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第十話・糺の森

 日曜にしては珍しく、糺の森は空いていた。いや、それ以上だ。人がいない。由衣は歩き始めてすぐにその異変に気づいた。森は不自然なほど静まり返り、鳥のさえずりも聞こえてこない。葉が揺れる音もしない。風がないのだ。


 由衣は参道に沿って先を進む。この天気なら、普段は木々の間から柔らかい日が差し込み、地面の上に薄い影を落とす。ところが今日はやけに薄暗い。曇天かと思うほどに日差しは弱く、黒い影が草むらから木々の幹まで飲み込んでいる。


 無風の森を進む。耳を澄ましても自分の靴音しかしない。それもすぐに、薄暗い木々の間に吸い込まれて消えてしまう。辺りを何度見回してみても、人影はない。森の外の街の音も、全くしなかった。


 由衣はだんだん不安になってきた。無意識に歩く速度が上がる。何度も後ろを振り返っては森の入り口を確認するが、とうとう木々に遮られて見えなくなってしまった。背の高い木々がこちらに覆い被さってくるような錯覚を覚え、由衣は目を逸らした。


 ふと前方に視線をやった時、木の影で何か長いものがはためいた。由衣は思わず声を上げそうになる。音を出さないように立ち止まり、目を凝らす。それは、人間の髪だった。不気味なほど艶やかな黒髪の束が、木の枝にくくりつけられている。


 恐る恐る、それに近づく。髪の束は、ちぎり取られたように端がちぢれ、丸まっている。近くで見るとより一層不気味だ。


 パキッ、と音がして、由衣は飛び上がりそうになった。首を傾け、木の向こうを覗き込む。そして、息を呑む。女性が地面にうずくまっている。こちらに背を向けているが、それは美奈だった。


 声をかけようとして、由衣は奇妙な音に気づく。ぶち、ぶち、という途切れ途切れの音。その正体はすぐにわかった。美奈が、自分の髪を引きちぎっているのだ。ぶちぶちと痛々しい音を立てながら、次々と髪を抜いていく。みるみるうちに、頭皮が露わになった。頭皮は何度もこすったように赤く腫れ、血が滲んでいる。


 由衣はその異様な光景に、思わず後ずさる。と、次の瞬間。口を突然覆われ、由衣は心臓が飛び出そうになった。


「しーっ」


振り向くと、すぐそこに有紗の顔があった。


 有紗はそっと由衣の口から手のひらを離した。


「ごめんね」


「有紗、心配したんだよ」


お互い、小声で言葉を交わす。


「ありがと、私は大丈夫だよ」


有紗が言った。


「有紗、あれ美奈だよね?」


「うん」


「美奈何してるの?あれって・・・・・・」


「わかってる、やばいよね」


そう言って、有紗が木の影から顔を出す。由衣も後を追う。美奈は相変わらずうずくまったままだ。


「どうしたらいいんだろう」


由衣の言葉に答えず、有紗は黙り込んでいる。


「・・・・・・よし、私話してくる」


「えっ、本気?有紗」


「うん」


有紗が由衣を見る。


「だって、美奈も私には大事な友達だから。これが由衣だったとしたら、私絶対放っとけないもん」


「有紗・・・・・・」


「行ってくるね!」


 有紗は意を決すると、木陰から飛び出した。


「美奈!何してんの!」


有紗が美奈に駆け寄る。自分の髪を掴んだまま、美奈の動きが止まった。表情は見えない。


「美奈?」


有紗が恐る恐る呼びかける。返事はない。


「ねえ、美奈?」


有紗はゆっくりと片足を踏み出し、有紗との距離を埋めていく。


「ずっと心配だったんだよ」


有紗が左腕を伸ばし、皆に近づけていく。由衣は木陰からその様子を見守る。


「ねえ、美奈?私はいつでも味方だよ。話して?」


そばで見る美奈は別人と見紛うほど青白く、その背は痛々しいほど小さく思えた。有紗の頬を涙が伝う。もう数センチで、伸ばした手が美奈に届きそうだ。


「ねえ、何があったの?ねえ、美奈」


有紗の指先が、美奈の肩に触れた。


 次の瞬間。美奈の首が九十度回り、こちらを向いた。有紗も由衣も絶句した。美奈は白目を剥き、口を小さく開けていた。その顔は死人のように灰色で、痩せこけて頬骨が浮き出ていて、いつも明るく、頬が赤らみやすいことを気にしていた美奈とは、とても同じ人間に見えない。抜け落ちてまばらに残った前髪、その奥からのぞく両目は、白目が黄ばんでぶよぶよ膨れている。開いた口から見える前歯は所々抜け落ち、残った歯もあらぬ方向に曲がっていた。


「み、美奈・・・・・・」


ようやく言葉を発する有紗。と、ぎろりと眼球が回り、美奈の暗い瞳が有紗を捉えた。同時に、耳を押さえたくなる絶叫。美奈が獣のような雄叫びをあげた。


 思わず、由衣も木陰から飛び出す。


「有紗!逃げて!」


気づいた時にはそう叫んでいた。


「えっ、由衣?」


 振り返った有紗の背後に、立ち上がる美奈が見えた。次の瞬間、美奈が有紗に掴み掛かり、地面に押し倒した。


「やっやめて、美奈!」


有紗が両腕をばたつかせて抵抗する。


「有紗!」


由衣は駆け寄って皆を引き剥がそうとする。しかし、唸り声とともに美奈が腕を振り、由衣は突き飛ばされる。


「痛っ・・・・・・」


由衣は痛みを感じ、腕を見た。前腕に、獣に引っ掻かれたような傷が三本できていた。


「えっ?」


由衣は覚えのない傷に動揺しながら顔を上げる。そしてまた絶句してしまった。美奈の爪が長く、そして鋭く伸びていたのだ。ほんの前まで気づかなかった。いや、この一瞬で伸びたのか。由衣は混乱し、恐怖に駆られながらも立ちあがろうとした。しかし、体が動かない。そこでハッとする。全身の筋肉が痺れたような感じがして、力を入れられない。痺れの感覚を辿っていくと、腕の引っ掻き傷に行き着いた。


「これのせい?」


由衣は起こしていた上半身にも痺れが回り、完全に倒れ込んでしまった。


 視線だけを二人に向ける。有紗はまだ抵抗を続けている。


「美奈!美奈、やめて・・・・・・」


美奈が有紗の手首を掴む。じりじりと、有紗の腕が地面に押し付けられていく。


「・・・・・・美奈!」


有紗も必死に押し返す。両者の押し合いで、膠着状態になってきた。美奈が更に力を込める。伸びた爪が、有紗の手首に刺さり込んだ。


「痛い!」


有紗があまりの痛みに力を緩めた、その瞬間。がぶり、と美奈が有紗の二の腕に噛みついた。有紗が悲鳴をあげる。


「や、めて・・・・・・」


由衣は呟くが声が出ない。


「いやああぁぁ!」


有紗はのたうち回るが、美奈は噛みついて離さない。有紗の声が、だんだんと低く、悲痛なものに変わっていく。由衣は見ていることしかできない。


 美奈はかぱっと噛みついた口を離すと、肩で息をする有紗の顔を両手で掴んだ。声にならないうめき声を有紗が上げる。美奈は構わず、有紗のあごに手をやると、口を無理やりこじ開けた。


 そして、由衣を見る。


「美奈・・・・・・?」


美奈は由衣を見つめると、にたぁっと不気味な笑みを浮かべた。口角は不自然に反り上がり、その瞳は邪悪な光を放っている。


 そして再び有紗に視線を戻すと、顔をぐっと近づけた。由衣は一瞬、美奈が口付けしたのかとおもったが、その直前で止まっている。と、美奈が口を大きく開いた。次の瞬間、彼女の口から紫の煙が飛び出した。煙は吸い込まれるように、開かれた有紗の口に入っていく。


「や、め・・・・・・」


由衣は痺れた指先を必死に動かす。だが、少しばかり土を掘り返すだけで、何も変わらない。


 美奈は煙を吐きながら、由衣に視線を移す。まるで見せつけるように、その目元には薄ら笑いを浮かべている。


 有紗は目を見開き、バタバタと手足を動かしているが、抵抗する力は残っていない。


「有紗・・・・・・有紗・・・・・・」


由衣の目から涙が溢れる。それを堪える力も、今の由衣にはない。


 その時、由衣のすぐそばの草むらがガサッと音を立てたかと思うと、何かが飛び出した。それは目にも留まらぬ速さで美奈に飛びついた。


 ぎゃっと短い悲鳴をあげて、美奈が有紗から飛び退く。由衣は、美奈に飛びついた者の正体を視界に捉えた。


「あげ太!?」


あげ太は美奈の肩に噛みついている。


 背後から近寄る足音がして、由衣は痺れる体をなんとか揺すってそちらに視線を向ける。


「大丈夫か?」


そこには、九重新がいた。

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