていて、その先には海上に浮かぶ日本家屋が見える。大きな木造の長屋で、立派な屋根瓦が日差しを照り返し黒々と輝いている。自分はあそこで目覚めたのか、と由衣は思う。摩訶不思議な体験をしている自覚はあるが、今はそれどころではない。とにかく、あの声の主に会ってこの洋上から脱出しなければ。
由衣はもう一度前を向くと、最後の一飛びで岩場に着地した。思わず前のめりになり手をついた由衣は、手のひらに付いた小石を払いながら立ち上がる。
周囲を見回してみたものの、あの声の主は見当たらない。岩場は平らで見通しがいいが、奥の方は小山のような盛り上がりがいくつもあって先が見えない。あの裏側にいるのかもしれない、と思い、由衣はそちらに向かった。
小山の後ろを覗き込んだ由衣は驚いた。そこには狐のぬいぐるみが落ちていたのだ。さらに奥まで行ってみたが、人の姿はない。小山の向こうは行き止まりで、その先はやはり大海原が広がるばかりだった。
由衣は戻ってきてぬいぐるみを見下ろす。薄汚れたそれは、つぶらな瞳の狐が腹巻きをして袴のようなものを履いている。リアルな狐ではなく、二足歩行の姿勢をとっているので、どこかの自治体のゆるキャラか、あるいはアニメのキャラクターだろう。ただ、どれだけ見つめてもぬいぐるみはぬいぐるみだ。
由衣ははぁ、と息を吐くとぬいぐるみの横に座り込んだ。苦労してここまで辿り着いたのに、待っていたのはぬいぐるみ一個。先ほど聞こえた声もただの幻聴だったようだ。そうなると、幻聴相手に声を張り上げて会話していた自分が急に惨めになってきた。波の音の中、底抜けに晴れた青空を見上げた。由衣の心を、急に大きな不安が襲う。もうここから出られないかもしれない、そう思うと目頭が熱くなるのを感じた。
泣いてしまったらもう立ち上がれない気がして、由衣は目をぎゅっと瞑った。その時だった。
「なんや、泣いてる場合ちゃうで姉ちゃん」
すぐ近くであの声がして、由衣は心臓が飛び出そうになった。すぐに目を開け周りを見回す。やはり人影はない。
「こっちやこっち、下向いてみい」
声がする方に、恐る恐る視線を落とした。そこにはあのぬいぐるみがあった。
由衣は自分の見ているものが信じられなかった。ぬいぐるみの顔が、こちらを向いている。その口が、ゆっくりと開く。
「わかるで、言いたいことは」
ぬいぐるみが喋った。その事実を脳がなんとか処理した瞬間、由衣は悲鳴を上げていた。
「わかった、わかったから!」
ぬいぐるみが必死になだめるが、由衣は叫び続ける。
「言うたやろ!ここから出したるって!」
それを聞いた瞬間、由衣の絶叫が止む。
「それって・・・・・・あなたが言ったの?」
「せや、わてが姉ちゃんを呼んだんや」
コテコテの関西弁を駆使するこのぬいぐるみは、話し方がぎこちない。口の筋肉がつって、うまく喋れないような感じだ。
「大丈夫?」
由衣が心配そうに聞いた。
「よう聞いてくれた。実は体の自由が効かんくてな」
「どうして?ていうか、なんでここにいるの?ていうか、ここはどこ!?」
由衣の声が一言ごとに大きくなる。
「いっぺんに聞かれても答えられへん」
喋りにくそうにぬいぐるみが答える。
「あ、ごめんなさい」
由衣はぬいぐるみに頭を下げる自分におかしくなったが、笑う余裕はない。
「実はな、わては悪い奴らにここに閉じ込められてんねん。姉ちゃんと一緒や」
「なんで?私何も悪いことしてないのに」
「それはわても同じや。ええか、悪い奴らにそんなん関係ないねん」
由衣は何が何だかわからない。
「ここにおったら殺されるで」
「こっ、殺される?」
由衣が唾を飲み込む。
「せや、だからはよ抜け出さなあかんねん」
「な、何をすればいいの?」
「まずは、やな」
由衣はぬいぐるみの顔を覗き込む。
「わてを持ち上げてくれ」
「えっ?」
「喋るん辛いねん、何回も言わせんとって」
「ああ、ごめんなさい」
由衣は恐る恐るぬいぐるみに手を近づける。
「優しぃ持ってや」
由衣は頷くと、ぬいぐるみの両脇に手を入れ、持ち上げた。
次の瞬間、由衣は、ぬいぐるみの全身にまるで生き物のように力が入るのを感じた。驚いたのはその後だった。ぬいぐるみは、だらんと垂れていた上半身を起こして由衣を見たのだ。
「ひぃ!」
流石に怖くなり、由衣は手を離してしまった。
ぬいぐるみは空中でひらりと身を翻すと、見事に後ろ足で着地した。そのまま身を起こし、まるで人間のように背筋を伸ばして立った。
「ご、ごめん、大丈夫だった?」
恐る恐る謝る由衣をつぶらな瞳で見つめて、ぬいぐるみは口を開く。
「まあまあやな、初めてにしては悪ないで」
そして飛び石の方を向くと、すたすたと歩き出した。
「えぇ、どこ行くの?」
「ここから出るんや。それが望みやろ?」
「そうだけど、何が何だか」
ぬいぐるみは軽やかに飛び上がると、一つ目の飛び石に難なく着地した。由衣も急いで後を追う。
「なんで急に動けるようになったの?」
「わてはな、呪いで体の自由を奪われてたんや」
「呪い?そんなものあるの?」
海に落ちないよう、足元に注意を払いながら由衣が聞いた。
「あんた狐と喋ってんねやろ?今更呪いを信じられへんのか?」
「まあ、たしかに」
由衣はよろけそうになり少し焦る。ぬいぐるみ、もとい、狐を見ると、相変わらず軽やかに飛び石を渡っていく。置いていかれまいと、由衣は体勢を立て直す。
「あいつらはわてをこの空間に閉じ込めるだけでは飽き足らず、動きを封じる呪いをかけたんや」
「それがなんで解けたの?」
「解いたんはあんたや、姉ちゃん。呪いを解く方法は一つ、人間がわてに触れることや」
「触れるだけでいいの?」
「呪いなんてシンプルなもんや。複雑化してもええことないからな」
「呪いに詳しいんだね」
狐は立ち止まり、由衣を振り返る。
「当たり前や、わては元々高尚な狐やねん。呪いの類には精通しとる」
「へえ」
由衣はどう返すのが正解かわからない。
「そやのに、あいつらにこんなしょぼいぬいぐるみに閉じ込められて、このザマや」
やっぱりぬいぐるみだったんだ、と由衣は思った。
「ぬいぐるみの中に閉じ込められてるって、脱げない着ぐるみみたいな感じ?」
「まあ三次元でわかりやすぅ例えると、そうなるな」
由衣はしばらく考えた後、気になっていたことを尋ねた。
「あの、なんて呼んだらいい?」
「どういう意味や?」
「あなたの名前は、名前はなんていうの?」
狐は少し驚いたような表情を見せた。
「そうか」
「え、ごめん、気に障ること言った?」
「いや、そんなん人間に聞かれたん初めてやったから・・・・・・意外でな」
「そうなんだ。私は由衣、白澤由衣」
「ふーん」
狐は含みのある声色でそう言うと、由衣の顔をまじまじと見た。
「な、何?」
「いや、何でもない。わてのことは、あげ太って呼んでくれ」
「あげ太?」
予想に反したかわいらしい名前に、由衣は微笑んだ。
「なんであげ太なの?」
「そら姉ちゃん、おあげさんが好きやからや」
「おあげさんって、油揚げ?」
「そうそう。あのジューシーさとふわふわの食感、お出汁が染みてたらもう・・・・・・」
そこまで言って、あげ太はふふんと笑った。油揚げを思い浮かべているのだろうか。目を細め、幸せそうな笑みを浮かべるそのぬいぐるみは、控えめに言ってめちゃくちゃかわいい。
その時だった。和やかな時間に冷や水をかけるように、雷鳴が轟いた。
「え、なんで?こんなに晴れて・・・・・・」
そこまで言って、由衣は言葉に詰まる。見上げると、つい数秒前まで雲一つなかった青空に、積乱雲が渦巻いている。黒々とした大きな雲は、とぐろを巻く龍のように由衣とあげ太の頭上に立ち昇る。
「何・・・・・・これ?」
「あかん、見つかった」
「見つかった?何に?」
そう聞いた由衣の方にぽつりと水滴が当たる。それを合図にするように、銃弾のような雨粒が降り注いだ。
「どうなってるの!?」
息もままならないほどの豪雨に顔を伏せながら、由衣が叫ぶ。
「防犯システムや!わてらが逃げようとしてるのを感知して、邪魔してるんや!」
あげ太は短い前足で頭を守ろうと試みるが、すでにずぶ濡れだ。
「どうしたらいいの!?」
「どうもできひん!逃げるしかない!」
由衣は前方に浮かぶ日本家屋を指差す。
「あそこまで!?無理だよ、こんな波じゃ!」
いつのまにか海は荒れくれ、打ち付ける波が飛び石を乗り越えてくる。由衣はもうすでに何度か足を取られそうになっている。
「そうか?ほんならここに残って、あれが来るんを待つんやな」
あげ太が由衣の背後を指差した。由衣が振り向く。
由衣は息を飲んだ。水平線が上昇し、空を覆っている。それは巨大な波だった。低く見積もってもビル10階分はあるだろう。大波は遥か後方から近づいてきている。手前に見える岩場との距離感を見る限り、凄まじい速度でこちらに迫っているようだ。
「どうしたらいいの!?」
由衣はあげ太に向き直って叫んだ。
「生き残りたいか?」
由衣が頷く。
「ほなら道は一つや・・・・・・走れ!」